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孤悲ごころ拾遺  作者: 宮ノ上りよ
第四章 恋い惑う ~天文十八(一五四九)年・夏~秋
11/18

その一 懊悩

                    §



 ――どうすれば誤解を解いてもらえるだろう。



 若君の文机回りを片付けていて。

一昨日、巳乃殿が持参した書がそこに未だあったのに気付いた。


 若君の御留守中に、御方様が巳乃殿を介して、父上の若君への御進言についてまことか否かを問い合わせて来られたので、事実そのような事があったとお答えした、と。

あれからしばらく後に戻って来られた若君に、御報告申し上げた。

若君御自身からその話を伺っておらぬので、正直気が引けたが、黙ったままで済まされる事ではなかった。

若君はほんの一瞬、驚いたように目を見張られた後、そうか、と一言返されたのみで、後は何も仰らなかった。


 それはともかく。

その際、この書を返して来られたので預かったと……御報告申し上げたか、どうか。


 そのような事も思い出せぬ程、二日たっても未だに心の動揺が収まらぬのだと今更ながらに気が付いて。

ふっと、溜息が洩れた。



 一昨日は若君の御寝所の宿直とのいの番だった。

しんと静まった闇の中。

目を閉じると浮かんできたのは……初めて見た巳乃殿の泣き顔。


 『ひとでなしっ!酷い!人として酷過ぎる!』

『そのような御方だとは思いませなんだ!もう何も聞きとうありませぬ!』


 いつも軽やかに響く澄んだ声が、闇の向こうから私を厳しく詰る。

考えまいとしても、ぶつけられた言葉が何度も何度も、耳の中で繰り返しこだまする。


 ――違う……!

私はそのような事、間違っても考えぬ。考えられぬ。



 若殿が御側室を置く事を頑なに拒まれる程に、御方様を御大切に慈しまれていた事も。

御方様の御懐妊を切に望んでいらせられた事も。

以前から、よく存じ上げていた。

噂としてではなく、誰かに聞かされたのでもない。他ならぬ若殿御自身の御言動によって。


 あれは、昨年の暮れの頃であったか。


 たまたま若君の御用で若殿の御許に参じた際、居合わせた御家中の方々が若殿に御側室の話をしておられた。

中のおひと方が、私の顔を見るなり

『兵部様の娘御ならば御身分も御血筋も申し分ないのではありませぬか。皆もそう申しておりまするぞ』

おもねるような笑みを浮かべてそう言った。


 一瞬、何を言われているのか解らず……解った後、唖然とした。


 御側室の事が一部で囁かれているのは知っていたが、まさかその候補に千保の名が挙がっているとは思わなかった。

父は筆頭家老、母は太守様(伊予国主・河野通直)の御遠戚にあたる得能とくのう氏の出。言われてみれば確かに有力視されてもおかしくはない。されど。


 と、若殿はくすくす笑いながら

『千保か……いや、あれは柑次郎の乳母子めのとごゆえ、私にとっても妹同然。妹を側女そばめにするなぞ有り得ぬわ、のう太三郎』

軽くいなされて、私に同意を求められた。

まことに、と苦笑しながら返して。

ちいさく笑い声まで立てられている若殿の……目が全く笑っていないことに、気付いた。


 御一同が退出された後、果たして若殿は握りしめた拳を膝の上で震わせて

『皆、我らを何だと思うておるのだ!澪は年が明けても未だ十六ぞ!』

年若い妻が居る私に何故執拗に側女を勧めるのか、と。

日頃の温厚な御性格からは考えられぬ程、怒気を露わに叫んでいらした。


 何故に御家中の一部でそのような動きがあったのか。

それは今の御家中の、御世嗣を巡る争いと無関係ではない。


 琴島の内には、近隣の様々な勢力と結びついている家々がある。

御本家筋に当たる因島村上家、誼を通じている来島や能島の両村上家、そして更には伊予国主である河野氏に繋がる家。

それらは決して一枚岩ではない。

同じ村上を名乗っていても、因島と来島はそれぞれが毛利氏、河野氏と密接に繋がっていて、事によってはそれが両家の間に齟齬をきたす。能島の御当主(武吉)は来島(通康)の女婿だが、両者も必ずしも一体ではない。

