合力剣 猿の手
そこにいるだけで厭われるものがいる、ということを、猿物追三郎は知っている。
猿物の家がある長屋町の、ちょうど向かいにある保和糸家の娘、お鳥がそのような境遇であるらしいと気付いたのはずいぶんと前のことだ。
保和糸家の、今の奥方は後添えである。先妻はお鳥を産んですぐに、病で亡くなった。その後しばらくして後添いを得たが、後妻との間にはいまだ仔を儲けられていない。今やお鳥は十の歳になる。
すべて、母や近所の者たちから聞き知った話である。だが、お鳥が家の中で厭われているのであろうことには、それらのことどもが関わっているのであろう、ということは追三郎にもわかった。
長屋町の通りは狭い。かろうじて馬が二頭、連ねて通れるほどには道幅をつくってはあるが、向かいどうし、戸を開けて外に立てば、互いに顔まで判るほどの差し渡しでしかない。
そうであるから、追三郎とお鳥は、日に幾度となく顔を合わせる。
お鳥の姿はいつもひどい。長屋町に住む軽輩の侍たちはおおむね貧しい。だから着物は常に手を入れ、繕って、一着を長く役立てる。新たに購う場合も、古着が多い。長屋町の中においては、多少の不調法は許されている。
だが追三郎が見るお鳥の姿は、それとは違った。
着るものの手入れが正しく施されていない、と追三郎は感じる。古びたものを着ているのは皆同じだが、それを手入れしてなるべくよいように見せるのは、武家の嗜みである。そして、そういう術は一朝一夕で身につくものではない。
手入れの術を知らぬものが、見よう見まねでそれをしている。追三郎の目にはそのように捉えられている。帯の傷みが特にひどいのが、気に障った。
着物だけではない。髪もそうだ。ひとまず稚児に結いあげられてはいるのだが、形はいびつで、ほつれが目立つ。簪はいつも同じもの一つきりで、それもまた、十分に手をかけられているとはいえない。それらを見るたびに、二つほど年長である追三郎はいつも不憫に思うのだ。
銭がないためかと、はじめは思っていた。だが時折顔を合わせる後妻は、いつもそれなりの恰好を整えている。
おそらく、後妻がお鳥を構っていないのであろう。追三郎にはそのように感じられた。
いつもそのようであるから、お鳥の周りには人が寄りつかず、ときにはからかいの種になる。
いつの頃からか。それを目にするたび、追三郎のどこか奥底に、澱のようなものが溜まる心地がするようになった。
その日はやたらと風の強い日であった。
春を迎えたばかりの季節は、まだまだ寒い日が続く。水を張った盥をそのままにしておけば、薄く氷が張る日があるほどだ。
前日の雨もあって、通りはよくよく冷え込んでいる。そこに風が強く吹き込んでくるのであるから、たまらない。年もはじまったばかりであるというのに、長屋町は閑散とした趣を見せている。
その人通りの少ない道を、身体を縮こまらせながら追三郎は歩いている。
その身には白黒の稽古着を纏い、竹刀袋を背負っている。この凛々たる中を出歩くのは追三郎も避けたかったが、本日は道場開きの日でもある。さすがに顔を出さぬわけにはいかなかった。
武家というのはまったく決まりごとの多いものだ、と感じる。少しばかり前までは、そのようなことは思いもしなかった。人の営みとはすべて、決まりごとに添い、決められたように従って綿々と続いてゆくもの。そう、信じていたはずだ。そのことに疑いを持つようになったのは、いつの頃だったろうか。
少しばかり進んだところで、足を止めた。
そろそろ長屋町から出ようかという辺りだ。町の外縁は、むかしからの建て増し続きで、道が細く、入り組んだようになっている。藩財政の悪化に伴い、屋敷町よりも長屋町に住まわせる家族の数が増え続けているためだ。そのような事情は無論、追三郎の与り知らぬところではあった。が、幼いころより今の方が住まう人の顔触れが増えている、ということには気付いている。
その路地の一片で、お鳥が囲まれているのを見つけた。
