07 泉と封印石 1
私は、伯爵家の娘として、兄さん――兄上の妹として、順調に成長した。
現在、兄上は十二歳。私は五歳になっている。
伯爵家の財政は、かなり改善してきていた。父上――伯爵家のキース父上――が持っていた封印石を破壊してから、運が上向いた感じだ。きっと、伯爵家の不遇は封印石が原因だったのだろう。
そして私の実父問題はというと。
私の実父はアンリさんらしいけど、問いただす機会はなく、確定できていない。聞かされたばかりの頃はもやもやして落ち着かなかったけど、今はもう、別にいいやの心境に至っている。
「じゃあアリア、次はここだ」
「はい、兄上」
兄上が空中に作った小さな火の玉を、私が作った水の玉で消していく。
こうすることで、力のコントロールが身につくのだ。
暴走しがちだった兄上の炎を、無邪気を装って消して以来に確立された、兄妹コミュニケーションである。
「スピードを上げよう」
「はい」
次々に出現する火の玉を、私も遅れじとリズミカルに消していく。
もう兄上も完璧に力のコントロールが出来て、暴走の危険なんかない。
万が一暴走したとしても、この兄妹コミュニケーションを人目に晒しているから、皆、兄上の暴走は私が、私の暴走は兄上が止められると知っている。
抑止力があるということは、随分と人を安心させるもので、今はもう、兄上や私を、恐れの目で見る人はいない。
「フェリックス様、アリア、お茶にしましょう」
「ありがとうございます、ライラ母上。アリア、行こう」
「はい、兄上」
人を雇う余裕は出てきたけれど、家事は相変わらず母上がしている。もとが平民の母上は、家事仕事を楽しんでいるのだ。
「あ、ピーチパイだ!」
「ええ、アリアの好きなピーチパイよ」
「頂きまーす!」
お茶菓子が、好物のピーチパイだったので、早速ほうばった。
うーん、美味しいです!
「アリア、俺の分も食べるかい?」
ご機嫌で食べ終えたところで、兄上からピーチパイのお皿が差し出された。
私が食べるのをにこにこ見守っていたらしい兄上が、手を付けずにいたピーチパイを寄越してくれたのだ。
「でも、兄上」
「ほら」
兄上に悪いから辞退しようと思ったのに、兄上は私の空のお皿と交換してくれてしまった。
「――ありがとう、兄上!」
目の前に置かれたピーチパイに、私はあっさり降伏した。
……あれ、おかしいな。私は兄上を幸せにするのが目的なのに、兄上に幸せにしてもらってるわ。
――うーん、なんだか最近、こういうことが多い。
私は、兄上を幸せ人生に誘導するために生まれてきたのに、特別私が何かしなくても、兄上はずっとご機嫌、幸せ満喫してるっぽい。
……ちょっとね、私の存在意義を考え込んだりしなくもないんだけど……まあ、いいよね。兄上、笑ってるし。
っと、そうだ。貰ったとはいえ、独り占めは宜しくない。
「兄上兄上」
「なんだい? アリア」
「はい、兄上」
私は一口サイズに切り取ったパイを、フォークに刺して兄上に差し出した。
つまり、あーん、だ。
兄上は驚いたように目を瞠った。
「……ありがとう、アリア」
そして柔らかく笑むと、ぱくりと食べた。
「……ふふふ。本当に、仲が良いのね」
「当然です。アリアは、俺の可愛い天使ですから」
母上の感想に、兄上はにこやかに告げて――そして表情を曇らせた。
「……本当は、明日だって、離れたくないんだけど……」
「そういえば、フェリックス様は明日、祝福の泉までおでかけなのでしたね」
「はい。父上が、社会勉強だと仰るから」
明日、兄上は、救済院主催イベントである社会見学に参加することになっている。
神父様とシスター数人の引率で、救済院で面倒見ている孤児の子供たちと、一般市民の希望者とで、日帰り旅行をするのだ。
ちなみに目的地である祝福の泉とは、昔、光の神子であった聖女が祝福した泉で、コインを投げ入れて願えば、願いが叶う、幸運が訪れるといわれ、観光名所になっている。
父上は、その旅行に、兄上も参加するよう勧めたのだ。
曰く、民の視点に触れるため、らしい。
兄上も、特に反抗することなく了承していたのに……実はあんまり気が進まなかったのか。
しかも理由が、私がらみっぽい。
「兄上、私、お留守番できるよ? お土産は欲しいけど」
「……そうだね。アリアは賢い良い子だからね。勿論、お土産は買ってくるよ。ああ、そうだ。祝福の泉は、コインを投げ入れて祈ると、願い事が叶うと言われているんだ。アリアは、何かお願いしたいことはあるかい?」
「……ええと……」
兄上の幸せを、というのが真っ先に思い浮かんだけれど、光の神様に、私が幸せにするんだと啖呵切っちゃったしなあ。
どうしようかな、と考えていると、躊躇いがちに母上が口を開いた。
「……あの、フェリックス様」
「なんですか、ライラ母上?」
「……実は、最近の祝福の泉は……願い事をすると、その逆に願いがかなってしまうという噂がございます……」
「え?」
私は思わず聞き返した。
「本当なの? 母上」
「ええ。教会の集まりでそういう噂を聞いたのよ」
母上は、よく教会にお手伝いにいっている。そこで最新の噂話を手に入れてくるのだ。
「ねえ母上、もっと詳しい話はある?」
祝福の泉は、コインと共に捧げられた善き祈りの力を束ね、集まった力で願いを叶える。そういう魔術が、何百年も前には存在していたのだ。今はもう、失われた技術になっているようだけど。
それが、逆に叶う――不幸になるなんて、あの泉に限って有り得ないはずなのに。
「私が聞いた話では、祝福の泉に健康を願うと病気になって、お金が入るようにと願えば突然の出費が強いられ……そして恋の願いをかければ、ふられてしまう、らしいのよ」
「……それは、いつからのこと?」
「ここ数ヶ月のことのようよ」
「……それは、大変なことになるかもしれませんね……」
兄上が考え深げに呟いた。
祝福の泉は、我が伯爵領の一大観光名所だ。景観も美しいけれど、集客パワーはやはり、願いが叶うから、だ。
なのに、願いを逆に叶えるなんて噂が立ったら、観光収入が激減してしまうだろう。これは由々しき事態だ。
なにしろ伯爵領の大部分は農地で、農業が主産業。天候で収入が大きく変わる。私が生まれた頃は天候不順による不作が続いていたせいで、貧乏に拍車がかかっていた。それでもなんとかなっていたのは、観光収入があったからだ。
幸い、ここ数年は農業も順調で、収入も増えてきているけれど……また不作の年がこないとも限らない。その時に、観光収入もなくなっていたらという想定は、伯爵家の人間としてはぞっとしない話だ。
それに――祝福の泉が、いきなり逆効果になったというのなら。
それは、封印石の影響である可能性が高い。
「……兄上、私もその泉を見たい」
「え、アリアも?」
「はい」
「……そうだね、俺も、アリアと一緒に行けるなら嬉しいよ。父上にお話してみようか」
「はい、兄上」
誠心誠意、全力でおねだりしますよ! と私は一人意気込んだ。