それらの勢力のせめぎ合いが、そのまま琴島家中の均衡を左右していた。

普段は御家中が一致結束していても、ひとつ歯車が狂うと、それぞれの勢力の思惑が絡んで一族郎党の団結にたちまち緩みや軋みが生じてしまう。

それが今の御世嗣を巡る争いの根底にあり、かつて若殿に御側室を勧める動きが生じた理由でもあった。


 御方様は御出自こそ都の名家だが、因島御本家の肝入りにて御入輿されておられる。

御館様御正室の、今は亡き秋陽院様は太守様の御養女。若殿も若君も太守様の義理の御孫君に当たられる。

御家中の、河野氏寄りの家の方々は、御本家とは申せ毛利氏と縁の深い因島の影響が色濃くなる事を好ましく思われぬ。それゆえ御入輿から一年以上たっても御方様に御懐妊の御様子が見られぬ事を恰好の口実として、御側室を、と若殿にしきりに御進言申し上げていたのだ。

そのような方々からすれば、確かに千保は『申し分のない血筋』なのであろう。


 御館様はお若い頃より、御家中の方々の危うい均衡を保つ事に腐心しておられたそうな。

秋陽院様も御存命中、御夫君の意を汲んで、大野に嫁いだ母以外の御里方から付けられた侍女を全て帰し、太守様御養女でありながらも御自身は中立の御立場を貫かれたと聞く。

それはそのまま、若殿や若君の政への御姿勢でもあった。

一方に寄り過ぎる事なく、されど遠ざける事もなく、程よく距離を保ちながら御家中の融和を図る……それが如何に難しい事か、父君や兄君の補佐として政に関わっておられた若君を傍で拝見していただけの私にも、よく解る。


