その六 妹
§
――さざ波ひとつ立たぬ程に静かに見える水面。
その下も果たして穏やかなのか、それとも激しい渦が巻いているのか。
全く見えぬ状態というのは……始末が悪い。
涼泉院殿の七七日(四十九日)御法要が済んでひと月が過ぎても、御方様の御出産に向けての様々な準備は、一向に捗らなかった。
通常、御懐妊が明らかになってからほぼひと月のうちに、慣例に則って御出産までの諸準備が整えられるとの事だが、未だに御産所の場所すら定まっていない。
無論、涼泉院殿御薨去という非常事態が重なったゆえの遅滞もあるのだが、それだけではない。
家中の穏やかならざる状況が、慣例通りに事を進める事を阻んでいる最大の要因であった。
若君が、父上の御進言を却下された事によって、事態は振り出しに戻った。
それでも以前程には、御家中の内に険悪な感じはない。あくまで表面上は、だが。
涼泉院殿御近習衆は、涼泉院殿七七日(四十九日)御法要の翌日をもって務めを解かれ、侍大将に任じられた元御近習頭の今岡左馬之助様を始め大半の方々が新たな職務に就かれた。
大抵の職務は御館に常駐する必要がないため、元御近習の方々が御館内でわれら若君近習衆と鉢合わせになって齟齬をきたし諍うという事はなくなった。
これまで御館様、涼泉院殿、そして若君それぞれの近習全員で回していた職務が、涼泉院殿御近習衆が一斉に職を辞された事で残った者達の負担分が一気に増え、毎日が恐ろしく多忙になり諍いなぞ起こしているどころではない、というのもある。
御家中全体でも、若君が『以降この件に関して異論は一切聞かぬ』と厳しく仰せられた事が効いたのか、表立って御後嗣の事を取り沙汰する声は聞かれなくなった。
だが依然として、御家中の内部には様々な思惑が入り乱れている。
表に出ない分、それぞれの考えている事が判りにくくなり、それが却って皆の間に、以前にも増して深刻な疑心暗鬼を生み出すもととなっている……ように思える。
そのような状況下では、御方様の御産所の場所を決めるのも容易ではなかった。
本来ならばもうとうに竣工し、御移りの儀のために吉日を選定する時期のはずが……未だ、どこにするかで連日揉めていた。
奥向に住まう御当主御正室や御世嗣御正室の御懐妊が明らかになると、まず吉方を占い、その方角にある家臣の邸に御産所を新築する。
同時に主だった家臣の妻のうち、出産時期が前後しそうな者もしくはその時期に未だ乳呑み児を抱えているであろう者を、生まれ来る御子の乳母として定める。
御館様御正室・秋陽院様の二度の御出産の折には、折よく懐妊中で即座に乳母と定められた、今岡治部様御正室や私の母上の住まう邸の方角がたまたま吉方と出たため、それぞれの邸に御産所を設える事になった。
それゆえ、涼泉院殿は治部様御邸宅にて、若君は我が大野邸にて御誕生あそばされている。
此度も吉方を占った上で、当初、大野邸が候補に挙げられた。
御館から見て吉方に位置する上、父上は御後嗣の件に関して御家中では中立的な御立場にあり、母上は奥向筆頭を辞した後も、御方様より畏れ多い事ながら何かと頼りにされ、こまめに御文をやり取りされている。それゆえ、御方様が産前産後を過ごされる所として最も相応しかろうと御重臣方が御判断なされたそうだ。
だが、御方様の御子様を御世嗣にと望まれる方々が、異議を唱えられた。
大野邸には、若君を御世嗣にと強く推す若君近習衆の、頭である私がいる。それゆえ如何なものか、と。
私が御子に何かを仕掛けるのでは、と言わぬばかりの意見は甚だ心外であったが、今の御家中の状況では無理もない事だ。
数日にわたる評定が続いた末、遂に若君が
「ならば此度は館内に産所を設ければ良かろう」
筆頭家老の邸でも異論が出る程ならば、誰の所に世話になってもおそらく揉め事は避けられない、ならばいっそ誰の所にも行かぬがよいと、仰せられた。
おそらく若君は、皆様があれこれ言い立てて一向に埒が明かぬ評定にすっかり嫌気が差されたのであろう。口調に苛立ちが滲み出ていたのが、よく判った。
ところが。
