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孤悲ごころ拾遺  作者: 宮ノ上りよ
第四章 恋い惑う ~天文十八(一五四九)年・夏~秋
14/18

その四 真意

                    §



 ――話しかけて、くれた。



 若君より御方様へのお届け物の書物を口実に、杉戸の向こうで錠口番をしている巳乃殿に声をかける機会を得たものの。

こちらからの呼びかけに返って来た

「はい、何か」

という声の、抑揚のない固さに怯んで。

用向きを伝える声が、知らずちいさくなった。


 承ります、の返答と共に、杉戸が開いた。

端座する巳乃殿の顔から心もち視線を外して、忝い、と小声で言うと、いいえ、とちいさな声が応じた。

敷居越しに、書物を渡す。

用件はそれだけ。

早く、何か声を掛けなければ、杉戸が閉められてしまう。何か言わねば。


 「あのっ……」


 焦る私の、耳にいきなり飛び込んできた言葉。

「え?」

思わず、鼓動が跳ねた。


 「先日はお話を取り違えて、大変失礼な事を申し上げました。許しては頂けまいかと存じますがせめてお詫びだけは……本当に申し訳ございませぬ」

早口で一気にそこまで言って。

巳乃殿が目の前に両手を付いて、頭を下げた。


 思いもかけぬ事に、頭の中が真っ白くなった。

言おうと思っていた言葉が、どこかへ飛んでしまった。


 何をどう返せばよいのかと……呆然と、巳乃殿の後頭部に目をやっていると。

不意にその頭が上がって。


 「では、これにて……」

視線を下げたままで、巳乃殿が杉戸に手をかける。

閉められたら終わりだ。どうすれば。


 「私の方こそ、済まなかった。この通りだ」


 咄嗟にそう言って。

その場に手を付いて、床につく程に頭を下げた。

「た、太三郎様っ?」

慌てたようなちいさな叫び声が、頭上に響く。

「そのような、どうかお手をお上げ下さいませ、このような所で」


 久々の巳乃殿の、優し気な、困ったような調子の言葉が、耳にとても心地良い。


 「太三郎様が謝られる事ではございませぬ。わたくしがお話を終いまで聞かずに取り乱してあのような御無礼を……。悪いのはわたくしでございます。ですからどうかお手を」


 ――ああ。

巳乃殿は、解ってくれたのか。

あれが私の言ではないという事を。


 心の奥底でほっとしながら、私は頭を上げた。

困惑を面に浮かべている巳乃殿に

「いや、あれは私が悪かった」

はっきりそう言う。

配下の近習達の行き過ぎた言動を抑えられなかった己が不甲斐なさがつい愚痴になって零れてしまったが、御方様御側付のそなたに話すべき事ではなかった、と。

その事を口にした上で

「辛い思いをさせて、済まぬ」

泣かせてしまった事に対して、再び頭を下げて、謝った。


 「太三郎、様……」

湿った声が、私の名を呟く。


 頭を下げたまま、私は己が真意を語った。

若殿に、幼い頃から弟のように慈しんで頂いた事。

その若殿が突然身罷られて……酷く哀しかった事。

若殿の御方様への想いの深さも、御方様の御懐妊を誰にも増して待望していらせられた事も、よく知っているという事。

そこまで話した所で頭を上げて、巳乃殿の顔を正面から見据えて。


 「それゆえあのような事、私は断じて思わぬ、断じて。それだけは信じて欲しい。頼む」

どうか伝わるようにと。

願いを込めて、静かな口調で言った。

と。


 私をじっと見つめる、巳乃殿の両の頬を、涙の雫が転げておちた。

うわ。

泣く、泣かれるっ!

「各務野殿っ……!」


 慌てふためく私の前で、だが巳乃殿は袖で顔をぐいっと拭った。

「……もとより、信じておりました。なのにわたくし……」

「各務野殿」

こういう場合に思わず呼んでしまう真名を口にしなかった事と、巳乃殿が涙を収めてくれた事に、少なからず安堵する。

「太三郎様がそのような御方ではないと、よう判っておったはずなのに……わたくしの粗忽にて酷い思い違いをほんの一時でも致しました事……まことに申し訳なく思います。お許し下さいませ」


 潤んだ目を見せぬためか、頭を下げながらの彼女のその言葉に……胸が熱くなった。


 「……そなたの方から声をかけてもろうて、良かった」

「え?」

巳乃殿が顔を上げて、私を見た。

真正面からじっと見つめられて、何とも照れくさくなり……僅かに視線を逸らす。

「如何にしてそなたと話すきっかけを掴もうかと、この所ずっと考えておったのだ」

「太三郎様……」

「若君が今朝方、御方様にその書物を御自らお届けするおつもりであったのを忘れておられたと伺うて……今朝はそなたが錠口の番であった事を思い出して、咄嗟に私がお届けに上がる旨、申し出た」

