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万有引力

作者: 小村慎太郎

古代ギリシャにおいては、師匠と弟子は歩きながら議論を闘わせたそうだ。それがすなわち、学問だった。ラファエロの「アテナイの学堂」でも、石造りの学堂の廊下で、プラトンとアリストテレスが議論している様子が描かれている。

一方、現代を生きる私はというと、配属先の研究室の狭い一室で、教授と向かい合って腰をかけているものだから、さながら診療所の医者と患者のようである。


「つまりだね。思い通りに生きられないのは、全然、社会のせいではない。自分のせいなんだ。」

先生は、先ほど入れなおしたコーヒーを片手に自説を展開された。

「たとえば、君が嫌な上司に飲みに誘われたとしよう。これを断ることは難しい。その理由は何か。それは、上司にどう思われるか気になるからだ。つまり、自分が気にしなければ、断ることは簡単なんだ。」

「成程。確かにそうですね。その嫌いな上司にどう思われようが、そもそも嫌いなのだから、知ったことではないということですね。

しかし、その嫌な上司というのは、私以外の同僚も飲みに誘うでしょう。その同僚たちは、生贄のように愚痴や薄っぺらの武勇伝を延々と聞かされる訳でしょう。その生贄の輪に自分だけ参加しない訳にはいかないでしょう。」

「と、いうことは君は嫌な上司を、共通の敵とみなして、同僚と仲を深めることを望んでいるんじゃないのかい?」

「そんな望みがあるはずありません。その上司を除いて、同僚同士で盛り上がった方が仲も深まるでしょうし、その上司と飲まなきゃいけないのがあまりにも苦痛で、吉田なんか精神的にやられちゃって、入院してるんですよ。」

「ちょっと待ちなさい。これはたとえ話であって、現実の話をしてるんじゃない。まぁ落ち着きなさい。」

そう言って席を立つと、私の分のコーヒーを入れて下さった。私はそれを一口いただいた。

「たとえば、その上司のせいで体を壊す同僚がでることもあるでしょう。そんなことを望むはずもありません。」

「じゃあ君の望みはなんだ?」

「嫌な上司が飲みに誘ってこないことです。」

「では、その上司を殺すというのはどうかね。」

「論理的には解決しますが、それは現実的にはいけないでしょう。」

「どうしてだね?」

「社会が許してくれないでしょう。」

「成程、社会がか。私はそうは思わん。許してくれないのは、君の良心だ。社会はむしろペナルティを与えることで許そうとしている。

全ての生きにくさの原因は良心といった何か目に見えない引力だ。」

「良心といった引力。」

「万有引力だよ。全ての物体と物体の間に引力が働くように、全ての心と心の間にも引力だ働くんだ。組織のピラミッドの中にいては、上司の心と自分の心の間に引力が働く。当然、部下との間にも。さらにいうと、組織そのものの心との間にも引力が働くんだ。」

「組織そのものを心のある人格のようにとらえるべきだということですね。」

「そうだ。先ほど例に挙げた上司の誘いを断れないのは、この引力が原因なんだな。」

「成程。人が集まると不文のルールが生まれるということですね。たとえば、A・B・Cの三人が一緒にいるとき、Aには興味ないB・Cだけなら盛り上がれる話をしない。なるべくなら、A・B・C共通の話題を探そうとする。これを我々は思いやりと呼ぶが、これこそが引力なのだと。

しかし、そうだとすると思い通りに生きられないのは、自分のせいではなく社会のせいということになりませんか?」

「相変わらず、理解が早いね。もうちょっとヒントを与えよう。万有引力についてだ。地球が人間を引っぱっている時、等しい力で人間も地球を引っぱっている。地球が一方的に人間を引き寄せているように見えるのは、地球の質量に比べて人間の質量があまりにも小さいからなんだよ。相互作用なんだ。

同じように、社会の心は個人の心を引っぱっている。と、同時に個人の心も社会の心を引っぱっている。だから思い通りに生きられないのは、自分のせいだ。」

「ヒントをいただいて、ますます分からなくなってきました。社会の心と個人の心との相互作用として引力が働くことは理解できました。しかし、社会というものは個人に比べてあまりにも強大です。したがって、その相互作用の引力は、個人に対しては強烈に社会に対しては微弱な影響を与えるように思うのですが。」

「いいじゃないか。もう一歩だ。間違えてはいけないのは、社会と個人の相互作用ではなく、社会の心と個人の心の相互作用だということだ。」

「成程!」私はひらめいた。

「社会の心が個人の心に比べて強大だと結論するのは軽率だということですね。」

「その通り。」先生はニンマリとお笑いになった。

「心の質量の問題だ。個人の心の質量を大きくすればよい。社会の心の質量を無視できるくらいに。」

「そんなことができるのでしょうか。」

「できるとも。訓練次第で誰にでもできる。ところで、心というものの理解を深めようか。心とはなんだね?」

「感動とかそういったものを司るものでしょうか。」

「違う。打ち震える感動は体でするものであって、実は、心で司ってはいない。意外かも知れないが、心の働きは、予測と不安だけしかない。思いやりや良心も、予測と不安に帰属する。怒られやしないか、嫌われやしないか、こういったものが心だ。」

「相互作用としての引力が働くものは全て、予測と不安に帰属し、それを心と呼ぶ訳ですね。」

「そうだ。ではその予測と不安はどこからやってくるのだろうか?」

「それは経験でしょう。」

「経験だな。」

「ええ。そう思います。」

「この経験こそが、心の質量の正体だ。」

「経験が質量。」

「想像してみてくれ。もし今、君が私を殴ったらどうなるだろうか?」

「先生は、ご立腹なさるかと思います。」

「そう思うか。私の予測では、あまりに突然のことで、茫然としてしまうように思う。君は、他人を殴ったことがあるかね。」

「子供の時分に、兄弟喧嘩で兄を殴ったことがあります。」

「大人になってからは?」

「ありません。」

「つまり君は、私を殴ったことによって起こる事態を、子供の時にお兄さんを殴ったと時に起こった現象から予測している訳だ。あるいは、他人の喧嘩、テレビドラマ、マンガ、小説といった疑似体験から予測している。つまり、思い込みだ。ほとんど思い込みなんだ。この思い込みをちょっとずつ排除していくことが、心の質量を大きくするということなんだよ。」

「よく分かりました。地道に思い込みを排除していく訓練がやがて、社会を超える存在につながるということですね。また、そういう存在が世の中を前進させていく。このように考えてよろしいのでしょうか。」

「流石だ。一を聞いて十を知るとは君のことだね。君のような若者がいるというのは、なんともうれしいことじゃないか。さぁ、今日の議論はここまでにして、飲みにいこうか。」


 「お断りします。」

 私は、無言・無表情で先生を見つめた。先生は、しばらく何も言えず茫然としていたが、そのうちにニンマリと笑った。

「いや、おそれいった。そういうことだよ。それが心の質量を大きくするということだよ。さぁ、冗談はさておいて、飲みにいくか。」

 なおも無言・無表情で先生を見つめた。すると、いつも余裕のある先生が、だんだんと慌てはじめた

「え?嫌な上司ってボクじゃないよね?神田君のことじゃないの?えっ?ボク、そんなに嫌な奴かな。冗談だよね。」

「すいません。」

「どっち?どっちのすいません?今のは冗談でした!すいません飲みにいきましょう・・のすいませんだよね?あなたのことが嫌いです・・のすいません?違うよね?ねっ?ね?」


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