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孤悲ごころ拾遺  作者: 宮ノ上りよ
第四章 恋い惑う ~天文十八(一五四九)年・夏~秋
12/18

その二 無視

                    §



 ――もはや二度と、口を聞く事は叶わぬのであろうか。


 私に視線を向ける事なく、軽い会釈のみで通り過ぎて行った彼女の、表情のない横顔。

思い起こす度に、胸が……痛い。



 父上が若君に御進言なされた、若君と御方様の御縁組の話は、瞬く間に御家中に広まった。

大方の反応は、それが最も事態を円満に収拾する方策であろう、との事だった。

涼泉院殿――亡き若殿の御近習衆も、若君の近習達も皆、賛同の意を表している。漏れ聞くところによると、御病床にあられる御館様も御賛同遊ばされているとの事だ。

だが。


 この所、若君は明らかに、御方様を避けていらせられる。


 毎朝の御仏間御拝礼の折、奥向に入られる若君に、近習二名が奥向との境にある御錠口まで付き従う。

奥向には若君のみが入り、近習達は御錠口の前でお戻りをお待ち申し上げる。


 若殿が身罷られてよりこれまでは、若殿の七日毎の御法要の打ち合わせ等を御方様となさるために、連日お戻りまでしばし時がかかっていた。

ところが、ここ三、四日は早々にお戻り遊ばされている。

御拝礼の後、即座に御仏間を出ていらしたと思われる程の早さで御錠口にお姿を現されるのを、昨日あたりから近習の皆が不審に思い始めている。


 理由は……何となく、解る。


 若君が早々に立ち戻られるようになったのは、若殿の六七日(四十二日)御法要の前後……御方様との御縁組を父上が御進言申し上げた頃からだ。

おそらく若君は、その件を御方様と直接向き合ってお話しする事を、ためらっておられるのであろう。

父上の御進言の事は、御方様は既に千保を通じて御存知でいらせられる。

真偽を確かめるために巳乃殿を若君の御許へ遣わされた程だ。機会があれば、必ず御方様はその事を若君に直に問うて来られるはず。

若君はもしやそれを避けるべく、御拝礼が済むと直ちに表方に戻って来られるのではなかろうか。


 御方様との御縁組について、若君は相変わらず、何も仰せられぬ。

御家中には既に広く知られている事ではあるが、若君御本人が未だ全くその事に言及されぬため、近習の皆には若君の御前のみならず、御館内でその事を話題にするのは厳に慎むよう申し渡してある。


 