 御家中の勢力の均衡を上手に保つ、という観点からすれば、御本家筋に近い御正室とは別に河野方から御側室を選ばれるのも良かろう。

されど。


 『世嗣のための側女なぞ、要らぬ』

お怒りの波が去った後、若殿はきっぱりとそう、仰せられた。

両の腕でふわりと、胸の前の宙をすくい上げるようにして。

『私がこの手で抱きたいのは、澪が生む子だけだ』


 まだ見ぬ我が子を、その腕の中に確かに御覧になっていらせられたのであろうか。

あの折の優し気なお顔を……今でもはっきりと、思い出せる。


 だから。

御子が居なければ良かったと、流れてしまえば良かったなどと……私は断じて思わぬ。

何があろうと断じて。


 どうしたらそれを、巳乃殿に解ってもらえるだろうか――。



 眠れぬままに夜明けを迎えて。

昨日は宿直明けの非番となり、館を出て自邸に戻った。

道すがら、つらつらと考えた。

……千保に取り成しを頼むしかないか、と。


 勝二郎の暴言を咎めなかった事については、何を言っても言い訳にしかならぬゆえ、千保に申し開きをする気は全くなかった。

されどこの事は……巳乃殿にだけは、誤解されたままでいたくはない。

先日の様子からして、千保が私の話を素直に聞いてくれるかは判らぬ。だがもはや、それより他に手がない。

千保は、あれが私の発言ではないという事はその場で見て知っているはずだ。

咎め立てせず黙っていた事は同意したのと同じだと言われるやもしれぬ、が。

言い訳と断じられようが、千保にあの折の真情を話した上で、巳乃殿の誤解を解いてくれるよう頼むしかない。


 近々宿下がりがあればその折にでも、恥を忍んで千保に頭を下げて、と思いつつ帰邸したら。

丁度入れ違いで、宿下がりしていた千保が館に戻った後だったと母上に聞かされた。

つい先日帰って来たばかりなのにまた?と、首を傾げて。

……入れ違いで出たのに帰途、すれ違った覚えが全くないのに気付いた。


 もしや私が宿直明けで戻って来るのを見越して、敢えて違う道筋を選んだのであろうか。

そこまで避けられているとすれば、千保に巳乃殿への取り成しを頼むなぞ、無理な話だ。


 ……どうしたものか。



 「太三郎様!」

不意に後ろから名を呼ばれて振り返ると、そこに勝二郎がいた。

心なしか両目が腫れて血走っているように見えるのは、気のせいか。

昨日は勝二郎は宿直ではないゆえ、寝不足という訳でもあるまいに、と、思っていると。


 「昨日父より、兵部様が千保……八千穂殿との縁談をお断りなされたと聞きました」

思いの外の事を、勝二郎が言った。


 ――千保との、縁談?


 何だそれは。

そんな話があったのか?

いや、もしかすると……あれか。


 千保の縁談云々は全く寝耳に水で、言われた瞬間は何の戯言か、と思ったが。

しばらく前に何方かが父上に

『大野、今岡の御両家が御縁を結ばれれば、両御家老方の御家中への睨みも効くというもの』

そのような事を話しているのを通りがかりに漏れ聞いた事を、思い出した。


 その時は先を急いでいた事もあって聞き流したのだが、もしやあの折の話は、この事だったのか。

先日や一昨日の、千保の頻繁な宿下がりも、それに絡んだ事なのやもしれぬ。

だが、両家の間で話を進める段階にあったのならば、これまで私の耳に全く入っていないというのも妙な話だ。


 そんな事を考えていると

「千保、いや八千穂殿御本人が……この後も奥務めを続けたいがゆえにお断りして欲しいと、兵部様に仰せられたとの事。されど私には納得がゆきませぬ!」

言いながら、勝二郎が目を潤ませた。

泣いている訳ではないのだろうが、この分ではおそらく、昨夜は殆ど寝ておらぬのではないか。


 今岡の家には、御嫡男の左馬之助様と、勝二郎、そして末弟の亀菊かめぎく丸がいる。

左馬之助様には既に許嫁がおられると聞き及んでいる。亀菊丸は我が家の初之助とほぼ同年で未だ幼い。縁談の相手というのは間違いなく勝二郎であろう。

……だとすれば、眠れぬ程に悩んだとしても、無理はない。


 勝二郎は、竹菊たけぎく丸と呼ばれていた幼少の頃より、千保を慕っていた。

幼いがゆえにそれをどう表せばよいのか判らず、ひたすら千保の後をついて回っては、何かにつけて背伸びして相対していた。

それが千保にはおそらく、一々喧嘩を売られているようにしか思えなかったのであろう。いつも正面からまともに相手をして、衝突していた。

竹菊丸が元服して勝二郎光直と名を改め、御館奥向に出仕した千保が八千穂の局名つぼねなに変わった後も、ふたりは御館内でたまさか行き会う事があると『竹菊!』『千保!』と、幼い頃に呼び合った名をそのまま口にしては、相変わらず些細な事で悪口雑言を叩き合っている。


 ふたりの気持ちは、傍で見ていてもよく判る。

幼名を呼ばれた時の勝二郎が、千保を真名で呼び悪態をつきながらどこか嬉しそうなのも。

千保が、喧嘩を売られて買った幼少の頃同様に、局名を呼ばぬ相手を仮名けみょうで呼ぶのも馬鹿馬鹿しいという表情で、敢えて勝二郎だけは幼名で呼んでいるのも。

……あれは多分、嫌いではないが特に好きでもない、という所か。


 だが。

縁談ともなると話は別だ。

特に、私が耳にした経緯から進められた事となると、当人同士の好き嫌いなぞ関係なしにまとめられるべき話であろう。


 「奥勤めであれば、母君の由並様の例もある事。例え千保がそう申したとて、兵部様がそれを理由に断ってこられるなぞ有り得ませぬ!」

勝二郎の言う通りだ。

御館様御正室・秋陽院様の一の侍女だった母上は、父上に嫁して一旦は奥勤めを退いたものの若君の御乳母として再び出仕し、秋陽院様が早くに亡くなられた事もあってそのまま、若君の母代として長く奥向の筆頭を務められた。

