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孤悲ごころ拾遺  作者: 宮ノ上りよ
第四章 恋い惑う ~天文十八(一五四九)年・夏~秋
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その七 折衝役

                    §



 ――再び務めを共にする日が来るなどと……思ってもみなかった。



 御方様の御出産に関する諸事は全て、御方様の御要望に沿う形で進められた。

乳母を定める事はなく、医師の招聘は御方様より都の梅林寺家に御依頼がなされた。

都方の侍女はいずれも若く出産経験がない者ばかりとて、子を産み育てた経験のある侍女が一名、医師と共に都から下って来る事になった。

御産所が従来よりもかなり遅れての竣工となるため、御方様の御産所への御移りも遅くせざるを得ず、これも異例の事ながら臨月に近い時期まで奥向にて過ごされるとの事だ。

何もかもが慣例にたがう事ながら、御家中からは一切、批判の声は上がらなかった。何かにつけて慣習や前例を重んじる風がある御家中において、それはかなり珍しい事だった。

出産という、女子にとっては命がけともなる一大事に、万が一何があっても御家中の間に余計な疑心暗鬼を招かぬように……と御方様が強く思召されての此度こたびの異例の措置なのだと、皆が納得していたがゆえであろう。

批判どころかむしろ、御入輿以来ずっと変わらぬ、御方様の琴島を御大切に遊ばされるお心の表れだと感嘆する声があちこちで聞かれる程であった。


 そうして、夏は慌ただしく過ぎて行った。


 臨月を目前に控えられた御方様の、竣工成った御産所への御移りの儀をいよいよ明日に控え、準備のために御館内で慌ただしく人が動く中、私は若君から上段の間に呼び出された。

「そなたは明日より、別邸側との折衝事にあたるように」

突然そう命じられて、不覚にもは?とちいさく、問い返してしまった。

「私が、で、ごさいますか?」

御館外との折衝役は原則、御館様御付の御使番の方々が務められるべきもの。若君の近習頭に過ぎぬ私が、何故。

と、若君は事もなげに

「義姉上の御事ゆえ、本来であれば兄上御側付の者のうちより誰ぞ……左馬之助あたりが務める役目であろう。それゆえそなたが代わりを務めても何らおかしくはあるまい?」

そう仰せられた。

確かに、涼泉院殿……若殿が御存命であれば、若殿御内室の御方様の御出産に関わる事ゆえ、若殿御側付のうち最も上位におられた左馬之助様がその御役目にあたられた事であろう。

若殿が身罷られ、現在は若君が事実上、御政務全般を取り仕切っておられる。

既に若殿御近習頭の務めを離れられた左馬之助様に代わって若君近習頭の私が務めると考えれば、若君が仰る通り別に奇異な事ではない。

とは言え、何となく腑に落ちぬところがなくもなかったが……ともあれ主の命には従わねばならぬ。

「仰せの通りにござりますれば、御役目、謹んで拝受つかまつりまする」

私はその場に両手を仕えて、頭を下げた。

「うむ。されば早速だが」

若君は手許にある書き付けに目を落としながら、御方様の供をして別邸に赴く侍女の名をひとりひとり挙げていった。

総勢六名。巳乃殿も千保もその内に入っていた。

御方様の腹心とも言うべき由紀江様が入っていない事を訝しく思い、その事を問うと

「奥向筆頭ゆえ義姉上御不在の奥向を空ける訳にもゆくまい。御出産が始まり次第別邸に駆け付けるという事で、義姉上がどうにか説き伏せたそうだ」

くすりと笑われた若君に、つられて私もちいさく笑ってしまった。

由紀江様の事ゆえ、おそらく別邸について行くと強硬に主張されたのであろう。

それを宥めて説き伏せられた御方様の御難儀の程は、容易に想像がついた。


 「別邸と奥向との繋ぎの使番は、八千穂が務めるとの事」

続いて若君が仰せられた事に、ふとものにつまづく思いがして。

「千保で……大事ないのでしょうか」

心に浮かんだままをつい口にしてしまい……若君がえ?と怪訝な顔をされるのに、しまった、と思った。

「あ、いや、千保……八千穂殿は若年の身で今回唯一島方より御産所への供を許されておるゆえ、他の島方御女中衆に如何思われておるかと」

「太三郎……」

私の言葉が終わらぬうちに、若君が呆れ顔でちいさく溜息をつかれた。

「そなた相変わらずだの。如何に妹可愛さと言えちと心配が過ぎるのではないか?」

「いえ、そのようなつもりはないのですが」

慌てて打ち消すも

「そなたの妹思いは幼い折からよう存じておるゆえ、今更とやかくは言いとうないがの。兄上もよう仰せられておったわ、妹とはそれ程に可愛かわゆいものであろうか、とな」

追い打ちをかけるような事を言われて、今度こそ私は返す言葉を失ってしまった。


 『甲午丸はよくよく千保が可愛いのだな』

遠い昔、鶴寿丸様――涼泉院殿によく言われた言葉。


 幼い頃、御館に上がる度に、闊達を通り越して傍若無人としか思えぬような態度で周囲に対していた千保から目が離せず、常に後を追うようにしてその言動を止めたり窘めたりしていた。

