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孤悲ごころ拾遺  作者: 宮ノ上りよ
第一章 名を交わす ~天文十六(一五四七)年・夏
1/18

その一 真名

                     §


 ――真名まなを、教えてもらった。



 先日橋が流された川のほとりで、途方に暮れて立ち竦んでいた、私よりやや幼げな女子おなご

きちんとした身なりで、上質の塗りの文箱をしかと抱えて。

御館からの使いで行先は我が家、と聞いて、何を思うより先に両手が動いていた。

袴の裾をたくし上げて、結んで。


 急いで渡してやらねばならぬ。

抱きかかえて、川の中に入っていた。


 おそらくは姫君様より母上へのお使いであろう。

姫君様付の侍女達を取り仕切っている、由紀江ゆきえという侍女は、大層厳しい女子だと洩れ聞いている。

若君のお話によると、特に一番小柄な侍女が、毎日のように叱られているのだとか。

……もしや、この女子の事やもしれぬ。


 

 一旦、岸に彼女を下ろしてから草履を取りに反対側に戻り、再び川を渡ると。

彼女は襟元から手巾しゅきんを取り出して

「あの、これで、おみ足を……」

勧めてくれるのは有難いが、彼女の方こそ足を綺麗にせねば使いが務まらぬであろうと、諭して丁重に断った。

しきりに恐縮している彼女に、一応こちらの身分は明かしておかねばならぬか、と思ったが。

……さて、何と名乗れば良いのだろう。

奥向おくむきの侍女殿であれば、奥向で呼ばれている通り、幼名でも良いのだろう……が。


 私はもはや、とっくに元服していてもおかしくない年齢だ。

未だ奥向で暮らしておられる若君に、近習としてお仕えする都合上、若君の御元服までは元服を控えると父上に明言されている。成人男子となると原則、奥向には入れぬからだ。

だが、それではあまりに不憫であろうとの母上のお言葉で、父上より元服後の名乗りだけは先に賜る事が出来た。


 相手は姫君様の御使者。この際、名乗るならばそちらであろう。


 話の流れで、彼女に

「あの……失礼ですが、貴方様は」

と問われて、さらりと

「申し遅れた。私は大野兵部丞ひょうぶのじょう長盛ながもりが嫡男、太三郎貞盛たさぶろうさだもりと申す者」


 ……名乗った後の彼女の狼狽ぶりは凄かった。

鉢の中であっぷあっぷしている魚のような表情で

「ご、御無礼をつかまつりました、わたくしは姫君様にお仕えする、みのと申します」

真名と思しき名を名乗りながら、大事な使いの文箱を取り落しそうになり、間一髪の所で抑えた。

「申し訳ありませぬ!奥向では……」

ますます慌てて何やら早口で叫んでいる所があまりにも可笑しくて

「そなた、よく慌て者と言われておるのではないかの?」

ついそう言ってしまった。

と、目の前の女子はしょんぼりとうなだれた。

「まことに重ね重ね、不調法にて申し訳ございませぬ……」

消えそうな声でぼそぼそと言う。


 しまった、言い過ぎたやもしれぬ。

彼女は慌てながらも、いみなを含めた正式な名乗りをした私に、真名を返してくれたのだ。


 「いや、謝る事ではなかろう?私としては真名を名乗ってもらえた事が、きちんと礼を返してもろうたようで心地良いからの」

そう言うと。

ほんの少しだけ彼女が、笑ってくれた……ような、気がした。


 行き先が我が家なので同道しようと申し出たが、あまりに畏れ多いと固辞された。

ここで無理を言っても、却って相手に恐縮されるだけだ、と、取りあえず先に行く事にした。


 さて、如何したものか。

このまま真っ直ぐ帰って鉢合わせになっても、母上の前で再度先程の礼やら詫びやらを繰り返させるだけになろう。

彼女が帰る頃まで、どこかで寄り道でもするとしようか。


                     §§


 ――半刻後。

帰宅した太三郎は、母の美玖みくに開口一番

「みの殿は、無事にこちらへ来られましたか、母上」

そう問うて、美玖の首を傾げさせた。

「みの殿?」

「先程、流された橋のたもとで難儀しておる所を助けたのです。姫君様より我が家への御使者と伺うたものですから」

美玖は訝し気に

「それは良い事をしましたね、甲午こうご……いいえ太三郎」

館で通称として使っている幼名の『甲午丸こうごまる』をつい口にしかけて、あざなの方で言い直す。

館ではともかく、見た目に明らかに幼名が似合わぬ程凛々しく成長した息子には、やはり成人名で呼びかけてやりたいと思う母心であった。

「して、その方はご自分で『みの』と名乗られたの?」

「はい!」

太三郎は胸を張って応えた。

「それはもしや、真名を名乗られた、という事かしら?」

「はい。確か、姫君様御付の侍女殿の局名つぼねなは皆、三字名でしたね?それゆえ局名ではなく真名の方かと。助けた礼に真名を名乗られるなど、大変折り目正しい侍女殿と見受けました」

「……ええ、そうですね」


 嬉しそうに言う息子に微笑みを返しながら。

美玖は先程使いとして訪れた、若殿の内室・澪乃みおの姫付きの小柄な侍女の事を思い返していた。

(あの子は局名を確か……かがみの、と申したはず。明日、姫様にお伺いしてみようか)


 太三郎は、助けた女子が他人には滅多に教えぬはずの真名を名乗ってくれた事に気を良くするあまり、大事な事をひとつ、忘れていた。

『申し訳ありませぬ!奥向では『かがみの』と呼ばれておりますっ!』

……彼女が、局名も名乗ったという事を。

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