その一 四方山話
§
――御文庫の蔵書が、物凄い勢いで増えてゆく。
若君はもともと、学問よりも武芸の鍛錬を好まれる方だ。
無論学問を疎かにしていらせられた訳ではないが、長い時間じっと文机や書見台に向かうという事がそもそも不得手でいらして、何か口実を見つけては席を立ちたがり、学問の師の君や母代である母上を失笑させる事が度々であった。
十を過ぎたあたりから、日中は表方で過ごされる時が長くなると、口煩い母上の目が表方まではあまり届かぬのを幸いとばかりに、外に出られては刀や弓矢や馬の稽古に時がたつのを忘れて夢中になられる事が多くなった。
どこからか若君のそういう御様子を耳に挟んだ母上が、その都度
『甲午丸!そなた、お側に控えておりながら何を致しておったのじゃ!』
何故にその場で主をお諫め申し上げぬかと私を厳しく叱責し、それを横から若君が
『甲午丸は悪うない、悪いのは私だ』
と慌てて取り成して下さって。
私に悪いと思われてか数日間は学問や書見に殊勝に身を入れられるものの、長くは続かずまた同じ事を繰り返される……それが日常の当たり前の光景だった。
ところが。
梅雨が明けたあたりからであろうか、若君が書見にそれまでにない程に熱を入れ始めた。
最初は時折お見かけする度に、おや珍しい、と思う程度であったのが、次第に奥向でも表方でも、毎日のように書見台に向かっているお姿を拝見するようになった。
そして師の君をお迎えするその都度、書を読んで疑問に思われた点についてしきりに質問を発せられ、学問にも熱心に取り組まれるようになっていった。
書庫というより納戸に近いのでは、と思われる程に書物が少なく物置場でしかなかった奥向の御文庫に、若君が取り寄せられた書物や巻物などが連日のように持ち込まれるようになり。
そしてそれらの整理のために、若君が日中でも奥向に長い事おられる機会が増え、若君お側仕えの私も奥向に伺候する事が多くなった。
何故に若君がこうまで変わられたのかは、判っている。
姫君様、だ。
御入輿当初から、姫君様が読書を好まれる事は奥向のみならず表方でも広く知られていた。
女子が好む歌集や物語の類ではない、近隣諸国や諸氏の成り立ちや逸話が判るような読み物や伝記・家譜、諸家に伝わる軍記物の類などを広く読みたいと仰せられては、御夫君である若殿にそれらの御調達をお願いしておられると、専らの評判であった。
姫君様の向学心の強さについては、母上からもしばしば耳にしてはいた。
奥向に入られてから真っ先に母上に問われたのが、琴島の成り立ちや御当家のしきたりについてであり、次第に御当家のみならず家臣諸家の由来についてもひとつひとつ問われ、そしてそれらを全て、聞いた端から砂に水が染みこむように即座に覚えてしまわれた、そうな。
琴島内部の事を一通り覚えられた所で、次に琴島を取り巻く様々な事情に興味を持たれた姫君様は、若殿や若君を連日のように質問攻めになされた。
奥向の若君の御居間に伺候している折など、私もそのような場面を度々拝見する事があった。
御病弱の御館様に代わり、時折御政務にも携わられておられる若殿は、無論琴島に関するどのような質疑に対しても即座にお答えになるだけの知識をお持ちでいらせられる。
だが。
若君は、若殿程には琴島の事情を御存知ではなかった。
未だ御元服前であり、その上御世嗣でない事の気楽さから、そのような知識を蓄える努力をついつい疎かにしがちであられたようだ。
姫君様が口にされる事細かな質疑に対して、若君はしばしば答えに窮しておられた。
それどころか逆に、若君が姫君様に教えを乞われるという事さえ、あった。
ある時、そのような所をたまたま御覧になられた若殿が
『そなたよりも姫の方が余程、琴島や当家の事情に通じておるではないか。琴島家当主の次子としてあまりに情けないと思わぬのか、松寿』
呆れた口調で溜息交じりに仰せられた。
普段の若君であれば、わざと弟君を挑発し奮起を促そうとするような兄君の御言動に対してはひどくむきになられて反駁なさったりするのだが……この時は居住まいを正された上で
『仰せの通りにござりまする、兄上。琴島家の者として全く面目ない限りにて。私も義姉上を見習うて一から精進致したく存じまする』
実に神妙な面持ちで、真摯に応えられた。
確か、その頃からだ。
姫君様がお読みになられた書物と同じものを、若君が別途調達しては必ず一通り目を通されて、御文庫の蔵書に加えられるようになったのは。
それだけではない。
それらの書物を読んで解らない箇所にぶつかった際、その事を調べるための書を更に他所から取り寄せて御文庫に常備されるようになった。
何時しか御文庫の棚からは、書物以外の物は一掃されていた。
あっという間に棚は書で埋め尽くされ、並べきれない書はひとつだけ常備されていた唐櫃に収めたが、程なくそれも一杯になると唐櫃がふたつみっつと増えてゆく。
蔵書が増えたおかげで、姫君様が御所望の書物をわざわざ他所に求めずとも、大抵は御文庫にて調達する事が可能になった。