これに対して御方様が強く異を唱えられた。どんな事情であれ御館を産の穢れにかける訳にはゆかぬ、と。
そして対案として仰せ出されたのが
「五代様御隠居所では如何でしょうか」
館の下手にある五代様御隠居所――別邸は、館からもすぐに行き来が出来るゆえ館内も同じである。何かあっても即座に館から人を出す事が出来る。そこに御産所を設けるというのはかつてない事だが、現状を考えると最も好都合な案であった。
若君と御重臣方が協議の末、御館様の御裁可を仰ぎ、別邸の内に御産所を設けると決まったのは、涼泉院殿の百箇日御法要が目前に迫った頃であった。
御法要が滞りなく済んだ後、御産所新築の段取りがようやく始まり、次は乳母の選定を、となったのだが。
その事を含めた御出産についての諸々の事で御方様より、異例のお申し出があった。
乳母は置かぬ、出産立ち会いの医師を都から招聘する、そして御産所への供は都方侍女のみとする――と。
乳母を定めぬのも異例ながら、御里方より立ち会いの医師をわざわざ招くというのも前例のない事だという。慣例通りならば、御館付医師の玄安殿に立ち会って頂くところなのだが。
それだけではない、御出産に際して周りに島方の侍女を置かぬ、などと。
これではまるで、島方の者達は誰も彼も一切信じられぬ、と仰せられているようなものだ。
あまりにも御方様らしからぬそのお申し出に、若君も、御重臣方も……ひどく驚かれた御様子で、しばし絶句しておられた。
「全て御慣例に拠らぬことなれど、御方様御熟慮の末に仰せ出されたことにございますれば、何卒お聞き届け下さいますよう、お願い申し上げまする」
そのことを、表方上段の間にやって来て若君や御重臣方の前で申し述べたのは、千保だった。
私は若君の御用でたまたま上段の間に来合わせて、それを聞いた。
間の悪い事に、勝二郎が若君のお側に控える役を務めていた。
「御慣例の通りに事を運んで、万が一不測のことがあった際、周囲にいる者達にあらぬ疑いがかかるのでは、と御方様がひどく案じられてのことにて。いえ、無論御家中にも島方の侍女の内にもそのような不心得者なぞおりますまい。されど昨今の状況を鑑みるに、御方様や生まれ来る御子にもしも何事かあれば、たちまち御家中に更なる不信が拡がりましょう。御方様はこれ以上の御家中の齟齬は何としても避けたいと願うておられまする。それゆえ何卒」
千保のその言葉を、勝二郎はどう聞いたのだろう。
千保が上段の間を去るまでずっと、面を伏せがちにして、遂に千保の顔を見る事はなかった。
千保の言葉の中に、ひとつ気になることがあって。
「しばし御前失礼致しまする」
若君にそう申し上げて、私は千保の後を追った。
御出産に携わる者は都方のみに限る、という条件を口にした際
『されど都方の皆様のみをお側に置かれますこと、日頃より島方都方の融和を願われる御方様の御心情に違うことなれば、島方より特にわたくしのみ御産所の供にと仰せ下されました』
千保はそう付け加えた。
御入輿以来、御方様が常に島方と都方の侍女の融和を図られてきたことは御家中の間でもよく知られている事だ。私は元服まで奥向に出入りしていたゆえ、その事はよく見知っている。
御出産という大事の折に御周辺を都方のみで固めるというのは、あの御方様にすれば断腸の思いに等しい御決断であっただろう。
せめて島方よりひとりだけでも、確実に信頼の置ける者を、と願われたとしても無理はない。
そこまでは、解る。だが。
「八千穂殿」
せかせかと歩を進める妹に、錠口の手前で追いついて、私はその背に呼びかけた。
千保は歩みを止めて、振り向いた。
「これは大野様。何か」
公務中は互いに公の名で呼ぶ。それは互いに御館務めに上がった時からずっと変わらぬ事。
「先程のそなたの話、一点、確認させてもらいたい事がある」
「何なりと」
「島方より特にそなたのみ、御側を許されたとの事だが、何故にそなたが選ばれたのだ?」
大野の邸が私ゆえに御産所に選ばれなかった事を考えれば……不測の事態の折に周囲に余計な嫌疑がかかるのを避けるために敢えて御方様の周りを都方のみで固める中、私の妹である千保が唯一の島方として御側に仕えるという事には違和感を覚えざるを得ない。
