猛進剣 鼻折
退かぬやつ、というのが、前丹亥太郎に対する大方の評である。
亥太郎が父の後を襲うため、見習いとして奉行所に出仕するようになってから、はじめての正月であった。
お役目の上では後見役ともなる父は、奉行所内での亥太郎の評判をつぶさに集めている。普段からもの静かで口数少なく、謹厳武士を画に描いたかのような父であるが、正月の挨拶の折にはその重い口を開き、亥太郎が今、周りからどのように見られているのかということを聞かせてくれた。
道場通いをしておる頃から何も変わっておらぬ、というのが、父の。ひいては亥太郎自身の認識でもあった。
「お役目は剣術とは違う。いや、これは剣術もそうのはずだが。ときには退くことも、覚えねばならぬ」
そのときどきの様子によって、四角四面に対するのでなく、相手の出方に合わせる。亥太郎が今までに幾度となく、言われてきたことである。だがこのことが、いまだに亥太郎にはよくわからぬ。
今年の正月は風が弱く、雪もさほどではなかった。名が体を表したかのような太く短い首をしきりに回してうなりながら、亥太郎は新春の清々しい空の下を歩いている。格好も久々の道着姿であった。
出仕してからの日々は何かと慌ただしく、亥太郎の足は道場から遠のいていた。道場主から家の方に初稽古にはでき得るならば顔を出すようにと言伝があったため、足を運ぶことにしたのだ。
柳が植えられた川べりの道を歩く。見知った顔をみつけた。亥太郎と同じく道着を身に着けた細長い姿が、ゆったりとした足取りで同じ方角へ向かっている。同期の阿戸賀戌造に違いなかった。
後ろから声をかける。
「戌造も初稽古か」
「前丹どのか」
すでに気づいていた様子で、足を止めずに顔だけで振り返る。戌造はこう見えて腕が立つ。下から二段目と三段目の札を行ったり来たりの亥太郎より、はるか上段に札を架けていた。
力は亥太郎の方が強い。速さも上だ。だが、立ち合っては勝てない。戌造の剣はそういう剣だ。特に機を見るのがうまい。注意深いのだ、今のように。
「たまには顔を見せろとの言伝がありましてな」
「おれもだ。戌造も道着で来たのか」
「もう子どもでもないのだから、きちんとした身なりで挨拶に出向けとは言われたのですが」
「おそらく皆道着で来るだろう」
亥太郎たちが通っていた道場はこじんまりとした場所で、着替えに用いられている控えの間も狭く、四人も入れば満足に手を伸ばすこともできなくなる。道場についてから身を検めようという殊勝なものは一握りであった。
言っている間に道場へ着いた。古びた門構えはいつ倒れてもおかしくないように見えるが、久々に見たこの日にもしっかりとそこへ残っている。変わらんな、と思った。
新年の挨拶に集まった門弟が次々と集まってくる。きりのよい辺りで全員が稽古場に集められ、師範の年頭挨拶がはじまる。亥太郎は成り行きで、戌造の隣へ席を占めていた。
それから初稽古として、いつもより少なめの軽い素振りと、初歩的な型の修練が行われる。やはり流れで、亥太郎は戌造と組をつくった。
戌造との型稽古はやりやすかった。何かと器用な戌造は型もうまい。対面している亥太郎は動きをなぞるので精一杯なのだが、戌造はその固い動きに、うまく合わせてくれる。今も、亥太郎の振り上げが一呼吸遅れるのを察して、動きを中途から緩めた。
そうして戌造に合わせられるたび、己のうちに不満が澱んでくるのを、亥太郎は感じていた。
亥太郎が型を崩したのは、一度や二度ではない。己が上手くできていないことは、何より己自身がよくわかっていた。だがその動きに、戌造は合わせようとしてくれている。感謝こそすれ、怒る筋合はない。
だがどうしてか、亥太郎は戌造に対する怒りを募らせている。そして、それを我慢できる質ではなかった。
「おれがへたくそなのは自分でわかっている。無理に合わせなくていいぞ」
「そうですか」
そうして戌造は最後まで亥太郎に合わせ切った。亥太郎は何も言わなかった。
締めは掛り稽古である。やはり亥太郎と戌造は同じ組となった。
戌造に向き合う。亥太郎は己の名のとおり猪突として戌造に打ちかかった。
回り込むような動きでいなされる。頭巾をかぶった横っ面に、はじけるような重みがぶつかった。一瞬遅れて痛みに襲われ、視界の外から打たれたのだとわかった。
そのまま道場の隅まで転がった。すぐに起き上がれなかったのは、ただ痛みのためだけではなかった。
身を起こす。戌造は次の相手とすでに立ち合っている。右手に握りしめたままの竹刀の感触がある。亥太郎は衝動のまま、叫びをあげて、戌造の背中へ突っかかって行った。
逆の頬に衝撃があった。鼻から赤いものが迸った。その感覚を最後に、亥太郎は意識を失った。正月に聞いた父の言葉が、なぜだか思い出された。
松の内が過ぎた頃には、亥太郎の顔の腫れもほとんど目立たなくなっていた。
亥太郎は番所の大部屋で、帳面をめくりつつ算盤を弾いていた。見かけによらず、亥太郎は算盤が好きだ。正しく弾けば、必ず正しい答えが返ってくる。そのことに安らぎを覚える。
人のこころはそうではない。それは、己自身を含めて、そうだった。
初稽古のときの己を、亥太郎はいまだに掴みあぐねている。どうしてあのような愚挙に走ってしまったのか、いまだにわからなかった。
己が戌造に比べて至らぬことなど、はじめからわかっていたことだ。それをわざわざ比べて怒りを覚えるのも馬鹿馬鹿しいし、これまではなかったことでもある。なのになぜ、亥太郎のこころはそれに憤りを募らせるようになったのか。