だが。
蔵書が増えれば増える程、必要な書を若君おひとりで即座に探し出すという事が、次第に困難になっていった。
夏の暑さが募るにつれて、若君から御文庫の整理とは別に書物の捜索の事で奥向に度々お召しがかかるようになり。
日差しの強さが次第に和らぎ、朝夕は涼しいを通り越してやや肌寒さを覚えるようになる頃には、奥向の若君の許に伺候するのがほぼ日課のようになっていた。
その分、表方へのお出ましが激減した事に、若殿が
『学問に身を入れるようにとは申したが……ほんにそなたは程々という事を知らぬの』
苦笑を洩らされてそう仰せられたが、若君は涼しいお顔でただ笑っておられた。
二日か三日に一度、書の借用のために巳乃殿が若殿の許に伺候する。
書物の使いは必ず各務野に、と若君が直々に指名されたのだ。
『先だってのように、時には共に書を探してもらわねばならぬ事もあろうゆえ』
御文庫の書の配置を覚えてもらい、書を探す作業をなるべく迅速に行うために、使いは同じ者にしてもらえると有難いと、若君が姫君様に申し入れられた上での事であった。
当初はそれでも、巳乃殿の手を借りるまでもなく、若君と私とで書物を予め用意しておく事が出来た。
ところが間もなくそれでは間に合わなくなり……『時には』どころか、毎回巳乃殿に書物探しの手伝いを頼む状況になってしまった。
若君には、御文庫の唐櫃を御居間に運び入れてその中を探して頂き、その間に私が巳乃殿と共に御文庫の中を手分けして探す。
すぐに見つかる事もあれば、半刻程かかってもなかなか探し出せぬ事もある。
職務とは言え、狭い御文庫の中でふたり、ただ黙々と書物を探すというのも気詰まりなもので、私はなるべく巳乃殿に何かを話しかけるようにしていた。
最初は今日の天候の具合など、当たり障りのない話題にしていたのだが、次第にそれが探している書物の内容に関する事であったり、互いの境遇に関する事であったりと、様々な会話を交わすようになっていった。
主である姫君様の御薫陶ゆえであろうか。
巳乃殿もまた、御当家や琴島に関する様々な事に深い興味を抱いているらしく、そのような話題になると世間話をする時の気軽な調子ではなく、話のひとつひとつに至極真面目な反応を返してきた。
女子には少々難しかろうか、と思われるような、琴島を取り巻く各国の事情や、更には瀬戸の海の交易の話などにも、書を探す手を止めぬままに真摯に耳を傾けてくれる。
ただ相槌を打って聞き流している訳ではないというのは、話の節目節目で、私が言った事を要約して確認したり、解らぬ事を質問したりする態度で明らかであった。
巳乃殿のそのような姿勢は、話をする側にとっては大変心地良い一方で、緊張感を伴うものでもあった。
例え書物捜索の合間の四方山話程度の事であっても、これはいい加減な事は話せぬ……と。
私も若君に倣って、琴島や周辺各国の事情について一からきちんと調べ見直すようになった。
そのような硬い話ばかりではなく、互いの身内の事などもあれこれと語るようになり。
秋が深まる頃には、巳乃殿とは随分と打ち解けた調子で話せるようになっていた。
……だが。
砕けた会話の折に、ふっと
「巳乃殿」
心の中で思ったままに、ついそう呼びかけてしまう。
その度に
「も、申し訳ございませぬっ!」
返って来るのは、いつも同じ反応。
書を探す手を止めて、ぎょっとした表情をこちらに向けて、謝罪の言葉を口にしながら頭を下げる。
『兄上がよんだのがきこえていなかったんじゃないの?』
以前、私の愚痴を聞いた初之助がさらりとそう言った。
余計な思惑が絡まぬ童の素直な感想ゆえに、実の所そうなのかもしれぬ、そうであったらいいがと……その時は思った。
書を探しながらの会話ゆえ互いの顔を見ないままのやり取りだが、返って来る反応で、巳乃殿が私の話を細大漏らさずきちんと耳に留めてくれていると、判る。
一度や二度の事であれば、もしやその時だけぼんやりしていて呼ばれている事に気付かなかったのか、と考える事も出来る、けれど。
名を呼ばれた時だけ毎回、聞いていなかったなどという事は……流石に有り得まい。
恐縮した風で深く頭を下げたままの巳乃殿に、何やらこちらが申し訳ない事をしているような複雑な思いに駆られながら
「各務野殿は本当に……いつも、変わらぬの」
ふっと、ちいさく笑うと。
頭を上げながら、巳乃殿が少しほっとしたような顔を向けてくる。
その表情を目の当たりにする時が……何故かほんの少し、切ない。
§§
真名を呼ぶ事を迷惑に思われているのでは、という疑念を心の奥に抱きながら。
それでも最初に本人から聞かされた名乗りがそのまま強い印象として残っているがゆえに、太三郎はふと気を抜いた折につい『巳乃殿』と呼びかけては、各務野に酷く恐縮した態で謝られて、その都度微妙な自己嫌悪に駆られる事を繰り返していた。
その、何とも言い難い切なさの正体を……深く考える事もせずに。