破籠剣 巣立鳥
稽古の帰り道は下橋を通って帰るのが緒永酉太郎の慣わしとなっている。
城下の西側を南北に流れる川には三本の橋が架かっており、城下に近い方から順に上橋、中橋、下橋と呼ばれている。実際にはそれぞれにそれらしい名がつけられており、欄干にも彫り付けられてはいるのであるが、その名が用いられることは少ない。
酉太郎は武士の子である。こういったことの筋目は大事だと教わってきたから、はじめは正しい名の方を用いていた。が、それでは通じず聞き返されることが多かったので、今ではやはり皆と同じく上中下の呼び名を用いている。世の中というのはそういうこともあるものなのだ、と、今ではそのように思うことにしている。
酉太郎は週に二度、城下の剣術道場に通っている。緒永の家から道場までの道で最も近いのは中橋を渡ることである。だから、酉太郎も行くときは当然のように中橋を使っている。だが帰り道にはいつも、少し遠回りをして下橋から帰るようにしている。
今日は道場の初稽古の日であった。正月が開けて間もないことでもあるから、寄り道をせずに帰るようにと、父と母には強く申し付けられている。だがそれでも、酉太郎はこの慣わしを変える気にはなれなかった。
橋へと差し掛かる。春になったとはいえ、寒さはまだまだ厳しい。酉太郎も稽古着の上に風除けの風呂敷を一枚巻きつけてから、竹刀袋を背負っている。
橋の中ほどには、酉太郎の見知った姿がひとつ、佇んでいた。
「おいぬ」
声を掛け、足早に近付く。掛けられた幼い娘、いぬは顔を上げ、酉太郎と目が合うと、はなやいだ笑顔を向ける。正月明けのことでもあるし、さすがに今日は会えぬのではと思っていたが、いぬはどうやら酉太郎の帰りを待っていたようだ。
「正月明けからもう稽古か」
「ええ。酉太郎さんも」
「うん。元服が近付いて、父も母も、これまで以上に厳しくなった」
「わたくしの父母もです」
さもあろう、と酉太郎は大きく頷いた。緒永の家と、いぬのいる加後の家が、子の養育に血道を上げていることは長屋町でも有名である。
緒永と加後は両者とも城下勤番のお役目に就いている。が、番方勤めの多くは世襲ではなく、緒永家もまた、嫡男酉太郎が父の跡を継ぎ、お役目を襲うためにはそれなりの武芸、人品が備わっていることが求められる。
それがため、酉太郎は幼少の頃より厳しくしつけられた。
はじめの頃は、それが当たり前なのだと思っていた。が、道場や学問所に通うようになり、他家の子らと交わるようになってようやく、酉太郎は世間の、殊に父母が余計なことどもと考えているさまざまな物事を知らされずに生きてきたのだ、と知ったのだった。
同年の子らとの交わりの中で、酉太郎は祭りのことや芝居小屋のこと、岡場所のことなどをはじめて知ることができた。それまで己が、蓋をされた籠の中で育てられていたことがわかったのだ。
酉太郎と似たような境遇に置かれていたのが、加後家の長女、いぬであった。加後家もやはりお役目を継がせるため子らを厳しく躾けており、それは女子であるいぬも例外ではなかった。
いぬもやはり多くの稽古やしきたりに縛られており、家の中以外のことを知らず、世間知らずな娘に育っていた。長屋で顔を合わせた際にも、辞儀こそ立派ではあったが、時候以外の話を振ればたちまちに接ぎ穂を失い、頭を垂れる。礼儀は確りとしているのに、やけにもの知らずな。ちぐはぐな娘がそこにできあがっていた。
人との関わりあいかたがわからない。少しばかり昔の己を、酉太郎はそこに見た。
昨年ほどからようやくいぬも、家の外へ手習いに出されるようになった。酉太郎がそれを知ったのは、ちょうど剣術稽古からの帰途についていたときに、この下橋で偶然に出会ったからだ。
それ以来、酉太郎といぬは時折、この下橋で顔を合わせることにしていた。
三つの橋のうち最も古い下橋であるが、城近いところに二つの橋が架けられてからは人通りも減り、補修も満足にされず半ば打ち捨てられている。次に洪水でも起こればそのまま廃されるのではないか、ともいわれていた。
そのような場所であるから、酉太郎がわざわざ遠回りをして帰着を遅らせるのにもよく、またいぬと語らうためにもよいのだった。
頃よくいぬと出会えた日には、二人で橋の欄干や川べりに腰掛け、話をした。話すのは主に酉太郎で、酉太郎は己が道場や学問所で新たに見知ったこと、聞き知ったことをいぬに教えた。もちろん岡場所の話や男同士の下世話などは除いてだが。
知ることにおいて、いぬは酉太郎以上の熱を見せた。わからぬことがあればここぞとばかりに酉太郎に尋ね返すのだが、酉太郎とてそれは己の身についてはおらぬ知恵や知識であるから、その多くに答えることはできない。それをわかっていながらもいぬはあれやこれやと幾度も、しつこく問いを発する。そうしてお互いに物を知らぬのだと認め合うことが、また酉太郎の昏い安らぎでもあった。
少年と若い娘である。外から見たならば、二人のそれは逢瀬か逢引か、そのようなものに見えたであろう。
