その五 誤解
§
――風が、甘い香りを運んでくる。
未だ名残りの山藤がどこかで花開いているのだろうか。
若君の御居間から御寝所までの襖や障子を全て開け放ち、奥まで風を通しながら、文机回りの書物の整理をしていて。
手に取った一冊が、先日御方様にお貸ししたものだった……と気付いた。
昨日も、今朝も、若君は何も仰せられなかった。
父上から昨日、あの話をお耳にされておられるはずだが。
昨日の朝の事だった。
父上が出仕前に、母上と私に仰せられた。
『今日、若君に、御方様を御正室としてお迎え遊ばされるよう御進言申し上げようと思う』
母上は目を丸くされたが、私はその事自体には特に驚きは覚えなかった。
長兄亡き後に、残された妻を次弟が娶るという事は、さほど珍しい話ではない。
――だが。
『それは……如何なものでございましょうか』
母上は眉を顰めて懸念を口にされた。
若君は御方様を年来、実の姉君のように御大切に思うていらせられる。されど御縁組となるとまた話は別なのではないか、と。
父上もその点を案じてはおられた。だが、現状を鑑みるにそれ以上の方策が思いつかぬという。
父上のお考えは、解る。
若君が御方様を御正室にお迎え遊ばされて、まずは御後嗣となられる。
その後にもし和子様がお生まれになれば、次代の御世子となされればよいのだ。
叔父の立場から未だ稚い子を敢えて後嗣となして後見するよりも、義父として膝下で子を育てその成長を待つ方が、極めて自然な流れで御家督御継承がなされる……と、自分も思う。
このままでは、どちらが御後嗣になられたとて、御家中は割れる。将来に禍根の種が残る。
父上の御献策ならば、若君を推す側も、和子様やもしれぬ若殿の御遺子に期待する側も、双方が納得するはずだ。
――だが。
果たして若君が、御納得なされるであろうか。
若君は御方様を慕っておられる。
それは皆が思っているような、実の姉君に寄せるようなお気持ちではない。
蛍を持参してのあの、最初の出会いの時から……おそらくは、今も。
『はかなしや、人のかざせる、あふひゆえ』
若殿と御方様の御婚儀当日。
正式の御対面を前にしてのあの呟きには、御方様への思慕の情と共に、若殿への紛れもない妬心が込められていた。
御婚儀までは御対面が叶わぬはずの御方様を、蛍を手土産にこっそりと垣間見に出向かれて、ひと目で恋に落ちられた。
その御方とやっと再び会う事が叶う日、その隣には御夫君となられる兄君がいらせられる。
それが堪らなく、虚しい――と。
されど若君は、御幼少の頃からずっと若殿を……兄君を心から敬い、慕っておられた。
それゆえに。
御家中の混乱を収拾する最善の方策、と言われたからとて、果たして素直に首を縦に振られるであろうか。
なまじ御方様への想いをお心に秘めておられる分、御方様と未だ見ぬ御子に想いを遺して身罷られた兄君に、後ろめたく申し訳なく思われるやもしれぬ。
御家の為という大義名分に拠って想いを遂げられる事を潔しとせず……むしろそんな御自分が許せぬと、却って真逆の方向へ行かれるのではなかろうか。
昨日、館から戻られた父上は、母上の
『今朝の事、お話し申し上げたのですか』
の問いに黙って頷いたのみで、後はその事について何も仰せられなかった。
即答出来るような事ではない。おそらく若君は話を聞かれたのみで、是とも否とも仰せ出されなかったのであろうが……。
「申し上げます。御方様のお使いにて若様に、書をお返し申し上げるため参上致しました」
突然部屋の外からかけられた口上に、思考を断ち切られた。
随分久々に聞く声。姿を見ずとも、声だけで解る相手。
「……各務野殿?」
開け放たれている障子の陰に、彼女は座って頭を下げていた。
「若君はただいまこちらにおられぬ。すぐには戻られぬゆえ、書は私が預かろう」
ぴくりと、頭が動いた。だが答えはなかった。
書を懐に抱えて平伏したまま、しばし逡巡している風に黙っていた巳乃殿は……やがてすっと顔を上げて
「別して、御方様よりの御命にて是非とも、伺いたい事がございまする」
真っ直ぐに私の目を見て、言った。
