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孤悲ごころ拾遺  作者: 宮ノ上りよ
第四章 恋い惑う ~天文十八(一五四九)年・夏~秋
13/18

その三 千載一遇

                    §


 ――徒労に終わるやもしれぬ。

だが……やってみるしか、ない。



 早朝。

夏の訪れを感じさせる眩しい朝の光が回廊を照らす中、御仏間御拝礼のため奥向に向かう若君の後ろを、朋輩と並んで歩いていた。


 涼泉院殿の七七日(四十九日)御法要が昨日、滞りなく済み、これにて御葬儀以来の一連の御法事が一段落ついた。

後は百箇日の御法要までしばしの間がある。

本日はこの後、御家中御一同が大広間に参集し、御館様の御名代として若君より、御葬儀以来の諸々の儀が昨日をもって終了した事について改めて御一同を労われる御言葉が下される事となっている。


 御方様はこの後、正念寺に向かわれる御予定と伺っている。


 ここ三日程、御仏間御拝礼のために奥向に入られた若君のお戻りがやや遅くなった、と。

供をした朋輩達から連日、報告を受けていた。

さては御方様より巳乃殿を遣わされた事で若君も観念されて、御拝礼の後に御法要の打ち合わせをしておられたかと思いきや

『……やはり義姉上は言い出したらきかぬ御方だの』

昨日、御居間に戻られた際に溜息と共にそうこぼされた若君より、予想の外の事情を耳にした。


 当初、御方様は七七日御法要への御参列を希望する旨、巳乃殿を通じて若君に申し越されたそうな。

此度はこれまでの七日毎の御法事とは異なり、正念寺御本堂にて執り行われる大掛かりなもので、時がかかる上に御本堂裏手の丘の頂にある涼泉院殿の奥津城おくつき(墓所)への御参拝もある。