ぼそぼそと、今朝の顛末を語って。

「ついでに、こちらの錠口番も代わってもろうた」

ふ、と笑って付け足すと、巳乃殿もまあ、とちいさな声を立てて、笑ってくれた。

だが次の瞬間には、案じ顔になって。

「されど、何方かいらしてこのような所を見られたら」

……泣きそうになったり、笑ったり、不安そうに眉を顰めたり。

短い間にくるくるとよく変わる彼女の表情を久しぶりに楽しく眺めながら

「いや、おそらく当分、こちらへは誰も来るまいよ」

若君が御方様御外出中に奥向に渡られる事もないし、今朝方御参集なされた御家中の方々も、殆どが退出されて館内には人が少ないので、その心配はない、と話した。

と。

「若様から皆様へのお話はもうお済みになられたのですね」


 何気ない、巳乃殿のその言葉に。

今まで思考の隅に追いやっていた、今朝の若君の皆様への御言葉が、甦った。

「その事だが……」

つい言いかけて……口を噤む。

巳乃殿に今ここで話しても良いのだろうか、と、瞬時ためらって。

「何か、ございましたのか?」

問われて、腹を決めた。

「……いずれは奥向にも知れる事ゆえ、今話しておこうかの」


 口調を改めた私に、巳乃殿も何事か思う所があったのだろう。

口許を引き締めて、居住まいを正した。


 

 つい先程大広間にて、若君より御家中の皆様に、涼泉院殿御葬儀からこれまでの諸法事を滞りなく終えられた事についての御報告と共に皆様の労苦を謝する御言葉があった。

その後。

『なお、家中にて何かと取り沙汰されておる当家後嗣の件であるが、この機会に改めて一同に申し置く。先に私が申した通り、梅林寺御方御所生の、涼泉院殿の御遺子が和子なれば後嗣と定め、万が一幼少のうちに代替わりの事あらば私が叔父として後見する。従前通り、変更はない。御館様もこの事は御承知だ』

その御言葉に、大広間のあちこちがざわめいた。

では兵部様の御献言は、というちいさな話し声がそこここで聞こえるのを、断ち切るように

『以降この件に関して異論は一切聞かぬゆえ左様心得るべし』

若君の凛とした声が、場を圧して響き渡った。


 私の話に耳を傾けていた巳乃殿が、微かに眉を曇らせる。

「では、若様は兵部様の御献言を」

皆まで言う前に、頷きを返して。

「若君はあくまでも御兄君の……若殿の御遺志を御大切に遊ばす御所存らしい」


 あの御言葉をもって、若君は父上の御進言――御方様を御正室として娶られ御後嗣となられては、という案を、きっぱりと却下なされたのだ。

そのお心の内にあるものはおそらく……兄君の最後の御言葉。


 『私が琴島を継がせたいのは澪が生む子だけだ』


 「若殿の……御遺志」

私の言葉をそのまま口にする巳乃殿に、一瞬しまった、と思った。

若君はこの事、誰にも明かしておらぬと申されたのに。

相手が巳乃殿ゆえについ、心安く口にしてしまっていた。

と。

ちいさな声で、巳乃殿があ、と呟いた。

何かに思い当たったような。

「各務野殿は、何か存じておるのか?」

首を傾げながら問うと、ええ、と遠慮がちな声が返って来て。

「若殿の……御方様御所生の和子様に、琴島を……との、御言葉でしょうか」


 知っていたのか、と……ほっとする思いの後に、何故知っているのだろう、という疑念が湧いた。

如何にも、と応えた後、若君に内々で伺った事と、御家中には要らぬ混乱を招かぬため一切話しておられぬであろう事を話して。

「若君はその事、御方様にお話し申し上げたのか?そなたが存じておるという事は……」


 多分そうであろうと思う事を、巳乃殿に問うた。すると。

「ええ。されど若様が仰せ出されるよりも前から、奥向では皆が存じ上げておる事にて」

意外な答えが返って来た。

前から、と?