それが周囲には何故か『妹の面倒をよく見る兄』と映った、らしい。

御入輿されたばかりの御方様の御許に行儀見習いの女童めのわらわとしてお仕えする事になった折も、御方様や先任侍女の方々に礼を失する事がなければ良いが……と内心冷や冷やしていた。

千保が筆頭家老と奥向筆頭の娘という出自ゆえではなく、あくまで己が力量のみで認められたいという強い意志を持って務めに励み、奥向で一目も二目も置かれる存在になってやっと、もはや案じる事はない、と思えるようになった。

……だが。


 今更何故なにゆえの不安かは、若君の前では決して口には出来ぬ。

『筆頭家老とさきの奥向筆頭を父母に持つわたくしが島方よりひとり選ばれしことに、表立って異を唱える者なぞおりませぬよ』

もしやそのような心掛けを僅かでも言動に滲ませて此度の務めに就いていたならば……他の侍女達との軋轢は免れまい、と。


 「まあ、そなたの懸念も解らぬではない。此度の事では私も当初どうなる事かと案じておったからの。だが、奥向は都方島方共に以前と変わらず相和して務めておる由、常々義姉上から伺うておる。されば八千穂が島方からひとり別邸側に入ったとて島方から嫉まれるという事もあるまいよ」

若君の御言葉に

「それを伺うて安堵致しました。何分この所、妹とは全く顔を合わせておりませぬゆえ如何致しておるのか様子が判らず……」

そう言いかけると、若君はああ、と大きく頷かれた。

「八千穂はこの所ずっと宿下がりをしておらぬのであったな」

「はい」

「私が己が意を通したゆえに、そなた達にも要らぬ苦労をかけておるの。まことに済まぬ」

思いもかけぬ若君の御気遣いに

「いえそのような、勿体ない仰せにござりまする」

慌ててその場に手を付いて頭を下げた。


 あれ以来千保は一度も宿下がりをして来ない。

理由はおそらく奥向では周知の事実なのであろう。定期的に認められている帰邸を一切せぬというのは、誰にも何も言わずに出来る事ではない。

そして今の御様子からすると、若君も御存知なのだ。御方様から耳にされたのであろうか。

無用の疑いをかけられぬよう若君近習頭である私との接触を避ける、というのが、若君からすれば御自身の御存念ゆえに千保にも私にも無理をさせているように思われたのやもしれぬ。

だが。

無理どころか……実の所、千保としてはむしろこれ幸いと思っているのではないかと、思う。

宿下がりの度に、私の顔を見るのも辛そうにしていたゆえに。


 まことの事は決して口には出来ぬものの……若君が御自分のせいで、と思っておられる事が、ひたすら申し訳なく思えて

「妹が自ら強く望んでそうしておる事ゆえ、若君には何卒お心を煩わせられませぬよう、伏してお願い申し上げまする」

平伏したまま、そう申し上げた。

と。

「八千穂が事、今後は各務野にでも様子を聞くが良かろう」

「は?」


 ……今、何と?


 思わず顔を上げて、間の抜けた言を返してしまった私に

「ああ、申し忘れておった。別邸側の表方との使番は各務野が務める事になったゆえ、以降は委細、そなたと各務野とで打ち合わせるように、の」

そう仰せられた若君は、気のせいか……口許に悪戯めいた笑みを湛えているように、見えた。



                   §§



 上段の間を何と言って辞して、どうやって廊下を辿ったのか。

気が付いたら、貞盛は祐良の居室に戻っていた。

『後程、各務野が参ったらそちらに赴かせるゆえ、後は頼むぞ、太三郎』

主の許を辞する際に言われた、その言葉だけを、辛うじて心に留めて。


 案じていたはずの妹の事など、貞盛の頭の中からはきれいにかき消えていた。

代わりに今しがた主に聞かされたばかりの人事が、ぐるぐると耳の奥を巡る。


 『別邸側の表方との使番は各務野が務める事になったゆえ、以降は委細、そなたと各務野とで打ち合わせるように、の』


 各務野が別邸側の使番、という事は。

貞盛は表方側の折衝役として、澪乃が産前産後を別邸にて過ごす間、主の意向を携えて館に参じる彼女に応対する事になる。

その都度、諸事ふたりで話し合って詰めていく、という事だ。


 貞盛が各務野と務めを共にするのは、元服直前以来の事。

祐良が元服に際して義姉の澪乃に譲ると決めた奥向の文庫の、蔵書目録を祐良も含めて三人で作成したのが、最後だった。


 表方と奥向に別れて、共に何かを成す事なぞもはやあるまいと、思っていたが。

よもや、このような機会が再び巡って来ようとは。


 文机の前に腰を下ろしたものの、気持ちがそわそわして落ち着かない。

今再び立ち上がったら、うろうろと室内を歩き回ってしまいそうで。

とりあえず書でも読んで気を鎮めようと、貞盛は文机の上にある祐良の書物を一冊拝借して読み始めた、が。

……内容が全く頭に入って来ない。


 ただ何となく最後までめくり、また最初に戻って。

それを二度程繰り返した頃。


 「申し上げまする。明日の御方様御産所御移りの儀につきまして、委細を大野様と打ち合わせるようにとの若様の御命にて参じました」

開けたままの障子の陰から、待ち侘びたひとの声がかかった。

「若君から伺うておる。まずは中へ」

「失礼致しまする」

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