奇縁剣 虎の尾
怒らせてはいけぬものを怒らせたのだ、と二団虎次は気付いた。
年明けから、虎次は父の仕事を手伝いはじめた。五年ほど前から、藩財政の悪化に伴って各部所の再編が行われた。運営の効率化のためというお題目であったが、実際のところは人減らしが目的であった。少なくない数の藩士がお役目を外され、虎次の父もそのうちに含まれていた。
父が邸宅に持ち帰ってきたのは一台の古びた荷車だった。
「払い下げてもらった。これで商売をやる」
常より言葉数が少なく、何を考えているのかわからぬ父であった。そして時折、かような突拍子もないことを言い出す。
「役料が貰えなくなるからな。己で稼がねばならん」
「そうですわねえ」
父がお役目を失ったというのに母も常のごとくにのんびりしている。似たもの夫婦ではあるのだが、虎次は俄然不安にとらわれた。
「それで父上。いかなる商売をなさるのですか」
虎次の言葉に父はうむ、と外見ばかりは重々しく頷き、
「こいつで荷運びをやる。あとは、荷車が必要で持ち合わせていないものに、貸し付けてやる。それで、銭が取れるだろう。幸い、宅の庭ならば荷車を置いておけるゆえな」
雨の日のことを考えて屋根をつくらねばならんな、うむ、とすでに決めたことのように話し、母はあらあらまあまあそうですわねえ、などと宣っている。虎次の不安はいや増すばかりである。
「……しかしながら父上、市中には、すでにそのような生業で身を立てている者がいるのでは。我らがそこへ押し入れば、まさに文字のごとく横車になりはせぬでしょうか」
「うまいことを言う。虎次は講談師にもなれそうだな」
うるさい黙れ、と相手が父でなければ叫んでいただろう。
「そこはほれ、拙者らは、武士であるからな」
「つまり、無理やり押し通るのですね……」
虎次は天井を見上げた。なるほど、この父がお役目を外されたのも、わかる気がする。
「そんなわけだから、拙者はやるぞ虎次よ。うまくゆけば、役料より多くの銭を稼げるやもしれん」
うまくはゆかなかった。
いや、はじめたころは、そこそこにうまくゆきかけていたのだ。
幸いというか、性根がさほど武士らしくない父は、役勤めの頃から市井のものたちにもそこそこ親しくしていたようで、その頃の顔と伝手で仕事を取ってきたのだ。
だが、それにも限りがある。父が声をかけられそうなところに声をかけ終えた後は、荷運びの仕事は途絶えがちになった。そもそも、荷運び人足は下町にもおり、わざわざ武士の住まう屋敷町まで足を運んで頼もうというものは少ない。はじめの一度はこれまでのつき合いやしがらみゆえに利用してはくれるだろうが、その一度きりで終わってしまうであろうことは、予測できた事態ではあった。
仕様なく、虎次は己でも動くことにした。
何事にも融通無碍な父ではあるが、ただ一つ虎次に厳しく課していたのは道場通いであり、これは元服を済ませた今でも続いている。どれほど困窮しようともこれだけは、という父の強い願いがあったためだ。
「虎だ、お前は虎になるのだ」
若き頃は己もひとかどの剣術遣いであったという父は、幼き頃より虎次にそう言い聞かせていた。それはおそらく、父の中の武士として譲れぬ矜持であったのか。己の諦めた道を子に仮託する意図もあったのやもしれぬ。
父の心中を察する術もないが、ともかく虎次は幼き頃より剣術に打ち込み、今ではなかなかの腕前となっている。そして道場では、身分に関わりなく、腕の立つものが大きな顔をできるのだ。
虎次は、道場の仲間うちに荷運びと荷車貸与の仕事をはじめたことを触れ回った。門下生は約半数が武士かその子息係累である。父より多少頭が回る虎次は、ここが肝要だと考えていた。
城というのは、大抵高地に建造される。そして、役持ちの武士たちが住まう屋敷町は城のほど近い位置に広がっているため、これまた町人たちの住処よりはやや高い位置にある。