どういう事だろう。

「されどそれは元々、お世継ぎのために御側室を、とのお話があった折に若殿が御方様に仰せられし事と、わたくし共は伺うております。それゆえ、かような場合において和子様に御家督を、という意ではないのでは、と」


 巳乃殿の言葉に。

事情を納得すると共に、若殿の御方様への深い御情愛の程を、改めて感じた。


 あの御方様ならばおそらく、御家のために若殿に御側室を、という声が上がれば、甘んじてそれを受け入れられたはず。

御家に関する事には、情を抑えてあくまで理を以て御判断を下される……そういう御方ゆえ。

けれど、だからこそ。

そんな御方様に、若殿ははっきりと仰せられたのだろう。

御方様御所生の御子にこそ琴島を継がせたいのだ、と。


 そして。

若殿は御同様の事を、若君にも仰せられた。

あの……最後の早朝の、浜辺で。

だから。


 「若君もそれは解っておられる。全て御承知の上で、仰せられておるのだ」

「それは……何故に」


 私を見つめながら、首を傾げる巳乃殿に

「若君はその事、若殿御薨去の日の、朝……若殿より、御方様御懐妊の事を打ち明けられし折に、伺うたとの事」

ひとことひとこと、噛みしめるように言いながら、瞼の奥が熱くなった。

思わず、目をしばたたかせる。


 巳乃殿には判ったのだろう。

あの日の事を思い起こすと、込み上げて来るものを抑えきれなくなる、私の辛さが。

ひどく切なげに目を細めて、彼女は私を見ていた。

その目に見つめられていると、堪えに堪えている涙が、零れ落ちてしまいそうで。

やや目を伏せて。


 「私が思うに……若殿が身罷られる数刻前に語られた、いわば最後の御言葉ゆえ、若君にはそれがそのまま兄君の御遺志に思われるのであろう」

おそらく間違いなかろうと思われる……若君が若殿の御言葉に拘られる理由を、私は語った。

 

 巳乃殿はしばし、黙っていた。

そして。

「されど……それは御方様の御本意に反する事」

ちいさくそう、呟いた。

「ん?」

微かな引っかかりを覚えて、視線を上げる。


 「若殿御薨去の折よりずっと、御方様は若様が御後嗣におなりあそばすべきとのお考えにて」

……何と?

「それはまことか!」


 思わず、小声で叫んでいた。

御方様がそのようにお考えでいらせられたとは……初耳だ。


 表方には、今回の件に関する御方様の御見解は一切伝わっていない。

若君はおそらく御存知であろうが、これまで何も仰せられておられぬ。

それゆえに皆、何も聞かずとも、御方様もまた若君と御同様のお考えなのだと思っている。

御夫君の忘れ形見の御子を御後嗣に……と。

妻ならば、そして母ならば、それは当然のお気持ちであろうと。


 「御方様は、先日太三郎様が仰せられし事と御同様に……このような時勢の中、敢えて赤様を御後嗣とするは如何なものかと」

巳乃殿の言葉に、私は返す言葉を失った。

「御後見などと回りくどい事をせずとも、若様御自身が御後嗣として、申すも畏れ多い事ながら万が一の御代替わりに備えられるが最善と……再々、若様にお話し申し上げていらせられるのですが」


 思わず、唸らされた。

何という御方だろう。


 「……流石御方様、御夫君が遺された御言葉だからとて情に捉われず、あくまで理にて御判断なされるか……」

感嘆をそのまま口にして。

「その御分別、とても我等と御同年の御方とは思えぬ」

そう呟くと……御方様とも私とも同い年の、当年十六の巳乃殿も、大きく頷いた。



                    §§



 誰も来ない錠口の敷居越しに、各務野と向かい合って語り合いながら。

思いもかけぬ各務野からの謝罪がきっかけで成った和解に、貞盛は心底、ほっとしていた。

何よりも……貞盛が何も言わずとも、各務野が貞盛の言葉を後からきちんと思い返して誤解があったと解ってくれていた事が、嬉しかった。

そして。

彼女を好いていると――己が想いを改めて、強くした。

だが。


 各務野が貞盛をどう思っているのか。

その事を思うと、貞盛は不安になる。


 少なくとも嫌われてはいない、それは自信がある。

ふたりでこんな風に語り合うのは、元服して奥向から離れて以来久々の事だが、各務野が見せてくれる親しみに溢れた微笑みも、貞盛の話に耳を傾ける際の真摯な表情も、当時と全く変わりがない。

けれど。


 『巳乃殿』と。

親しさに慣れて時折つい口にした真名に、あの頃返って来た応えはいつも、同じ。

『申し訳ございませぬっ!』


 それが、必要以上に近づく事を警戒されているようにも思えて。

貞盛をひどく弱気にさせる。


 仲直りは成ったものの、やっと自覚した想いを打ち明ける事はないままに。

昼の錠口番の交代の刻限が来て、名残りを惜しみながらも貞盛は各務野との話を切り上げざるを得なかった。

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