お役目につくようになったからなのか、とも思う。たった一年ほどではあるが、奉行所の役目は亥太郎が父より聞かされ、思い描いていたものとは乖離している。
法を司り、令を律する場所であると思っていた。いや、それは誤りではないし、奉行所に持ち込まれるあらゆることは、定められた手順に沿って処理されてゆく。
だが、その運用。帳面の上に筆で記されるまでの様々な事柄においては、まったくそうではない。そこではむしろ、定められた手順が無視されたり、遠回しに解されることで上手く片が付くことの方が多いように、亥太郎には見受けられた。
そして彼ら先輩たちがどういうものを基としてそれらを使い分けているのか。亥太郎にはわからないのだ。
己が正しいと思っているはずのことが、うまくいかぬ。その実際が、己のすべての蔑ろにされたような、そのような心持を生むのだということは、わかっている。
亥太郎は、手順どおりに物事を処理する。むしろ手順どおりにやっている、という自負がある。にもかかわらず。
実を見れば、亥太郎の手際は同僚たちより劣るし、周りが向ける目も芳しくない。そういうとき亥太郎は、大いなる憤りを感じる。
なぜなのだ、と亥太郎は不満を募らせる。手際や人への接し方はますます悪くなる。悪廻りであった。
そういったものが溜まりに溜まり、弾けたのがあの初稽古の日であったのだ、とは思う。だがどうして戌造の行為が己の縄に火を点けたのかはわからぬままだった。
「だれかおるか」
開け放たれたままの廊下口から、大声が飛んでくる。直属の上役である小頭のものだ。亥太郎が立ち上がると同時に部屋に踏み込んできた。
「前丹だけか」
「生憎皆、出払っております。何か」
「三番組のところで揉め事だそうじゃ。わしはここを離れられんから、お主ちょいと見て戻ってこい」
「承りました」
刀を取ると、すぐに飛び出した。悪しき感情に侵されそうになっていた己を振り払うつもりだった。
三番組の受け持ちは奉行所の南側で、多くを町屋が占める。揉め事が起こる頻度も多いので、内勤のものでも時折こうして呼び出されることはままあった。
早足で三番組の詰め所へ向かう。日が中天にかかろうという刻限である。葉を落とした立ち木を透かして、日が斑に通り道へと落ちかかっている。常ならばどうと感じることのないそれが、思考もまだらに散らかっている今の亥太郎の運足を乱れさせ、焦らせていた。
声が聞こえる。言い争うような声だ。くだんの現場であろうと見当をつけた。
町屋の角を抜けたあたりで、数人の男連中がもみ合っているのを見つけた。うちの一人は、黒羽織をまとっている。見れば、阿戸賀戌造だった。
どうしてここに、と考えたのは一瞬だった。角棒を持った男が、もみ合いになっているところへ目算もつけず振り下ろそうとしている。
足を早めようとした亥太郎はつんのめった。新年に整えた草鞋は大柄な亥太郎を支えるため、やや大きめ厚めにつくってもらっている。それが仇となった。
亥太郎の身体が宙に放り出される。その先に見知った顔があった。
戌造と視線が合う。あの戌造が目に見えて驚いている。そのような顔をする戌造を亥太郎が見るのもまた、はじめてだった。
戌造はすぐに動いた。亥太郎の巨体の下に己を滑り込ませる。そうして支えながらも、受け止めはしない。
宙を滑り、集団の上を運ばれるようにして、亥太郎は跳んでゆく。
咄嗟に、鞘のままに腰から大刀を引き抜いた。
刀で頭をかばうようにしながら、鼻頭から棒を振り下ろす男に突っ込んでいった。
額にぶつかったのが、棒ではなく己の鞘であることまではわかった。目の前が白くかすみ、それから景色がぐるぐると回った。
気づけば天を見上げている。身体の下に、棒を持っていた男の姿があった。
立ち上がり、顔を押さえると、何やらぬるついている。鼻血が出たようだった。
「大事ないか、前丹どの」
「ああ」
懐紙を探り、鼻に当てる。伸びている男共々身体を検めてみるが、大きな怪我は互いになさそうだった。
「また突進されましたな」
「今度はわざとじゃない。道場ではすまぬことだった。反省している」
「いやまあ、此度ばかりは助かりました。仲裁に駆り出されたのですが。道場剣術も、こういうときには役に立たない」
そのひと言で、何がかはわからぬが、亥太郎は救われたような気がした。
そうか。自分だけでは、ないのか。
なぜ道場であれほど腹を立てたのか、わかった気がした。こいつは何でもうまくやっている。そう思ったからだった。
そうではない。皆が皆、何とかうまくいかぬものかと、日々悩んでいる。
「戌造でも、上手くいかぬことはあるものなのだな」
「そりゃあ、いくらでもありますとも」
さて、と戌造は辺りを見回す。亥太郎の登場に驚いたのか、もめ事は収まったようだった。
「後始末をせねばなりません。手順どおりに。手伝っていただけますかな」
「無論だ。だが」
鼻血はまだ止まらぬ。みっともないが、懐紙を奥に突っ込んで、黙らせる。それから深く息を吸い、吐き出す。
「手順どおりではまとまらぬこともあるのだろう。戌造のやり方を、見せてもらってよいか。それから、どうしてそうしたかを、教えてもらいたい。毎度鼻をぶつけていては、たまらぬ」
「それはそうですな」
亥太郎は戌造の隣に並んだ。
差し込んだ日の加減であったか。その横顔は、かすかに笑っているように見えた。
(完)