いつもの彼女らしからぬ、固く抑揚のない声に、何かただならぬものを感じながら。
「御方様よりの御命、か……」
その言葉を復命して
「されど若君のお戻りは何時になるか判らぬゆえ」
済まぬが出直してはもらえまいか、と言おうとすると
「いえ、太三郎様に伺いとう存じまする」
意外な言葉がそれを遮った。
「私に?」
「はい」
御方様の御命にての問いに、若君でなく側仕えの私の答えを持ち帰るのは、流石にまずいのではなかろうか。
そう返そうとしたのだが、目の前のひとはかなり思い詰めた表情で、私を凝視している。
出直せ、などと……突き放すようで、言うに言えぬ。
「……私で答えられる事ならば良いのだが」
取りあえずそう返して
「ここでは話が出来ぬ。御方様のお使いとあらば、まずはこちらへ」
廊下に膝をついている彼女を、室内へといざなった。
持参した書物を預かって、整頓したばかりの若君の文机の上に置き、立ち戻って巳乃殿の前に腰を下ろす。
このように、真向かって話をするのは、何時以来であろうか。
ほんの一瞬の懐かしさは……だが彼女の固い表情の前に、霧散した。
「して、御方様の御命とは?」
私がそれを伺っても良いのだろうか、と、未だ腑に落ちぬながらも、話を切り出す。
と、私に向けている巳乃殿の視線が、ふと揺らいだ。
何かを言いかけようとして、口を噤んで。
やはり彼女も、言ってはみたもののためらいがあるのでは……と思っていると、彼女は不意に大きくひとつ、息を吸った。そして
「兵部様が若様に、御方様を御正室にお迎えあそばすよう御進言なされたと伺いました。まことの事でしょうか」
一気にそう、言った。
意外なひとからの、意外な問いかけに、一瞬思考が乱される。
何故、巳乃殿がそれを?
いや、巳乃殿にそれを問わせているのは――。
「その事、御方様が?」
確かめようと問うと、彼女は頷いた。
「はい。真偽の程を確かめてくるようにと申し付かりました」
昨日の今日だ。一体誰が御方様のお耳にその事を入れたのか。
今朝の御仏間御拝礼で若君が話された……訳ではなかろう。そもそも若君から直接伺ったのであればわざわざ確認の使いを寄越されるはずがない。
「御方様には何方からお耳に?」
問うと、巳乃殿は一瞬、唇をきゅっと噛んだものの、思い直したように口を開いた。
「八千穂殿です。先程お宿下がりより急ぎ戻られて、御方様に」
……今度はこちらが唇を噛む番だった。
「千保が、か」
母上から聞いたのであろうか。
聞いてすぐさま奥向に取って返し、御方様に御報告申し上げたのか。
ふっと、溜息が洩れた。
出処が千保ならば、誤魔化しは効かぬ。きちんと話すしかない。
腹を括って、口を開いた。
「如何にも、昨日我が父・兵部が若君に、御方様との御縁組をお勧め申し上げた」
「それは何故に?」
間髪を入れずに問い返される。
「それが家中をつつがなくまとめる唯一の方策ゆえと、聞いておる」
問うているのは巳乃殿ではない。
御方様御直々に問われているも同じ事なれば、迂闊な物言いは許されぬ。
私見や憶測を入れぬように気を付けながら、昨日聞いた父上のお考えを、淡々と述べた。
若君が御方様を御正室となされて次代を担われ、生まれる御子が和子様なればその世嗣として御成長を待つのだと。
これならば若君を推す側も、和子様を嫡流として重んじる側も、双方納得がゆくであろう、と。
私が話している間。
巳乃殿は時折、何か言いたげに口許をちいさく動かしては、唇をきゅっと引き締めていた。
……おそらく、納得がゆかぬのであろう。
これはあくまでも御家第一、御家中第一に考えた政略上の策。
若殿と御方様の睦まじさを、年来、側で拝見してきた巳乃殿にすれば、到底受け入れられる話ではあるまい。
それが解らぬでもないゆえに、内心ためらいを覚えながらも……ともかく、父上が語られた事の全てを聞いたままに語って聞かせた。
「兵部様のお考え、よく解りました」
話し終わった後、巳乃殿は静かにそう言った。
「して、太三郎様は如何思われますか?」
「え?」
思いもかけぬ問いかけに、一瞬、まじまじと巳乃殿の顔を見つめてしまった。
何故、私の考えを問うのだろう?