 御病床の御館様の代理で御政務に当たられていた若殿が身罷られてよりこの方、御兄君になり代わって若君が、連日その役をこなされていた。

執務の場である上段の間には御家老方御重臣数名が詰めていらせられる。

事務方の細かい事は御館様御近習衆の方々がなされるので、若君の近習は関わらぬ。特段の御用がある場合に備えて、交替で一名のみ御側に控えていた。


 「太三郎様、若君がお呼びでござりまする」

若君の御居間の整理をしていたら、上段の間に控える当番の者が呼びに来た。

急いで伺候すると、御自身の御蔵書のうちにある書物が二、三冊必要との事で、至急探して持参するようにと命じられた。

さて御文庫のどのあたりにあったであろうか……と考えながら廊下を辿っていると、向こう側の曲がり角から誰かが姿を現したのに気付いた。

白い地色の小袖に、蜜柑の皮の色よりも濃いめの色合いの帯の……。


 ――巳乃殿、だ。


 突然の予期せぬ邂逅に、鼓動が跳ねた。

顔を合わせるのは先日の、あの折以来だ。


 『ひとでなしっ!酷い!人として酷過ぎる!』


 忙しさに紛らせて、敢えて考えぬようにしていた事が、瞬時に脳裏に蘇る。

一体、どんな顔をして相対すればよいのか。


 心の準備が整わぬうちに、巳乃殿はせかせかと歩を進めて近付いてきた。

前方にまっすぐ視線を向けて。

私に気付かぬ風で、すれ違いざまに、すれ違う者に対する軽い会釈をして。


 応えて下げた頭を上げながらそっと振り返った時には、彼女の後ろ姿は既に消えていた。


 白昼夢、だったのだろうか。

風のように現れて去って行った彼女が、まるで己が心が生みだした幻のようにすら思えた。

まさしく廊下を吹き抜けるそよ風の如く……こちらを気に留める事なく、横をさらりと通り過ぎて行った。


 何故に今時分、このような所に来たのだろう。


 巳乃殿が去った方角をぼんやりと眺めながら、考えた。

あちらは上段の間。

普段、御方様より若君に御用の折はまず御居間に侍女を遣わされる。それが直接、執務の場に向かうという事は、何か公の御用でもおありなのか。


 ……と。

何故に自分が上段の間から出てきたかを、思い出した。

呆けている場合ではない、急がねば。若君をお待たせしてはならぬ。



 御文庫で、目的の書物を探し出して、再び上段の間へ向かう。

曲がり角を曲がった刹那……向こうから来る巳乃殿が目に入った。

先程と同様、視線を私の後方に遠く向けているのが判った。

すれ違いざまに、ちいさく会釈を交わして。

彼女の気配が急速に遠ざかってゆくのを背中越しに覚えながら……廊下を辿った。


 若君に書物を差し出して

「こちらでよろしゅうござりまするか」

問うと、確認して頷かれた後

「未だ一、二冊要るものがありそうだな……」

ひとりごちるように仰せられて、机上の書類に目を通しながらしばし沈思黙考されていた。

やがて、書物の名を二点程挙げられて

「太三郎、足労をかけて済まぬが、今一度取りに行ってくれぬか」

職務上の事ゆえ、取って来るように、と命じれば良い事なのに、同じ事を重ねて依頼する場合に若君は決してそういう仰り方はなさらない。

「何の。幾度でも承りまする」

返しながら、笑みがこぼれた。


 廊下の曲がり角を折れたその時。

すぐ前方の曲がり角を曲がって来た巳乃殿が、いきなり視界に飛び込んできた。

ほんの一瞬、合ったように思えた視線は……だがすぐに逸らされた。

無言のまま、軽く会釈をし合って、行き違う。


 この後。

再び上段の間に戻る際にも、同じような邂逅があって。

「先程から、各務野殿がこちらに足を運ばれているようですが」

流石に気になったので、若君に問うてみた。

「ああ、兄上の七七日(四十九日)御法要の件で、義姉上より遣わされて参ったのだ」

そうお答え下さった後、若君は

「……此度の御法要の事は義姉上と何も話しておらぬゆえ、な」

何とも気まずそうな面持ちで付け加えられた。


 今までの御法要の打ち合わせは朝の御仏間御拝礼の後に済ませておられたのに、此度は若君が連日早々に表方に戻られるために果たせず、ついに今日、御方様が巳乃殿をこちらに遣わされたという事か。

若君としてはさぞかし……内心忸怩たる思いでいらせられよう。


 再度の御依頼に備えて、私自身が当番の者に代わって御側に詰める事にして。

しばらく後に、書物を抱えて三度目の御居間との往復をして。

その際にまたしても、行きと帰りに巳乃殿と、すれ違った。

黙って目も合わせぬまま会釈して、すれ違っただけであった。


 上段の間に戻ると

「各務野とまた、行き会うたであろう?」

いきなり若君に、そう問われて。

「あ……はあ」

我ながら何とも間の抜けた声で返事をしてしまった。

それきり後が続かない。

気まずさを面に出すまいと努めている私に向けられた若君の微笑みが、ひどく思わせぶりに見えたのは……気のせいであろうか。



 夕刻、帰邸のために御館の門を出た途端。

職務の事から解放された頭が、片隅に追いやっていた別の事で占められて。

……足取りが重くなった。


 今日一日で、かつてない程に何度も行き会うたのに。

一度も視線が合う事はなかった。いや、合わせてはもらえなかった。


 元服以来、あまり顔を合わせる事はなかったが、それでもたまさか御方様の御用で表方に出てきた巳乃殿と今日のように行き会う時は、視線が合うとちいさく微笑みながら会釈を返してくれた。

時には

『お久しゅうございまする』

『ほんに久しいの』

軽く、ひとことふたこと、言葉を交わして。


 だが。

今日は、まるで全く話した事がない者とすれ違う折のように、形式的な会釈を返された。

明らかに私の存在を視界から外していた。


 そんなにも、巳乃殿は私を許し難く思っているのだろうか。

ひとでなし、人として酷過ぎる、と。


 行く手の空が、落日の残光で鮮やかな茜色に染められている。

それは今日、幾度か目にした色に似ていた。


 行き会う度に目も合わせてもらえぬことを思い知らされるのが辛さに、しまいの方では巳乃殿と認めた刹那、自ら先に視線を落としていた。

逸らした目の先にあった濃い蜜柑色の帯が……遥か向こうに細くたなびく雲に重なって。

少しだけ見上げたら、そこに彼女の顔があるような気がした。


 ――巳乃殿。


 聞いて欲しい。

私にとって若殿がどのような御方であったか。

私が、若殿の思いを無にするような事を考えるはずがない、と。

信じて欲しい……どうか。


 どんなに呼びかけても。

空の彼方に浮かぶ彼女の面影は、私を見てはくれぬ。

遠くに視線を向けたままで。


 『もう何も聞きとうありませぬ!』


 もう……何を言ったとて、届かぬのだろうか――。



                    §§



 胸の中に冷たい水がひたひたと満ちてゆくような、寂寥感の中で。

遅まきながら貞盛は気付いた。

……自分がどれだけ深く、各務野に惹かれていたのかを。


 妹の八千穂には、最初から弁解する事すら諦めていた。

なのに各務野に誤解され、無視されることが、あまりにも辛くて……辛すぎて。


 何時の間に、これ程までに、想っていたのだろう――。


 やはり、このまま諦めるなぞ出来ぬ。

何とか話をする機会を掴みたい。せめて、誤解だけは解きたい。


 各務野にとことん無視されて心弱りしかけていた自分を叱咤するように、貞盛は己が頬を両手で挟んでぱん!と叩いた。

そして家路を辿りながら、事態を打開するための方策を考え始めた。

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