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孤悲ごころ拾遺  作者: 宮ノ上りよ
第四章 恋い惑う ~天文十八(一五四九)年・夏~秋
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その八 息吹

                   §



 ――まるで、二年前に戻ったような。

ふたりきりで相対して、務めの事を話すのも。

そして……相変わらずの、謝罪の言葉も、表情も。

胸をちいさく噛む、切なさも。



 久々に向かい合って話す巳乃殿は……だが微妙に俯き加減で。

とりあえず、互いに今後折衝役を務める旨、改まった挨拶を交わした後。

「何か、心配事でもあるのか?」

思わずそう訊ねると、彼女は視線を膝のあたりに落としたまま

「……日頃から粗忽を重ねているわたくしに、此度こたびこのような大役が務まるのかと、不安で」

ためらいがちにそう言った。

「何を申す。御使番は御方様の御意をあやまたずこちらに伝えるのが主な役目。そなたは常々、御方様の思召おぼしめしを表方に伝える使いを大過なく務めておるではないか」

それゆえ何も案ずる事はあるまいよ、と。

彼女の不安を和らげようと、幾分砕けた口調で返した。

「大野様にそう仰って頂けるのは」

……聞き慣れぬ呼びかけに瞬時、背筋が寒くなって。

あ、いや、と巳乃殿の言葉を遮った。

「『大野様』は止めてくれぬか。何やらむず痒くなる」

「されど此度は……公のお務めにて相対しておりますれば」

「それを申すならば御文庫の書物の探索も公の務めであったろう?此度も同じこと。ふたりで話しておる時は、太三郎で良いよ」

すると、彼女はそれ以上は抗わず、太三郎様にそう仰って頂けるのは有難いのですが、と言い直した上で、続けた。

「わたくしつい先日、ひとつ間違えば取り返しのつかぬ事になっていた失態を犯してしまいました……なのに何故敢えてこのような御役目を任されるのか未だ腑に落ちなくて……」

口調と表情に、ありありと困惑の色が見て取れる。


 取り返しのつかぬ失態、とは穏やかでない。一体何をしたのであろう。

もしや以前の、御方様から若君へと贈られた蜜柑を私の上に降らせた……あれに匹敵するような粗忽であろうか。


 気にはなるものの、それを詮索する事は彼女をますます萎縮させる事になりかねぬ、と思い直して。

「されどそれでも此度の役を任されたという事は、そなたが思うておる程には御方様も由紀江様もさほどの失態と思うておらぬという事の証左ではないのか、の?」

敢えて問い返す事はせず、私はそう返した。

「……そう、でしょうか」


 ちいさく首を傾げて。

そのまましばし、何事か考え込むように黙り込んだ彼女の表情が、何ともいじらしく思えて。


 「――巳乃殿?」


 つい、そう呼びかけていた。

と。

「っ!も、申し訳ありませぬっ!」


 ――また、だ。

これで一体、何度目になるのだろう。

「……ほんに相変わらずだの、各務野殿は」

「……まことに、申し訳ございませぬ……」


 随分久々に味わうちいさな失望感を、それでもどうにか胸の奥に閉じ込めて。

「……それで、明日以降のこちらとの繋ぎについてだが」

さらりと話を振ると

「あ、はい」

彼女も普通に応じてくれた。まるで、何事もなかったかのように。

……封じたはずの胸の奥が、ちり、と痛んだ。



 秋も深まる頃。

若君が別邸の御方様の御機嫌伺いにいらせられている折に、御方様が産気づかれた。

慣例ゆえ、御出産に際しては御身内の男子は御産所付近は無論の事、御産所が置かれた邸内に居る事も許されぬ。

直ちに御館に立ち戻り、御館様にこの事をお知らせせねば、と廊下に出られた若君は、千保と巳乃殿に支えられるようにして御産所に向かわれる御方様に

「義姉上!何卒お健やかに、兄上の御子を……」

声を詰まらせながら、そう仰せられた。

「ご案じなされますな、柑次郎殿」

御方様は気丈にも微笑みで応えられた。


 御方様の横に付いている巳乃殿と、ほんの一瞬、視線があって。

互いに目で、頷き合った。


 以前、御文庫にての四方山話の折に聞いた覚えがある。

巳乃殿は母御が弟妹を出産する折に、幼いながらも介助を務めたのだと。

御陣痛に苦しまれる御方様を目の当たりにして、日頃の気丈さに似合わずうろたえ気味だった千保とは対照的に、巳乃殿は御方様をお支えしながら、今しばらくの御辛抱で一時痛みが収まりますれば、と、落ち着いて御方様を励ましていた。