それゆえ、奥勤めを続けたいというのは少なくとも千保の場合、縁談を断る理由にはならぬと思われても当然だ。

「父は千保が今岡に輿入れ後も、由並様と御同様にいずれ再度出仕しても構わぬとの事」

先程までは注意深く『八千穂殿』と言い直していたのに、何時の間にか真名を口にして。

必死に言い募る様子からして、勝二郎はやはり今も、千保を好いているのであろう。

「それゆえ兵部様に御再考をお願い申し上げたのですが、兵部様からははかばかしい御返事を頂けなかったと……」

そこで瞬時、絶句した勝二郎は

「太三郎様!」

思い詰めた表情を、私に向けてきた。

「千保が私との縁談を厭う理由、他にあるのではござりませぬか!お心当たりがござりましたら是非とも教えて頂きとうござりまする!」

「勝二郎……」

「このままでは私も父も、承服致しかねまする!何卒!」

 

 取り縋るように掻き口説く勝二郎を見ていて、酷くやるせなくなった。

――まるで、今の私だ。


 『そのような御方だとは思いませなんだ!もう何も聞きとうありませぬ!』

きっぱり拒絶されたのに、それでも何とかならぬものかともがいて、足掻いて。

『ひとでなしっ!酷い!人として酷過ぎる!』

私が言った事ではない、あれは……。


 そこで、ふと気付いた。

もしや――それ、か。


 勝二郎の、あの発言。


 『御方様がお倒れになられたあの折、いっそ御子が流れてしまわれればこのような事にはならなんだのだ。御子さえおらなんだら御家中が揉める事なく……』


 女子ならば誰もが激昂してもおかしくない。

ましてそれが御方様御側付ともなれば。

そしてそれを人づてどころか、直に聞いてしまったのであれば。


 きっと、そうだ。

あれが、全ての元凶なのだ。


 そなたがあのような事を言わねば――勝二郎。


 不意に。

胸の奥から喉元へと、苛立ちがせり上がって来た。


 「……千保は、聞いていたのだ」

己が発した声が、ひんやりと響くのが、判った。

「何をでござりまするか!」

「先日の、若君の御居間での……皆が御世嗣の件で、行き過ぎた事を口にしていた、あの場のやり取りを」


 私に掴みかからんばかりに詰め寄っていた勝二郎が、目を丸くして、口を噤んだ。


 「そなたが、言うも畏れ多い事を申した事も、千保は聞いておった」

「……」

「おそらく千保は、あの場にいた者全てを、決して許さぬであろうよ」

「……」

「私も、そなたの事もな」


 勝二郎は、呆然として私を見ている。

まるで魂を無くした、抜け殻のような顔で。


 そなたは決して言ってはならぬ事を口にしたのだ、と。

なおも言ってやりたくなるのを辛うじて抑えて

「それゆえもはやどうにもならぬ。千保の事は、諦めよ」

そう、断じた。


 ――どうにもならぬのは、私も同じやもしれぬ。


 「……そなたのせいで私はひとでなしと罵られたわ」

誰が聞いてもそう思うであろう。お腹の御子が流れれば良かった、などと。

だから巳乃殿も。


 もはや、進退窮まったとしか思えぬ。

私も……諦めねばならぬのだろうか。



                   §§



 進退窮まった、私も……と、しまいの二言を口に出していた事にも。

勝二郎光直が

「……千保が……そのような」

と、蚊の鳴くような声で呟いた事にも気付かずに。

憔悴した貞盛は、ふらりと立ち上がって、その場を後にした。


 その翌日。

再度、光直と八千穂の縁談についてやはりこの件は、と断りを入れた大野兵部に対し、光直の方も気乗りがしないようだという理由で今岡治部が破談を受け入れた事を、貞盛は知る由もなかった――。

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