地疾り剣 朽縄
巳之助がそれを見つけたのは、初稽古の帰りのことだった。
正月が明けて、楽しみにしていた稽古開きの日だった。この新たな年で十を数える歳になった巳之助は昨年の末に席次を一つ上げ、この初稽古の日に、名札を一つ右に移されるのを楽しみにしていた。果たして、新たな場所に己の札を架けられていたことは深い感慨を湧きあがらせ、それを目にした巳之助は、大いに自信を膨らませたのであった。
昨年辺りから、己の腕がめきめきと上がりはじめたのに、巳之助は気付いていた。肉体に力がつき、竹刀に振り回されなくなったこともあるが、何より、相手の剣尖がしっかりと目に映るようになって来た。竹刀を振り、相手の攻撃をかわし、受け止めるので精一杯であったのが、少しずつ、相手が次にどう打とうとしているのかがわかるようになってきた、ような気がする。それにあわせて、ふわふわとしていたような腰が、どっしりと据わるようになってきた。
そうなると巳之助は、同輩たちの中でも一歩抜きん出るようになった。先輩格の者たちはともかく、同年同期の者たち相手であれば三本に一本も取らせない。気付けば、そうなっていた。
そしてまた、驕り高ぶってもいた。
巳之助が遭遇したのは、そのようなときである。
帰り道。両側を田畑に挟まれたうねる畦道を歩いていた巳之助はふと足を止めた。
縄のようなものが道に落ちている、とはじめは思った。だが、その縄は動いているようにも見えた。
二、三歩近付いて、それが蛇だとわかった。
黒っぽい胴体で、頭が菱のかたちをしている。開いた口腔からは、長い牙が覗いていた。
毒蛇だ、と思った。
巳之助ら下士の者が住む屋敷町は山郷に近いところにあり、毒蛇や百足については、父や母から何度も厳しく注意を受けていた。だが、実際に毒蛇と思しき蛇に出くわしたのは、これがはじめてであった。
聞かされた毒蛇の恐ろしさに関する話が頭の中を巡る。肩には竹刀袋を負っている。だが、巳之助は袋の紐すら緩めず、ただ道の真ん中で立ち竦んでいた。
毒蛇が道を横切り過ぎ、草むらに消えるまで、巳之助はそのままでいた。そうして、蛇の姿が見えなくなると、腰から砕けるようにへたり込んだ。
動けなかった。何もできなかった。
もしも蛇が巳之助に注意を向け、牙を剥いていたなら。巳之助は成す術もなく噛みつかれていただろう。
先ほどまで身体のうちで膨らんでいた自信が、みるみるうちにしぼんでいくようだった。
よろよろと立ち上がった。
竹刀袋を抱え上げ、それまでと同じ童とは思えぬ、縮こまった姿勢で、地面を見つめて歩き始めた。
ふと、視線を感じたような気がして顔を上げた。道の先。二間ほど離れた場所に、紺地の着物を着た、同年ほどの童女が立っている。見覚えのある顔だった。
二件隣に住む馬場家の娘、お辰だった。
見られた。すぐに、そう思った。
巳之助は駆け出した。お辰と顔も合わせず、挨拶も交わさずに、その脇を通り過ぎた。
巳之助は走った。何もかもなかったことになればいい。そう思った。
数日を沈んだ気持ちで過ごした。
顔を合わせるときの少ない父は気付かなかったが、聡い母はさすがに巳之助の様子がおかしいことに気付き、幾たびか気遣いを見せた。だが、巳之助は母に何も語らなかった。言えるわけがない。そう思った。
あの日のことを思い出すだけで、顔と胸が熱を持ち、大声で叫びたくなる。その気持ちを何とか抑え、ときには竹刀を無茶苦茶に振ることで、心のうちより追い出そうと努めた。
何よりも恥を感じるのは、お辰に見られたことを、思い出すときだ。
馬場家は下士の家でありながらも、父母共に厳格な質であるらしく、お辰も折り目正しく落ち着きのある、口数の少ない慎ましやかな娘であった。
