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流転剣 昇龍

卯衛門うえもんを見つけました」

 馬車馬堂ばしゃうまどうから戻ってきた辰之介たつのすけが、おりゅうに告げた。

 刀を受け取った手を止めて、辰之介を見る。辰之介の顔いろは、いつもと変わらぬふうである。ただ見たことを、姉に告げた。そういった態度であった。

「どこで見たのですか」

 草鞋を脱ぎ、足を洗う弟の背中に問いかけると、店に来たのです、と返って来た。

「金を借りに来ておりました。えらく痩せていて、髪も髭も伸び放題でしたが、違いない。まさしく卯衛門でした」

 辰之介は馬車馬堂という名の両替商で用心棒をしている。この馬車馬堂は、もとは小さな黄表紙屋だったのだが、その頃に出した奇天烈本という、化け物が人にのりうつる話や、目の見えぬ僧が夜目の利かぬ侍に光る瞳を与える話といったような、一風変わった黄表紙を売り出して儲け、その金を元手に両替商をはじめたという変り種である。黄表紙屋は裏店に今でも残っていて、忙しいときには辰之介が使いに駆り出されるときもあるのだという。

 正月が明けて、今日が仕事のはじめであった。両替屋の店先は金子のやり繰りに詰まった客たちが押しかけ、辰之介も金を運ぶ手代を守って蔵と両替屋と黄表紙屋を回ることになった。

「卯衛門を見たのは、ちょうど蔵から店に戻ったときだったのです」

 揉め事が持ち上がらぬ限り、店先に用心棒が顔を出すことはない。たまたまが重なって、辰之介は卯衛門と顔を合わせることになったのだった。

「たしかなのですか」

「はい。右の顎に、傷もありました」

 それを聞いて、お竜も納得した。父がつけた傷に、違いないと思った。

 父である寅之助とらのすけは徒士組の小頭であった。あれも正月を過ぎたばかりの頃であったと思う。徒士組の者たちがいつも米を換えている札差のところで、騒ぎが持ち上がった。知らせを受けた父は配下二人を連れ、札差の店先へ向かった。

 暴れているのは、同じ徒士組の卯衛門であった。受け取る金子の量が少ない、というのがその理由であった。

 他藩の例に漏れず、この藩でも先年より米の一部借り上げがはじまっていた。上げ米は、いわば実質的な減棒である。受け取る銭が今までより少なくなるのは、至極当然である。

 だが卯衛門は、その施策に得心いかぬようで、札差相手に怒鳴り散らしていた。どうやら、酒も入っているようであった。

 父は卯衛門を諌めようと近付き、一言二言声を掛けた。そうすると、卯衛門は突然刀を抜き、父に斬りかかったのだ。

 一刀を受けながらも、父は抜き合わせ、切り結んだ。そうして、下からの一撃で、卯衛門の顎を切り裂いた。

 だが、そこまでだった。

 傷は深手であったようで、父は倒れ伏した。それを見た卯衛門は、背を向け走り去ったのだという。

 すべて、それを見ていた父の配下から聞いた話である。お竜が十七、辰之介が十四の頃のことであった。

 卯衛門は出奔した。武家のしきたりで、辰之介が跡を継ぐには、仇討ちを果たさねばならない。

 そうして三月後。ふたりは卯衛門が潜んでいると噂のあった隣藩へと旅立ったのだ。

「向こうは、そなたがわかったようでしたか」

「いえ」

 卯衛門と辰之介が顔を合わせたことは幾度もない。そして、卯衛門は子どもの頃の辰之介しか知らぬ。わからぬのも、無理はなかった。

 辰之介がかまちに上がり、部屋へと足を向ける。お竜もあとを追った。着替えを済ませた辰之介と、部屋の真ん中で座って向かい合った。

「いかがいたしましょう」

「考えるまでもない。住処をつきとめ、父上の仇を討つのです」

 弟を睨みつけるが、弟はいつもの如くで茫洋としている。お竜は大きく息を一つ吐いた。

 辰之介が七つのときに母が亡くなってより、お竜は三つ年の離れた弟の母親代わりとして生きてきた。己に、課したといってもいい。

 もとより、弟の世話を焼くのが嫌いではなかった。手取り足取り、大きなことから細々としたことまで、辰之介の所作に口を挟んだ。辰之介は素直で大人しく、いつもお竜に従い、ほとんど歯向かうということがなかった。

 気がつけば。気持ちを表に出さない、無為として、己の意見を一切口にしないような。そんな男ができ上がっていた。

 お竜は思う。自分は、母がいなくなった寂しさを、自分が母の代わりとなることで埋めてきたのではないか。己の空白を埋めるために。己に使命を課し、寄る辺を得るために、たった一人の弟を犠牲にしたのではなかろうか、と。

 そして今、埋めるための中身を姉に吸い上げられたような弟が、目の前に座っていた。

 辰之介は暫く考えてから、口を開く。

「斬れましょうか。わたくしに」

「何を気弱なことを。斬るのです。何としても」

 藩を出るときに、辰之介は通っていた衿屋道場より折紙を受けている。少なかれ祝儀といった意味合いはあれども、腕は悪くないはずであった。

 だが、父を斬った卯衛門は、藩でも随一の遣い手であるといわれていた。辰之介の腕前では、太刀打ちできぬであろう。それが周囲の評であったし、お竜もまた、心の奥底ではそう思っていた。