と。
「選ばれたのではありませぬ」
相変わらず、私の顔から心持ち視線を逸らすようにしながら。
「此度の事、わたくしより御方様に是非にとお願い申し上げし事にて」
千保は静かにそう言った。
「そなたから?」
「はい」
「それを御方様がお許しになられたという事か?」
「はい」
「それは……他の島方の御女中衆も、承知の上の事なのか?」
島方侍女の内では、千保はどちらかと言えば未だ年若い方だ。それなのに年長の方々をおいていわば島方総代のような立場でひとり御方様の御側に仕えるなぞ、皆が納得するだろうか。
と。
「もとより島方都方、皆様御承知の事。御方様がお許しになられた事に否やはありますまい。それにそもそも」
そこまで言って、千保は私に、正面から挑みかかるような眼差しを向けてきた。
「筆頭家老と前の奥向筆頭を父母に持つわたくしが島方よりひとり選ばれしことに、表立って異を唱える者なぞおりませぬよ」
凄絶な笑みを、ほんの一瞬、口許に浮かべて。
「大野様が何を懸念しておられるのかは解りまする。それゆえわたくし、今後御出産までは大野への宿下がりを一切控える所存にて。大野様もどうかこの後はわたくしに構うて下さいませぬよう。お互い、余計な疑いをかけられる事は大野のためにも避けとうございまするゆえ」
ひと息にそう言うと、千保は再び私から視線を逸らした。
もはや私は言うべき言葉を持たなかった。
「……相わかった。今後は、そのように致そう」
「忝うございまする。では、これにて」
互いに、会釈を交わした後。
千保は私に背を向けて、歩き出した。
私も踵を返して、その場を後にした。
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上段の間に続く廊下を辿りながら。
貞盛は八千穂の思いがけぬ言葉を頭の中で反芻していた。
『筆頭家老と前の奥向筆頭を父母に持つわたくしが島方よりひとり選ばれしことに、表立って異を唱える者なぞおりませぬよ』
女童として奥向に上がってからこのかた、八千穂は殊更に『筆頭家老の御息女』という目で見られる事を嫌がっていた。
当時、母の美玖が奥向筆頭であったがゆえになおの事、親の威光をかさに来て、と思われたくなかったのであろう。
出自を決して前面に出す事なく、己が実力のみで主である澪乃や上役の由紀江の信頼をかち得るべく、常に努力を重ねていた。
貞盛に苦言を呈する折にもよく
『『親の光は七光り』などと言われぬよう、せいぜい御精進下さいませ。兄上がそのように見られるとわたくしも奥にて肩身が狭うございまするゆえ』
皮肉たっぷりにそう言ったものだった。
それなのに。
貞盛がかつて見た事もないような、冷徹な微笑みを表情に張りつかせて。
己が出自の高さを誇るかのような言葉を口にした、八千穂。
そこまで己を曲げても。
千保……そなたは、そこまで本気で、そんなにも――。
思い当たる事がなかった訳ではない。
ただそれは幼い頃からの淡い憧憬の続きに過ぎぬものと思っていた。
何もかもが飽き足らぬ実兄に比べて諸事完璧な、非の打ちどころのない『兄』同様の存在への、年を経ても尽きる事のない憧れなのだろう、と。
ずっと思っていた……いや、思おうとしていた。
もしやと思う事自体、相手が相手ゆえにあまりに畏れ多い気がして。
だが。
今こそ全てが腑に落ちる。
だからこその縁談の拒絶だったのだと。
だからこその、貞盛への深い失望なのだと。
そして。
誰にどのように思われようとも、これだけは決して譲れぬ、と。
……あの御方の忘れ形見の御子に全てを賭けてお仕えする、その事だけは。
千保は知っていただろうか。己が、涼泉院殿の……若殿の御側室候補に挙げられていたと。
おそらくは知るまい。
知らぬままがよい。
そして。
『千保は柑次郎の乳母子ゆえ、私にとっても妹同然。妹を側女にするなぞ有り得ぬわ』
敦良のその言葉を、生涯決して妹の前では口にすまい、と。
心の奥底で、貞盛は思った。