つまり、屋敷町から下町へと荷を運ぼうと思えば、行きも帰りも坂道を通らねばならぬのだ。となれば、わざわざ屋敷町で荷車を頼もうと思う町人などおらぬのは道理であろう。
だからこそ伝手は、武家の内でつくらねば仕事としては続かぬ。数は少なくともよい。細々とでも、続けてゆけることが肝要なのだ。
はたしてそれは正しかったようで、改めてあちこちへと声をかけてみれば、利用したいという者が結構な数いる。それもそのはずで、屋敷町の中から下町へと荷運びを頼むのも、逆と同様にいらぬ労力をかけることになるのだ。屋敷町内部での荷運びであるならば、その中で調達できた方がいかにも簡便である。
これならば食ってゆくだけの顧客であれば確保できるやもしれぬと、虎次はほくそ笑んだ。己でも気づかなかったが、こうして知恵を絞り銭金を稼ぐということが、虎次は嫌いではないようだった。
が。
これも上手くいったのはそこまでであった。
今年の春は暖かいが、それでも初春の風は身に厳しい。殊に、屋敷町と下町を分ける川沿いの道は、風が直に吹き付けてくる場所のため、この季節の人通りはまばらだ。
だが多くの脚で踏み固められた川沿いは、荷車を押して進むにはよい塩梅なので虎次は重宝している。暑いのは苦手な虎次だが、寒いのはさほど堪えないたちだ。薄着で寒風に晒されようとも、力を込めて荷車を押している際には身体も温まるので、苦には感じない。
そうしてその日も人通りの少ない川沿いを通っていれば、目の前を塞ぐ影がある。車を止めて顔を上げると、派手で高そうな着物を着た女子が、行く手を塞いでいる。
「あんたね! 近ごろこの界隈で荷車貸しをはじめたのは!」
偉そうな口調で告げられたが、虎次と違い何枚も着込んだ厚手の着物で膨れているにもかかわらず、襟元を寒そうに摩っているので、威厳はまったくない。この時季の吹き降ろしは、本当に寒いのだ。
とにかく気と思いこみが強そうな顔つきとその口調を耳にして、あまり気の合いそうにない娘だな、と虎次はぼんやり思った。
「はじめたのは、拙者の父であるが」
「そんなことは、どうでもいいのよ!」
娘は相当にご立腹のようであった。
ともかく話を聞いてみると、彼女はここらを縄張りとする商家の娘で、荷運び人足の手配なども彼女の家が手掛けているらしい。屋敷町とはいえど何も武家ばかりが住んでいるわけではない。武家の御用を承る職人や、彼女のような商家の屋敷も当然にあって、そこで仕事と糧を得ている人々がいるのは、なるほど道理である。
「あんたたちがはじめた仕事は、私たちの縄張りを荒らしてるのよ!」
つまりは、そういうことであるらしかった。これまで考えもしなかったが、当然これまでにも、今虎次たちがやっている仕事を請け負っていた誰かがいるであろうし、言われてみれば合点のゆくことではあった。
「はじめは大したことない規模だったし、うまくいきそうにもなかったから放っておこうと思ってたんだけど……。ここのところ、派手にお仕事されているみたいだからさあ。これ以上荒らすなって、今日は釘を刺しに来たのよ」
こういった際には、仕事をはじめる側から、地元の顔役に挨拶に伺うのが慣例である。父は出向いたであろうか。いや、仮にも武士が商人に頭を下げに出向くわけはなかろう。
頭一つ下げるだけで上手くゆくならばやぶさかではないのだが、と虎次ひとりでならば思いもするが、二団の家としてはそういうわけにもいくまい。
「そなたの言い分はわかった。父にも拙者から伝えておく。だが、拙者らも食っていかねばならぬから、やめる、とは約定できぬ。いかにすればよかろうか」
「知らないわよ、そんなの。とりあえず、言うことは言ったからね。他にも言いたいことはたくさんあるけど、今日はこれだけにしておくわ!」