かなりの労力を要するゆえに、と……御方様の御体調を案じられた若君は、御方様に御参列はお見合わせ下さるようお伝え申し上げた。

御方様はその件についてはご了承下さったとの事ながら、代わりに御法要の翌日――本日の、正念寺へのおひとりでの御参拝を希望された。

若君は無論難色を示されたが、これについては御方様もどうしても、と譲られなかった。


 巳乃殿が幾度か、表方と奥向を往復していたのは、そのゆえか。

そのような事情であったなら……互いに退かぬ若君と御方様の間にあって、彼女はさぞかし大変な思いをした事であろう。

それまで、御仏間御拝礼後の御方様とのお語らいをことごとく避けておられた若君であったが

『流石に各務野を右往左往させるに忍びなくて、な』

やむなく御拝礼後、その件で御方様と御直々に話し合われる機会を持たれたのだそうな。


 だが、再三の若君の御説得にも、御方様は頑として御意思を曲げられなかった。

結局昨日、若君が根負けする形で、本日の御方様の正念寺御参拝をお許しになられた。

御仏間御拝礼の後、御家中の皆様が参集される前にお出ましあそばされるとの事で、若君付近習よりも二名程供を出すよう、昨日若君より人選を命じられた。


 父上の若君への御進言が御家中に広まって以来、館内の近習同士の関係は概ね良好である。

御法要が終わり本日をもって職を辞される涼泉院殿御近習衆からも、最後の御奉公とて二、三名供をされるとの事だが、諍いになる心配はまずない。

……が。

奥向側の供が由紀江様と千保と聞き、勝二郎は外すことにした。


 縁談がどうなったのかは、未だ父上から何も話がないゆえ判らぬ。

だが、先日来明らかに憔悴した態の勝二郎を敢えてこれ以上追い詰めるような真似はしたくない。


 千保が『奥勤めを続けたいから』などと理由にならぬ理由で縁談を断ったのを、他に何か訳があるのでは……と勝二郎に問われて、思い至ったのが勝二郎のあの酷い発言だった。

あの折の事が千保の心に影を落としているのは、宿下がりの折の私への態度でも判る。確証はないが、発言した張本人の勝二郎との縁談を厭う理由としては十分考えられる。

ただ、それを伝えるにせよ、あのような伝え方をするべきではなかった。

……冷静に考えてみれば、あれは八つ当たり以外の何物でもない。

勝二郎のせいで自分はひとでなしと罵られた、などと、余計な事まで言ってしまった。

巳乃殿を怒らせたのは、それが勝二郎の暴言ゆえとは言え、その事をうっかり彼女に伝えた私が悪いのであって、勝二郎本人には直接何の関係もない事だ。


 あれ以来、勝二郎は勤めこそきちんとこなし、職務上は私への態度も普段通りなのだが……ふとした折に見せる表情が、暗い。

私に対しても余計な事は語りかけまいと、ひどく気を遣っているのがよく判る。

流石に悪い事をしたと思い、折を見てひとこと詫びたいとも思いつつ……さて何と言って詫びたものか、考えあぐねてしまう。

千保があの場の出来事を見聞きしていたのは紛うかたなき事実ゆえ、詫びるとすればそれを必要以上にきつい調子で勝二郎に伝えてしまった事、なのだろうが。

流石に、巳乃殿の事を勝二郎に説明する訳にはゆかぬし……。


 「申し上げる。若君、朝の御仏間御拝礼にお渡りでござる」


 何時の間にか、奥向の入口――錠口の前に来ていた。

詰所の当番の者が杉戸越しに呼ばわる声で、我に返った。


 「承りまする。しばし、お待ち下さいませ」


 杉戸の向こうからの……よく聞き知った声の応えに、鼓動が跳ねた。


 ごとごとと、かんぬきを外す音がして。

やがて、杉戸が静かに横に開いた。


 敷居の向こうに、御方様と由紀江様が端座して、頭を下げておられる。

そして敷居際には――戸を開けた巳乃殿が、平伏していた。


 「お早うございまする、柑次郎殿」

「お早うござりまする、義姉上」


 御方様と朝の御挨拶を交わされた若君が、敷居を越えて奥向側に入られる。

御方様と由紀江様がさっと立って壁際に寄り、若君を迎えられて。

そちらに向かって軽く頭を下げたその時、たまたま杉戸を閉めようとしていた巳乃殿と一瞬、目が合った。

刹那。


 たんっ!と。

滑らかに動いた杉戸が閉まる音が、辺りに高らかに響いた。


 各務野、如何した?と主方が問われる声に、申し訳ございませぬ、粗忽を致しました、と。

閉じた杉戸の向こうのやり取りを聞きながら。

いつもなら微笑ましく思うはずの、彼女の相変わらずの粗忽ぶりに……思わず、溜息がこぼれた。


 

 若君のお戻りを、朋輩とふたり並んでそこに控えて待ちながら。

私は、錠口の杉戸をぼんやりと見つめていた。

巳乃殿の手で、目の前でぴしりと閉められたそれが……まるで私を厳しく拒んでいるかのように思えて。


 巳乃殿はやはり、明らかに私を避けている。

このまま諦めたくない、何とかしたいと……奮い立たせていた心が、萎みかける。

やはりもはや、どうにもならぬのか。


 しばしの後に、杉戸が開いた。

御拝礼を終えられた若君が出て来られるのを平伏してお迎えする。

「されば義姉上、くれぐれも道中御無理のないようにお気を付けて」

「ご案じなされますな柑次郎殿。ゆるゆると参りまするゆえ」

今日これからの事についてふたことみこと交わした後、ではこれにて、と歩を進める若君の後に続こうと、腰を上げて。

敢えて、杉戸の際に控えているひとの方を見ないようにして、踵を返した。

うかと視線を合わせてまた先程のように拒絶されるのが、怖くて。

……我ながら何と不甲斐ない事よと思いつつ。


 若君に付いて御居間に戻り、御方様の御供をして正念寺へ出向く者達に指示を与えた後。

大広間にお出ましになる若君のお召し替えの支度を急いでいると

「……しまった!」

若君が突然、ちいさく叫ばれた。

「如何なさいましたか?」

「義姉上御依頼の書を、先程持参するつもりであったのを、忘れておった」

文机の上にある一冊の書物をお手に取られて、そう仰せられるのに


 「されば後刻、私がお届けに上がります」

即座にそう、申し出ていた。


 若君は目を大きく見開いて私を御覧になられ

「……うむ。では頼む、太三郎」

心なしか口許に笑みを浮かべられて、書物を私に向けて差し出された。

「承りまする」

意味あり気な御表情が少し気になったものの……こちらも微笑みを返しながら、受け取った。



 大広間にての若君の御挨拶が済み、御家中の皆様が三々五々退出なされた後。

執務のために上段の間に向かわれた若君をお見送りして、私は書物を手に錠口へと向かった。


 若君の御言葉に『私が』と申し出たものの。

よくよく考えれば、近習頭である私が率先して買って出るような事ではなかったのやもしれぬ。

御方様に書物をお届けに上がる、と申しても、御本人に直にお届けする訳ではない。錠口の当番の侍女に取り次いでもらうだけの事だ。配下の誰かで十分事足りる。

若君はもしやそれで、何やら訝しく思われたのであろうか。


 ……よもや私が咄嗟とっさに何を思ったかまでは、お気づきではなかろうが。


 若君の御言葉で浮かんだのは、本日の奥向側錠口番の、巳乃殿の顔だった。

書物を持参すれば、ふたりで話をする機会を作れる。

先程の様子からして、もしかするとすげなくあしらわれるやもしれぬ。だが。

奥向に居る巳乃殿と直接話をする折なぞ、滅多に巡っては来ないのだ。

千載一遇のこの機を逃してはならぬ。

るか、反るか……やってみるしか、ない。



                   §§


 錠口の前まで来て。

頭を下げる錠口番の近習に、貞盛は当番の交代を持ちかけた。

当番の近習はひどく驚いて、そのような滅相もない、と首を横に振った。

錠口番は、全ての近習達のうち、若手の者で順に務めている。だが貞盛は祐良の近習頭となってからは、立場ゆえに当番に入る事はなかった。

ゆえに交代というよりは、敢えてやらせてもらう、というのが正しい。

なおも食い下がる貞盛に当番の者は、御近習頭ともあろう御方がそのような……と、ひどく恐縮していたが、昼の交代まであと半刻足らずの事ゆえ大した事ではないとどうにか説き伏せて、その場を去らせた。

そして、ひとつ大きく息を吸って。


 「もし。何方か、おられぬか」


 閉じた杉戸の向こうに、貞盛は静かに、呼びかけた――。

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