それは明らかに、御方様の御命の範疇にはないはずの問いだ。
戸惑っていると
「太三郎様のお考え、差支えなければお聞かせ願いとう存じます」
再度、巳乃殿がそう言った。
これは……巳乃殿本人が、私の考えを聞きたい、という事なのか。
父上のお考えをただ伝えるだけの事よりも、緊張を覚えながら。
「……あくまでも私見として聞いてもらいたいが」
真摯な表情で耳を傾けている目の前のひとに対して、こちらも真摯に、語り始めた。
「世が乱れておる昨今、例え御嫡子と言えど幼い御子を御当主に頂くのは如何なものかと思うておる」
これは私のみならず、若君を推す側の共通の認識でもある。
「やはり若君を御後嗣と成して、ゆくゆく御当主の座に就いて頂くのが良かろうと」
巳乃殿は黙って、私をじっと見ている。
「ただし、それではおそらく家中がまとまらぬ」
「……」
「それゆえ父が申す通り、御方様に若君の御許へ御再嫁頂き、次の御後嗣として和子様の御処遇を固めるのが最善かと思う」
それまで微動だにしなかった巳乃殿の表情が、ぴくり、と動いた。
私は本当の存念を語ってはいない。
正直、若君と御方様の御縁組については、未だ何とも言い難い思いがある。
若君のまことのお気持ちを思うと――。
だが、それはここでは口には出せぬ。
御家中の混乱を鎮めるには、やはり父上の案が、最善なのだ。
昨今の、余りにも目に余る状況を思えば……。
つと、床に視線を落として。
「正直な話、御重臣方に対する家中の若い者達の不満が募る一方で……その上、涼泉院殿の御近習衆とこちらの近習の間も昨今は険悪で、かなり危うい事になっておる」
この所胸の中に澱のように沈んでいた事を、口にした。
「このままでは若君が御後嗣になられようがなられまいが、方々で後々遺恨を残すことになりかねぬ」
ふぅ、とひとつ、溜息が洩れた。
「近習の中には、まことに畏れ多く聞き苦しい事ながら、御方様の御懐妊さえなければ……と申す不届者までおる始末だ。きつく窘めたのだがそれに頷く者も多く……もはや私にも抑えが効かぬ」
……先日の光景が、脳裏に浮かぶ。
目の前で、主方に対する畏れ多い言葉が飛び交うのに、止める事が出来なかった己が無力さの程を思い出して……心が、重くなる。
勝二郎の暴言も、本来であれば上役の私が厳重に戒めねばならぬ事だったのだ。なのに。
「先だって御方様がお倒れになられた折、いっそ御子が流れてしまわれればこのような事にはなどと」
「ひとでなしっ!」
突然の鋭い叫び声に、はっと我に返った。
視線を上げると、巳乃殿が目に涙を浮かべながら、きつい表情で私を睨みつけていた。
「酷い!人として酷過ぎる!」
「え?いや違う!私はっ……」
今のは私の発言ではない、と。
慌てて言葉を継ごうとするのを遮るように、巳乃殿はさっと立ち上がった。
くしゃくしゃに歪んだ両頬を、溢れた涙が流れて落ちる。
「そのような御方だとは思いませなんだ!もう何も聞きとうありませぬ!」
そう言うと、身を翻してその場から駆け出して行った。
「巳乃殿っ!」
§§
顔を覆って、祐良の居間を飛び出して行った各務野を追うように、腰を浮かせて。
焦った貞盛は、思わず彼女の真名を叫んでいた。
だが、それは各務野には届かなかった。
居間の敷居際まで来て。
ぱたぱたという足音が遠ざかっていった方向を、貞盛はただ、見つめる事しか出来なかった。
『ひとでなしっ!』
――いや違う。
あれは私が申した事ではない。
『そのような御方だとは思いませなんだ!』
私ではない。
私はあのような事、断じて思わぬ。断じて。
『もう何も聞きとうありませぬ!』
聞いてくれぬか……巳乃殿――!
もう見えぬ後ろ姿に、届かぬ釈明の言葉を心の内で幾度も繰り返して。
しばらく後、居間に戻って来た祐良に
「太三郎?如何した?」
横合いから声をかけられるまで。
貞盛は呆然と、そこに佇んだままでいた――。