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本性剣 毛刈り

 もしかすると自分は同年の他の者より少し優れているやもしれぬ、とはじめに思ったのはいつだったろう。

 たしか十を数える歳になったときだった、と少し考えてから日辻乾武郎ひつじかわかぶろうは思い当たった。

 道場で、先に入門していたひとつ年長の相手から二本を取ったときだ。同年同期の者たちから見て、乾武郎は一歩抜きん出ようとしていた。

 ほぼときを同じくして、学問所の方でも、乾武郎は年長者たちの勉学を越えようとしていた。利発で物覚えがよろしい、と講師の先生からも褒められる言葉を貰うことが増えていた。

 日々を過ごすのが息苦しいと感じはじめたのも、そういえばちょうどその頃だ。

 日辻の家は軽輩である。日辻家とほぼ同格の家の子息で、武芸と学問の両方を身につけようというものは少ない。そういうものは、大抵余裕がある格の家である。乾武郎が武芸も学問も習わせてもらえているのは、ひとえに父、数衛かぞえの意向である。

 ありがたいことではあろうと思う。だが近頃、それがとみに背に重く圧し掛かってくる気がする乾武郎であった。軽輩の子に追い抜かされることを、多くの者はよしとはせぬであろう。乾武郎への風当たりはすでに強くなりつつあった。

 何とかしたいと思い、乾武郎が採ったのは、己の練達を表に出さない、ということであった。力が伸びた、と感じたぶんを押さえ込み、それまでと同じ力量で表に出す、ということをはじめたのである。そうしているうちに他の同輩どもは乾武郎に追いつき、先輩たちは追い越してゆくだろう。それらを気にしなくなった頃にはおそらく元服を果たし、道場や学問所に通うこともなくなるであろう、というのが乾武郎の考えであった。

 そういうことを乾武郎がやりはじめてから、一年ほどが過ぎた。

 正月を過ぎ、寒風が藩の全土、山をはじめ峠、河原、町中までもを勢いも強く抜けてゆく。雪こそ薄くつもった程度であったものの、綿入れなども用意しておらぬ日辻家にはなかなかに厳しい春となった。

 身体を震わせ縮こまらせつつ、乾武郎は年初めの稽古へと向かっていた。乾武郎が力を抑え隠しはじめてから、それまでさまざまな形であった嫌がらせは減った。そのぶんだけ、乾武郎も稽古や学問に力を入れられるようになってきている。

 最近気付いたのは、己はどうも武芸よりは学問の方が好きなのではないか、ということだ。剣も嫌いではないのだが、学ぶこと、それまで知らなかったことを知るということに、乾武郎は惹かれる。

 ひつじ、という生き物のことを知ったのは、少し前のことである。未は十二支にも入っている生き物だが、それがどんなものであるのか、乾武郎は知らなかった。

 目にしたことがないのは寅、辰も同様であるが、これらは生き物というよりはいわば神仏のようなものであり、画や彫り物というかたちで目にすることができる。だが、未に関してはこれまでにその姿を見たことはまったくといってなかったのだ。

 全身に長い毛が生えているのだという。南蛮では、その毛を刈って衣をつくるのだという。未の毛でつくられた衣は、どのような寒さにも耐えるのだ、ということだった。あちらではその肉も食するということであるから、こちらでいう鹿の、毛の長いようなものだろう。乾武郎はそのように思い描いていた。

 未の毛でつくった衣。そのようなものを一度でいいから着てみたい。乾武郎はそう思う。こんな寒い日であれば尚更だ。

 未の衣はともかくとしても。そういうものをたくさん知りたいし、見たいと乾武郎は思う。だが学問所の中でも、そのような思いを強く抱いているのはどうやら乾武郎だけのようであった。

 そしてそんな乾武郎に気付いているのは、学問所の谷木やぎ先生のひとり娘、おすみどのだけだろう。

 お角どのは年の頃が乾武郎と同じくらいの、滅法気の強い娘である。弁が立ち、何やらちょっかいをかけたらしい少年たちがやり込められるのを、幾度か見たことがある。立ち居振る舞いも武家の娘というよりは町娘のようであった。

 普段はそれほど接する機会のなかった乾武郎であったが、しばらく前、講義が終わったのちに、門のところで考え事をしていた際に、捕まったことがある。

「そんなところで立ち止まって、何をしているのです」

 強い口調で問い詰められたのでつい、先ほどまでの講義で疑問に思ったことがあったのだと明かしてしまった。

 ひつじ、というのはどこへゆけば見られるのだろうか。やはり西国の、南蛮人が住んでいるというところまで行かねば見ることができぬのであろうか。そのような話をしたと思う。

 それを聞いたお角どのは、大人びた仕草でさぞ訳知り顔のようにして頷き、何事にも疑いを持ち、己の目で確かめようと思うのはよい心がけです、とのたまったのだ。

 それ以来、顔を会わせば寄って来て、乾武郎が今何を思案しているのか、と問い質すようになった。乾武郎の思案は、新たに知った事柄への疑問であったり、または水はどうして氷を張るのかなどといった身近なことへの疑問であったりする。それらに対して、お角どのは、己の知っていることであれば答え、知らないことであれば一緒に考えてくれなどもした。