だが酉太郎にとってのそれは、もっともっと深く、重大なものであった。
その日も二人は橋を渡りきると、新春の露に冷えきった欄干は避け、川べりに腰を落ち着けた。それから、正月の近況などを交換しはじめる。
来年の今頃には酉太郎は元服を済ませているはずである。もう、このようにして逢うことは難しくなるだろう。
「おいぬは、つらくないのか」
つい、そう聞いてしまった。このまま狭い籠の中から、時折外を眺めるだけで、それでよいのかと。そう思い悩むことが、ついぞ多くなった。
酉太郎が番方の役目を継ぐことは父母の悲願である。が、それ以外の道も、もしかすればあるのではないか。そう考える。そして、そう考えるのは、酉太郎が籠の外側を知ってしまったからでもある。
「知らなかった頃は、よかったのだ。ただ父上母上の申すとおり、精進しておれば、それでよかった。つらくとも、それで満ち足りていたのだ」
だが、と酉太郎は思う。
「その外側に、己の知らぬもの、知らぬことが多くあるのだと一度気付いてしまえば。そこに手を伸ばしたくなる。飛んでいってしまいたくなる。そのつらさというのは、何だか満たされぬつらさなのだ」
「緒永の家を、捨てられるのですか」
いつものようにいぬが尋ね返す。だがその言葉に背筋が震えたのは、吹きつけた風のせいだったのか。
見返したいぬの表情は、いつもと同じ、ただ聞いてみたかったから聞いた、というふうであった。
「……家は、捨てられぬ。おれが守られていたゆえだ、ということもわかるのだ。これは、おれの我侭なのであろうな」
いぬが小さく頷いた。
「家事の手ほどきも、繕い物も。与えられたものを身につけてゆきたいと、わたくしは思っています」
「では、おれのこういう話は、無駄か」
「いえ。それも、与えられたものだと。上や横や。空や隣を見てはきりがありませんから」
二人で空を見上げる。薄曇った稜線の向こう側から、菱形の白い凧が揚がっているのを酉太郎は見つけた。
飛んでゆければ楽になれるだろうか。そんなことを思いながら、二人でそれを眺めていた。
二人の密かごとは、図らずも翌日に露見した。
「加後の娘と逢うておるだろう」
そう問い詰めてきたのは、同じ長屋町に宅を構える、深猿家の聞三郎だ。酉太郎とは同じ道場仲間ではあるが、日頃はさほど親しいわけではなく、言葉を交わしたことも少ない。ただ道場での席次は近く、その面では互いに意識しているような部分もある。この年初めの席次替えで、酉太郎は札の位置を一つ上げ、聞三郎は一つ落としていた。
問われた酉太郎は黙っている。つまらぬことだと思う。だが、緒永と加後の家においては、露見すればそれでは済まぬ、ということもわかっていた。
「お主らが下橋で申し合わせて逢っているのを、見たのだ」
自信のこもった表情で酉太郎の前に立ちはだかっている。酉太郎の知る聞三郎は、少々粗暴で人の意見を容れぬところがあるが、嘘や卑劣な手を好む少年ではない。ならば本当に見られたのであろう、と思った。
「黙っていてはもらえないか」
だから、そう告げた。本来ならすべてを筋道立てて申し開きたいところであるが、この聞三郎が相手では、難しいだろうと思った。
聞三郎の顔が、朱に染まってゆく。
「お主、それでも武士の子か」
聞三郎が殴りかかってきた。互いに無手である。酉太郎はその腕を受け止めたが、力は聞三郎がやや強い。
上体を己の方に引き付けておいてから、脇から聞三郎の背に逃れた。
「おのれ、逃げるか」
後方から怒鳴り声が聞こえる。だが、無視して駆けた。
目指したのは下橋だった。無性に、あの場所へゆきたかった。
川べりの土手を走る。誰かが落としたものか、捨てたものか。破れた大ぶりの角凧が、転がっている。
聞三郎の怒号が近づいてくる。酉太郎は風除けの風呂敷を外すと、凧を拾い上げ、それにかぶせた。
土手を駆け下りる。勢いがついたところで、大きく跳ねた。
風呂敷四隅を端と掴んで。講談ならばその一言で、忍びも大泥棒も空を舞う。だが現にはそうはいかぬということを、酉太郎の年頃の男子であれば皆、その身をもって知っている。
酉太郎は跳んだ。風呂敷一枚で試して転げ落ちたときとは、違う浮遊感があった。
何だ。飛べるではないか。
そう感じたときには、川の対岸近くに落ちていた。
着物を濡らし、盛大にしぶきを上げながら浅瀬を転がる。
伸ばされる手があった。ようやく水辺から顔を出すと、見知った顔がこちらに微笑みかけている。
「いぬ」
その手を取った。意外に強い力で、引き上げられた。
「ゆきましょう」
少女に手を引かれ、ずぶ濡れのまま、ついてゆく。水だけではない。泥でも大いに汚れている。もはや何かを隠して置ける状況ではない。
だが。だからこそ。
何も変わってはいない。だが確かに。
何かが終わり、そして何かがはじまる予感が、酉太郎はしていた。
川岸より遠く遠く。どこかで少しばかり遅い、凧が揚がっている。
(完)