三人ほどの、年の頃追三郎と同じ程度と思われる侍が三人、お鳥の着物を引っ張っては囃し立てている。どれもあまり見かけたことがないから、近年移ってきたものたちであろう。お鳥がいじめられているのは、よく見る場景だった。
お鳥に蔑みを向けるのは、新たに移ってきたものたちが多い。むかしからの保和糸を知るものは内情も知っているから、むしろ憐みをかける場合もある。何も知らないものほど、お鳥に強く当たる。そういうことは、あるようだった。
昨日今日のことではないから、いつものように見なかったことにして通り過ぎる。それで、よかったはずだった。
だが。
気付けば、足を路地に向けていた。
「そのくらいにしておかぬか」
少年たちに声をかける。笑い声を上げていた少年たちが黙り、追三郎に顔を向けた。
「何だ、おまえは」
「その娘と顔見知りのものだ。その娘は、故あってそのような格好をしている。それくらいで、もうよかろう」
少年のひとりが追三郎をまじまじと眺める。
「おぬし、屋敷町の道場に通うものだな」
長屋町からは、屋敷町にある道場へ通っているものと、城下より外の町道場に通っているものがいる。少年たちは、どうやらそちらの門弟であるらしかった。
「ちょうどいい。一度手合わせしてみたかったんだ」
見れば、少年たちも竹刀袋を提げていた。それぞれが素早く紐を解き、竹刀を取り出す。
「道場外での立会は、禁じられている」
「知るかよ」
断りを入れたが、三人の大将格と思われるひとりが打ちかかってきた。
竹刀の先が肩口に届かんとするのを何とか避ける。追三郎の腕前は、さほど褒められたものではない。年齢からすればそこそこではあるやもしれぬが、目を惹くような才があるわけではなかった。このような事態は、何としてでも避けたい方だ。
逃げるか、という考えが過ぎったとき、お鳥と目があった。いつもと変わらぬ、おびえたような目を向けている。
これも巡り合わせか。そう思うと、肝が据わった。
なぜ足を止め、この路地へ向かってきてしまったのか。それは追三郎がずっと、こういうお鳥を見てきたからだ。そして、それを不憫に思ってしまうのは、少なからず内情を知っているからだ。
お鳥がいつまでもこういう目にあうのは己でどうにもできぬ父母のせいであるし、次から次へと新たなものが入って来るからだ。
そして、それを目にするたびに追三郎のこころに澱がたまるのは。世には決まりごとに従っていても正しく行われぬことがある、ということを。
お鳥をずっと見ていることで、追三郎自身が知ったからだ。
追三郎も竹刀袋の紐を解いた。
大将格の少年と、互いに竹刀を構えて向き合う。相手の方が頭半分ほど、身体は大きい。腕の良しあしも追三郎にはまだわからぬが、喧嘩を吹っ掛けるくらいであるから自信を持っているのだろう。
何とかしよう、ということだけを考えた。
路地を風が吹き抜けた。その場にいた誰もが、身体を震えさせる。
こわばる身体に力を入れて、追三郎は先に動いた。
道場ではまだ習っていない突きを放つ。大将はそれを軽々と捌く。だがそれに構わず、追三郎は上体からぶつかっていった。
路地には町に住むものたちが共同で使う大桶が縦に積み重ねられている。そちらへ向けて、大将の胸を強く押した。
「うわっ」
大将が桶の山にぶつかる。積み重ねてあるだけの桶は、当然のようにぐらりと揺れる。
列が崩れて、少年たちが悲鳴を上げるのと同時に、追三郎はお鳥の手を引いた。
そのまま小走りに駈ける。後ろから怒号が飛んでくるが、構わず逃げた。
寒風吹きすさぶ通りをふたりで行く。追三郎の手は、お鳥の手に繋がれている。
お鳥に何をしてやれるわけでもない。おそらく、今後もそうだろう。
だが、ときには。こうして、手を貸してやることくらいはできるだろう。
風が吹いたことで、桶屋が儲かることとてあるだろう。そんなことを思いながら、追三郎は繋ぐ手をほんの少しだけ強く引いた。
(完)