その二 溜息
§
――流石に馴れ馴れしかっただろうか。
「兄上」
声に気付いて振り返ると、七つ年下の弟がちょこんと立っていた。
「どこかいたいの?」
幼い顔をちょっと曇らせる仕草が、可愛い。
「ああ、何でもないよ、初之助」
頭を撫でてやりながら
「そなた、何故そう思うた?」
ちょっと不思議に思って、問うてみた。
初之助は、んー……と首を傾げて
「あのね、兄上、さっきからほーってばっかりしてるの。初が兄上ってよんでもおへんじしてくれなかったの」
どう言い表したらいいのか解らないようで、それでも一所懸命、己が目で見ていた事を言葉にして伝えてくれた。
「そうか。あのな初之助。ほーってしているのは『溜息』と言うんだ」
「ためいき?」
「そう。ちと困ったなとか悲しいなとかいう時に、出るんだ、溜息というのが」
「じゃあ、兄上かなしいの?」
……しまった。
弟に新しい言葉を覚えさせる機会だと思って口にした事が、余計な墓穴を掘ってしまった。
「悲しくはないが、そうだなあ……ちと困っている、かな」
「なんで?」
幼子の追及は容赦がない。仕方がない。
「……あのな、今から私が話す事は、誰にも内緒だぞ?」
「ないしょなの?」
「うん、父上にも、母上にも、姉上にも、言うなよ。決して、な」
「けっして?」
「男子と男子の約束事だからな」
そう言うと、真ん丸い弟の両目がきらきらと輝いた。
「わかった、兄上!初はけっしてだれにもいわない。おのことおのこのやくそくだから!」
どうやら、男子同士の約束というのが気に入ったらしい。
「よし、ならば話してやる。あのな……」
話を聞き終わった初之助は、ぽかんとした顔をしていた。
「……ええと、兄上?」
「何だ?」
「おやかたにおつとめしているおなごが、なまえをよんでもおへんじしてくれない、の?」
「そうなんだ」
実際は色々と細かい事情があるのだが、幼子向けにかなり要約するとそういう事だ。
「それって、さっきの兄上みたいに?」
「さっきのは済まぬ。考え事をしていてそなたの声が聞こえなんだ」
「じゃあそのひとも、兄上がよんだのがきこえていなかったんじゃないの?」
「……だといいんだが、な」
そう言って、またひとつ、溜息をついてしまった。
「あ、また兄上ほーって、ためいきだ」
覚えたての言葉を早速使いながら、初之助が笑う。
あれは、聞こえていなかった、という訳ではなさそうだよ、な……。
つい今朝方の事。
若君の御用で早い時分から奥向に上がっていた所へ、姫君様のお使いで巳乃殿がやって来た。
その名の字は、先日、母上から伺った。聞いた時はえ?と思った。
『巳年の巳』
もしや、午年の自分よりもひとつ年上なのか?まさか。
どう見ても、ひとつ年下の妹の千保よりも幼げなのだが。
若君のお言いつけで、ふたりで御文庫で探し物をする事になった。
無言で御文庫に入り、辺りを見回しながら……さてどうしよう、と考えた。
先程までここで若君と、あちこちひっくり返しながらああでもないこうでもないと散々喋っていたのだが。
相手が変わると、しかも女子だと、どうにも勝手が違う。
彼女も、若君の御居間を出る時から黙りこくったままだ。
何とも気詰まりなこの状況を打開するために、とにかく何か話しかけてみようか、と思って、そこでふと考えた。
……何と呼びかければよいのだろう。
彼女の局名は、真名の字と一緒に、母上から教えて頂いた。
『各務野』と。
それは先程、若君の御前でも聞いた名。若君が彼女にそう呼びかけていらせられた。
だからやはり、そう呼ぶべきなのだろうか。
だが、当の本人が私に教えてくれたのは『巳乃』の方だ。
大切な真名を教えてもらっておきながら、局名で呼びかけるというのは、如何なものか。
……決めた。
「――巳乃殿」
一瞬、彼女ははっとしたように顔をこちらに向けて。
「も、申し訳ございませぬ!」
え?
何か、まずい事を言ったか?
「あ、いや、驚かせたか?済まぬ」
もしかしたら、突然真名を呼んだ事が、気に障ったのだろうか。
ここは奥向。互いにお勤め中の身だ。やはりここは、局名でなければならなかったか。
後からそんな事に思い至って、己が軽率さに臍を噛む。と。
「いえ、あの……本当に、申し訳、ございませぬ……」
重ねて彼女が謝ってきた。
いや、これは彼女が謝るべき事ではない。非は明らかに自分にある。
これ以上彼女を恐縮させたくはない。
「……各務野殿」
今度はきちんと、局名で言い直した。
すると彼女は、明らかにほっとしたような表情で
「はい、何でございましょう……大野様」
そう、返してきた。
その後、『大野様』はあまりにも堅苦しいので太三郎で良いと言い。
話の接ぎ穂に、巳乃殿の生年を確認した所、思いもかけぬ名の由来――巳年の内に生まれるはずで父親が巳年由来の名しか考えていなかったが、年を越して元旦に生まれ、そのままその名を付けられた――を聞かされて。
そこから実は、年上でも年下でもなく同い年だったと知り。
何となく話がはずんだ所で、先日から奥向に姫君様付女童として上がっていた妹の千保の横やりが入った挙句、千保に巳乃殿を連れ去られてしまった。
今朝からずっと、心の中にその折の事が引っかかったまま、消えてくれない。
奥向で真名で呼びかけたのは、やはりまずかった、のだろうな。
気を悪くしておらぬと良いのだが。
§§
――三日後。
再び澪乃姫の使いとして、各務野が若君・松寿丸の居間を訪れた。
そして、松寿丸からまたしても御文庫の探し物を太三郎と各務野のふたりで、と任された。
どちらからともなく始めた四方山話の中で、各務野は太三郎に言った。
「太三郎様は、大層折り目正しい御方でいらせられますね」
「私が?」
きょとんとする太三郎に、各務野はにっこり笑いながら
「母君様の御事を話される際に必ず『由並様』と仰られて、きちんと敬語も使い分けていらせられますもの。公の場であればともかく今のような私事の話の中でしたら『母がこう申した』と……わたくしならつい言ってしまいそうですのに」
太三郎の母・美玖は、松寿丸の乳母であり母代でもある。今も非常勤ながら奥向に仕えていて、侍女達からは局名の『由並』で呼ばれている。
「奥向にては、私的なお話をなさる折でも由並様の御事を敢えて上役と意識されて、公に徹していらせられるのかと。当然と言えば当然の事なれど、いざとなるとなかなか出来るものではございませぬ。それゆえ……」
折角の賞賛の言葉も、半分は太三郎の耳には入っていなかった。
今の話からすると、各務野はどうやら、奥向だから局名で呼ぶのが当然だ、と思い込んでいる訳ではないらしい。
ならば、私的な話の折に、真名で呼びかけてもよいのだろうか。
太三郎は『ならば先日の謝罪には一体どういう意味があるのか』という事にはこの時全く思い至らなかった。
そしてこの日、折を見てさり気なく『巳乃殿』と呼びかけて。
やはり即座に
「もっ、申し訳ございませぬ!」
またしても謝罪を喰らってしまったのであった――。