だがその眼差しは常に厳しく、同輩の者たちに対して、他の娘のように媚びたり軽口を叩いたりするようなこともなかった。
友人たちの間で、お辰の名が出たことがある。あの娘は堅苦しくて苦手だ、というのが友人たちのお辰に対する共通した評だった。だが巳之助は、お辰の振る舞いこそはまさに武家の娘が持つべき矜持なのではないかと、密かに尊敬の念を抱いていたのであった。
そんなお辰に、無様なところを見られた。それが、巳之助は悔しくてならなかった。
その日もお辰が彼を見下げた眼差しで罵倒する悪夢を見、汗だくで目を覚ました巳之助は、気持ちを切り替えようと庭で竹刀を振るった。
二百を数えたところで切り上げた。汗を流すため、裏の共同井戸へ足を向ける。
そこで見たのは、今、巳之助が最も会いたくないと思っていた娘だった。
お辰が井戸の傍らに佇んでいる。気付いた巳之助は足を止めた。
すぐさま引き返したい思いに捉われる。だが、勇気を振り絞り、前へ踏み出した。
挨拶を交わそうとして、お辰の様子がおかしいことに気付いた。
お辰が身動き一つせず、立ちすくんでいる。目だけを動かして、巳之助に何かを伝えようとしている。
視線の先を追った。
井戸の周囲に敷き詰められた砂利を、細い縄が一本、這っている。蛇だ、とすぐに気付いた。
お辰を見返す。小さく頷いた。その瞳が、何かを訴えている。
助けて、と言っているのか。逃げろ、と言っているのか。
にじるようにして、半歩前へ出た。
お辰の首が、今度は横に小さく振られる。それでわかった。
そうだ。この娘は、そういう娘だ。
あの日の恥が思いだされ、胸の奥底からわき上がってくる。顔が熱くなった。
左手に提げていた竹刀を両手で握り、やや後ろ、脇構えにつけた。
ひとりなら耐えられず、逃げ出していたかもしれない。だが今この場には、お辰がいる。
お辰を守る。心のうちで、そう定めた。
蛇の頭が巳之助を向く。威嚇するように、しゅるしゅると音を鳴らす。
剣先を地面すれすれに置いたまま、摺り足で僅かずつ、詰める。間合いよりはまだ遠い。だが蛇は、ひと跳びで巳之助の懐に潜り込むだろう。
呼吸を整え、蛇とその周囲に目を据える。蛇と巳之助の中ほど辺り。お辰が落としたものか、洗濯板が砂利の上に傾いで転がっている。
心を決め、前から横に、歩みを移す。板と蛇と己が、ちょうどまっすぐに来るように。ゆっくり、ゆっくりと間合いを移した。
蛇の頭が、板に掛った。
大きく一歩を踏み出す。竹刀を強く突き出す。
蛇には届かぬ。だが、板には届く間だった。
ぱん、と乾いた音を立て、砂利を巻き上げながら板が持ち上がる。その上に乗らんとしていた蛇が宙を舞った。
中空で蛇が鎌首を伸ばす。だが、巳之助までは届かない。
剣先で地を擦るように。
落ちかかる蛇の頭を、下から打ち上げた。ほああ、と意味のわからぬ叫びが口を突いて出た。
井戸の向こう側まで飛んだ蛇が、地に落ちる。竹刀を構え、追撃に備える。だが、蛇はぴくりとも動く様子を見せなかった。
縛めが解けたように、お辰が動いた。
走り寄って来るお辰を左腕で受け止め、巳之助はようやく剣を下ろした。
「大事ないか」
そう問うと、はい、と小さな声が返ってきた。
「この間は無様なところを見せた。だが今日は、立ち向かうことができた」
晴れ晴れとした顔でそう告げる。だが、お辰は首を振った。
「何事もなく、息災でよかった。そう思いました。今日も、この前も」
ああ、と巳之助は悟った。
小さいな。俺は、小さい。
それに比べてこの娘の、何と広大なことか。
「俺は大きな男になるぞ、お辰殿」
顔を朱に染めながら、それでもはっきりと、巳之助はお辰に告げた。この娘に聞いてほしい。そう思っていた。
目は合わせない。だが確かに。はい、という返事を、巳之助はその耳に聞いた。
(完)