 だからこそ、辰之介について、一緒に出てきたのだ。

「ですが姉上。わたくしが見たところ、卯衛門は重い病を得ているようでした。金子を借りに来たのも、おそらく医薬代のためだったのではないかと」

「われわれにとっては好都合というものです」

「病に苦しんでいるものを、斬るのですか」

「父上の仇なのです、辰之介」

 辰之介が項垂れる。これでよいのだ、とお竜は思った。辰之介はお竜に逆らわない。今までそうだった。そしてこれからも、そうだろう。

 辰之介が顔を上げた。

「卯衛門は、また来ると思います」

 お竜は頷いた。


 辰之介と話をして、三日ほどあとのことだった。

 あの日からお竜は思い悩んでいた。ともすれば卯衛門との対決が頭を過ぎり、家事が手につかない。落ち着かぬ様子で、日々を過ごしていた。

 本当にそれでいいのか。もう一人の自分が、囁きかけているような気がする。

 藩を出て、三年が経っていた。出てきたばかりの頃は住まいを見つけるのにさえ難儀したが、今では家を持ち、辰之介が用心棒の口を得て、暮らしも楽ではないまでも、それなりに生きていけるようにはなっている。

 卯衛門を討ったとして。帰参したところで、果たしてわたしたちの居場所はあるのか。辰之介は本当に、父の跡を継げるのか。そのような不安が、胸にせり上がってきていた。

 何が正しいのか、わからない。だが、自分が決めねば、何も進まない。

 決めねばならぬのだ。そうするしかないのだ。そう言い聞かせて、不安を抑え込んだ。

 馬車馬堂の小僧が飛び込んできたのは、溜め込んだ不安が、お竜の中で破裂しそうに膨らんでいた頃だった。

「先生が」

 その言葉だけで、お竜はすべてわかった。

 先祖伝来の、黒鞘の懐剣を左袖に落とし、小僧のあとに続いた。

 追われる者は、周りの視線に対して勘が鋭くはたらいている。卯衛門はきっと、辰之介に気付くだろう。お竜は確信していた。

 そして卯衛門ほどの腕の持ち主ならば、逃げるよりは返り討ちを狙うだろう。そう思った。

 だが、走りながら小僧に問いただしてみると、意外な答えが返ってきた。

「お侍を連れだしたのは先生の方で」

 背筋が凍った。どういうことだ。辰之介が己で何をか考え、行動を起こしたのか。

「あの河原です」

 小僧が橋を指し示した。お竜は小僧を追い抜くと、格好も気にせず土手を駆け下りた。

 幅十間ほどの小さい川である。その川越し。向かいの河原に、辰之介と卯衛門がいた。

 卯衛門は上段。辰之介は正眼につけて、対峙している。やはり、とお竜は思った。

 辰之介は、自分一人で、決着をつけようとしたのだ。

 卯衛門は辰之介より一回り大きいが、酷く痩せて見える。顔色も青白く、辰之介のいうとおり、病を得ているようであった。

 だがそれでも、卯衛門が一段か二段、勝っている。己も剣術修行を積んだことのあるお竜は、そう見た。

 助太刀をするべきだ。だが、今から橋を渡っては間に合わぬ。

 卯衛門が鋭い一撃を放った。鍔元で辰之介が受け止める。だがそのまま、圧力でじりじりと上体を押し込まれる。

 お竜は川縁まで走った。

 卯衛門が押す。辰之介がよろめきながら離れた。その隙を逃さず、卯衛門が胴薙ぎの姿勢に移る。

 お竜は左袖に右手を突っ込んだ。二本の指で柄を強く挟み、鯉口を切って鞘を落とす。

 右手から抜き身の懐剣が飛ぶのと。鞘が袖奥に落ちるのがほぼ同時だった。

 真っ直ぐに投じられた短剣が川の水面を跳ねる。

 一度。二度。

 十二度跳ねた刃が、向こう岸に届いた。

 白刃が卯衛門に迫る。目の端にそれを認めた卯衛門が、横に向けた刃で必死に弾いた。

 辰之介が動いた。

 下段から、摺り足。腰下より巻き上がった一閃は卯衛門の刀の根を噛み、そのまま跳ね上げた。

 空より落ちた刀は土手に突き立ち、無手になった卯衛門の喉元に、辰之介の剣先が突きつけられていた。

 見事、という声が、お竜の喉から思わず漏れた。

 崩れ落ちる卯衛門から剣を外した辰之介は、そのまま鞘に収めた。

「我らが父の仇、卯衛門は、ただ今死にました」

 穏やかな笑みだった。

「我らは今、穏やかに日々を暮らしております。これ以上を、望もうとは思いませぬ。あなたを追うことも、もうありません」

 その言葉を聞いたとき。お竜の奥底にあった、何か重しのようなものが、溶けていったような気がした。

 よかったのか、辰之介。あなたはこれでよかったのですか、辰之介。

「どうぞ、お健やかに」

 辰之介が卯衛門に一礼し、背を見せて土手を駆け上がる。その背に、天に昇る龍を、お竜は確かに見た。

 お竜は左袖に残った鞘を取り出すと、その場にしゃがみ込み、そっと川に流した。春先のまだ冷たい流れに乗って、それは離れ、静かに消えていった。


(完)

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