そのような彼女を見るのは初めての事で……随分と、頼もしく思えた。


 四半刻後。

私は表方使番として、御館様の御使者である次席家老の今岡治部様と共に、再び別邸を訪れていた。

御産所から最も遠い部屋に控えて、御出産の時を待つ。

何時生まれるであろうか、と思うと、座っていてもどうにも腰が落ち着かぬ。と。

「今からあまり気張っても疲れるだけぞ、太三郎。早くても明朝まではかかろう程に」

「明朝!」

治部様が何気なく発せられた御言葉に、私は仰天した。まだ辺りには日没後の暮色が残っている。

「いや、しかし母が弟を産みし折には、陣痛が始まってより二刻もかからなんだかと」

幼時の記憶を頭の奥底から引っ張り出して言うと

初産ういざんは時がかかるのじゃ。二人目三人目ともなると産の道が開きやすい分、早うに生まれるがの」

そう仰られた治部様は、ふっと、遠くを見るような眼差しをされた。

「……鶴寿丸様御誕生の折は、一昼夜こうしてお待ち申し上げたのう。兵部殿と御一緒に」

「父と、ですか?」

思わず問い返す。

涼泉院殿――鶴寿丸様は、治部様御邸宅に設けられた御産所にて御誕生あそばされた。

その折に御館様の御使者として参じた父上と共に、その時を今や遅しとお待ち申し上げたのだと。

「和子様御誕生、と伺うて、兵部殿と手を取り合うて小躍りしたものよ。これにて御家もますます安泰、めでたいとのう」

「左様でございましたか」

強面こわもてを綻ばせて懐かしげに語られる治部様の、そのような柔和な御表情を拝見するのは初めての事で、思わず私も微笑みを誘われた。

「お生まれになられたばかりの鶴寿丸様が、もうそれはそれは可愛かわゆうて」

そこまで仰った治部様は、ふと声を詰まらせて。

「あの赤様が長じられて、その御子が御誕生あそばされる……そこに再び立ち会わせて頂くなぞ、これ程の慶びはないはずであったのじゃが、な……」


 普段から地声が大きく、誰かを叱咤される折には泣く子も黙る大音声だいおんじょうを響かせられると。

御家中の内で密かに怖れられている治部様が、湿ったお声でしんみりとそう仰せられるのに、私も胸が詰まった。

「……和子様御誕生の場合、家中は揉める。若君があくまで御自身は御後見の御立場を貫かれると仰せられても、家中全てが納得し心服するとは思えぬ」

「……はい」

「されどそれでも……和子様御誕生を願うてしまうのは、如何したものかのう」

「治部様」

「鶴寿丸様によう似た……忘れ形見の和子様を拝見したいと思うてしまうのは……家中安寧を願うべき家老職にあるまじき私情と、解ってはおるのじゃが」

……鼻の奥が、じわりと疼く。

ちいさく、目をしばたたせながら

「私も、治部様と同じ事を思うておりますれば」

そう言うと、治部様は目を大きく見開かれた。

「そなたは、若君を御後嗣にと思うておるのではなかったか?」

「はい。されど……私は涼泉院殿には幼少の折より、畏れ多い事ながら弟のように慈しんで頂きました。未だにその事、忘れられませぬ」

「うむ」

「御子が姫君であれば御家中の齟齬もなくなる、若君がつつがなく御後嗣となられる……されど私はどこかで、あの御方が今いちど生まれ変わって目の前に現れて下さらないかと……あの御方によう似た面差しの和子様を『鶴寿丸様』とお呼び申し上げる事が叶うたら、と」

……語りながら、じわりと滲んできた涙をそっと拭ったのに、治部様はお気が付かれたのかどうか。

「……そうか」

ぼそりとそれだけ返されて、目を細められた。



                   §§



 長い夜を、貞盛は今岡治部と語り合いながら過ごした。

父の兵部ともそこまで話した事はない、という程に、琴島の御家の有りよう、御家中の有り様について、踏み込んだ意見を交わし合った。

話しながら、思った。

誰も御家を割りたいなどと思うておらぬ。

ただそれぞれにそれぞれの思惑があり……それとは別に、それぞれの情がある。

それらが絡まり合い、ぶつかり合って、争いが生まれてしまう。

それは誰にも、どうする事も出来ぬものなのだろうか……と。


 外が、白み始めた頃。

廊下がきしむ音が近づいてくるのに、貞盛は我に返った。

何時の間にか座ったままうとうとしてしまっていた、らしい。

顔を上げると、差し向かいに座っていた治部も同様に居眠りをしていたらしく、貞盛よりもやや遅れて垂れていた首をもたげた。


 「失礼致しまする」

声と同時に襖が開く。

廊下に、各務野が端坐していた。

その場に手を仕えて、頭を深く下げて。


 「治部進様、大野様に申し上げまする。ただいま姫君様御誕生、御方様姫君様共にお健やかにて」


 貞盛の隣でほうっ、と、溜息が洩れた。

「左様か……姫君であったか」

治部がちいさく呟く。

「されば……これにて家中は収まる。のう、太三郎」

安堵の響きを纏った口調に、微かな切なさが滲んでいるように感じたのは……気のせいではなかろうと、貞盛は思った。

「……まことに」

静かに返して、居住まいを正して、平伏したままの各務野に真向かって。


 「御方様にも姫君様にもお健やかにて祝着。早速、治部進様と御館に立ち戻り、御館様、若君にその旨、言上申し上げる」


 顔を上げた各務野に、己が心の内を悟られまいと。

目を細め、視線をやや落として微笑みを向けた貞盛は……目の前のひとの両の瞳が、酷く泣き腫らした後のように赤く潤んでいた事に、気付かなかった。



 姫君の御七夜の命名の儀の席上、筆頭家老・大野兵部より若君・祐良を正式に世嗣とする旨、家中一同に告げられて。

数箇月に及んだ琴島家中の混乱は、まるでなかった事のように、収まった。


 澪乃が生んだ敦良の忘れ形見は『紀子のりこ』と命名された――。

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