 そうした友誼ともいうべきものを少しずつ、ふたりは重ねていたのだった。今では、お角どのに会えるかもしれぬ、ということが、学問所へ通う乾武郎の楽しみの一つともなっている。

 道場は、日辻の家がある長屋町とは城下を挟んで向かい側にあるため、屋敷町を抜けてゆく。その屋敷町の片隅に学問所はある。

 雪に脚を取られぬよう気をつけつつ、長屋町と屋敷町を繋ぐ橋を渡ったところで、聞き知った声を耳にした。

 橋を渡った先には柳が植えられている。雪を被った柳は常よりも重そうにして頭を垂れている。

 その柳の立ち並ぶ辺りで、ひとりの娘と年若い侍が言い争っている。

 耳にしたときにはすでに、わかっていた。お角どの。そしてお角どのに絡んでいるのは、以前に乾武郎が道場で打ち倒したことのある年長者だ。

 兵馬ひょうま。確かそのような名であったと思う。その兵馬が以前よりお角どのに言い寄っていたのは知っていた。顔がやや赤い。おそらく、正月の貰い酒でもどこかで受けてきたのであろう。暖かそうな綿入れを羽織っている。

 兵馬の手が伸び、お角どのの手首をつかんだ。それを見て、堪らず跳び出した。

「やめろ」

 二つの顔がこちらを向いた。一つは嬉しそうな顔を見せた後、すぐに眉根を寄せる。もう一つは、向けたときからすでに怒り顔だった。

「日辻か」

 手を離し、兵馬が向き直る。

「お主には関わり合いのないことだ。失せろ」

「そういうわけにはいかぬ。嫌がっておられるではないか」

 静かに、そう告げた。それを裏付けるかのように、お角どのは兵馬から離れる。

「おのれ、邪魔立てするか」

 兵馬が背負っていた竹刀袋を降ろし、紐を解いた。仕方なく、乾武郎もそれに倣う。

「ちょうどよい。稽古の前に、一本叩きのめしてやろう」

 怒れる顔は、にやついた笑いに変わっていた。

 このところ、乾武郎は年長者に勝つことがとみに少なくなっている。家格が上のものにもだ。兵馬は年長者であり、日辻よりもよい家の出でもある。稽古場で相対したときに乾武郎が勝つことは、はじめてのとき以来なかった。

 今では、己の力を誇示するのによい相手だと。そう思われている。

 兵馬の腕は悪くない。席次も、彼と同年代の者たちの中では上位につけている。だが、本気の乾武郎であれば、ほぼ互角に打ち合えるであろう。

 道場であれば、誰か抑えてくれる者がいる。だがここは道端であった。見ているものは、お角どのしかいない。酔っている兵馬が限度を覚えているか否かはわからぬ。

 全力で迎え撃つべきか。乾武郎は迷っていた。

 構えた兵馬が打ち込んできた。鋭い正面の打ち下ろし。芸はないが、年長で身体が大きいだけに力がある。乾武郎は受けずに逸らした。

 雪に草履が滑る。足元も、兵馬はよいものを履いている。雪道であるから草履は脱げぬ。利は兵馬にあった。

 視線を感じる。お角どのが心配そうな顔で見ている。ふと、目があった。お角どのが顎を上に向ける。柳。

 兵馬の横を滑り抜け、柳の幹を打った。

 木が揺れ、雪が落ちる。ふたりともに雪を被りつつ、柳の傍らで対峙する。

 竹刀を正眼に構え、乾武郎は待った。

 兵馬が打ちかかって来る。こちらからは打ち返さず、勢いを殺すに留める。

 衣にまとわりついていた雪が溶け、濡れた着物が身体に張り付く。

 乾武郎が待っていたのは、これだった。

 未の毛の衣は寒さに強いが、そのぶん水に弱いのだという。それは、お角どのが教えてくれたことだった。

 兵馬が着込んでいる綿入れもそうだ。乾武郎が着ている麻よりも水をよく吸い、そして水を吸うと、とてつもなく重くなる。

 そして水を吸った綿入れは、急激に身体の熱を奪うのだ。

 赤みの差していた兵馬の顔色が、青白く変わっている。酔いは、覚めたようだった。

「打ちなさい」

 声があった。考える間もなく、身体が動いていた。

 乾武郎の竹刀が兵馬の右腕を打つ。兵馬は竹刀を取り落とした。

 腕を押さえながら、兵馬が睨みつける。構わず、己の竹刀を片付けた。兵馬が怒っているのはかたちだけだと、わかっていた。頭が冷えた今、己が何をしでかそうとしたかは、わかっているだろう。

 軽く頭を下げ、お角どののもとへ向かった。

 手を握った。嫌がらなかった。

 ふたりで小走りに、その場を離れた。

「おやめなさい、ああいうのは」

 お角どのが隣で言う。

「多くのものを見たいのでしょう。知りたいのでしょう。ならば、己を偽るのはもう、おやめなさい。それで開かれる道が、あるはずよ」

 そうか。そういうものか。

 打ちなさい。その言葉に突き動かされた己というものを、乾武郎は今一度、思い返していた。


(完)


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