どうしてだ、と聞くと、娘は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「私は! 寒いのが! 苦手なのよ!」
どこまでも気は合いそうになかった。
帰宅後、父にその日あったことを伝えはしたが、父の返答は「ともかく、もう一度怒鳴り込んでくるまでは様子を見よう」というものであった。
今すぐに他の職を探すといっても、そう容易く見つかるものではない。二団家としては、何とか上手くゆきかけているこの仕事を続けてゆくしか、今のところは手立てはない。ひとまず時を稼ぎ、その間に別の手立てを探ろうということで父子の相談は纏まった。
だが虎次は、もしも相手が商家でなく武士であったなら、父はこの時点ですぐさま頭を下げ、荷運びの仕事を辞めていたであろうと判じている。長いものに巻かれるのと、身分をかさに着るのは父の得意とするところであった。
道場の誰が申していたのだったか。茶席の参列者を己で選べぬのと同様に親も出自も自らでは選べぬ、ならば己なりの生き方を己自身で画するしかないという話を思い浮かべた。禅であったか茶の湯の用語であったか、これをば親画茶と称するのであるとか。
そういうわけで、警告があったのちもずるずると荷運び荷貸しの仕事を続けていたのであったが。
ある時分から、ぱったりと仕事のお呼びがかからなくなった。
訝しんだ虎次が、道場で稽古終わりに、よく仕事を頼んでくれていた後輩に声をかけ問い質すと、今のところは頼みたいものはないから、と顔をゆがめて迷惑そうに告げてくる。そういえば、道場でも周囲の人間が何やらよそよそしくなったような気もする。
虎次はすぐに、己の知らぬところで何かあったのだと気付いた。
おそらくは、どこかから圧がかかったのだ。ただひとりで道場を後にした帰路にて、虎次は思案していた。仕事の中で細やかな失策はいくつもあったが、悪評判に繋がりそうな諍いごとは何一つなかったと思っている。それとも己の思い至らぬところで顰蹙を買っていただろうか。
いつも荷車を押してゆく川沿いに差し掛かったところで、見知った顔に遭った。
ああ。そういえば、この件があったか。
以前に遭った商家の娘が、偉そうに腰に手を当て、道を塞いで立っていた。
「性懲りもなく、商売を続けているようね」
虎次はすぐに思い当たった。
「仕事を奪ったのはそなたらか」
「先に奪ったのはそっちだからね。こっちは、取り返しただけよ」
「父が御役御免になったのだ。銭を稼がねばならん」
「知らないわよ。別の商いにしなさいよ」
「そうは言われてもなあ……」
「あんた、武士なのにはっきりしないやつね」
まったくもって世の中というのは荷車の輪のごとく、丸く繋がっておるものだと思う。こちらはただ、今手元にあるものとできることとで銭を稼ぎたいだけなのに、ただそれだけとはいかぬらしい。誰かが何か一つ新たなことをはじめると、先が一つ一つ押されて、繋がった円は力を加えられごろごろ回り、荷車は進んでゆくのだ。
ちょうど、坂の上の屋敷町から転がってくる空の荷車のごとくに。
後ろから荷車を追いかけて走っている人物に見覚えがある。どう見ても父である。その後ろからさらに、やくざもの風の町人が二人ほど追いすがっている。事情はわからぬが、虎次のいぬ間にまた何かやらかしたらしい。
「なによあれ……! ちょっとまって。後ろの二人、うちのものだわ」
「うちの荷車でも奪いにいかせたのか」
「そうよ! でもなんで、あんなことになってんのよ!」
どうやら強硬手段に出たところで、父が抵抗してあのような笑話のごとく顛末になっておるらしい。枯れても剣客であった父に、やくざ者二人では太刀打ちできなかったであろう。
で、父は荷車ごと逃げようとして、ああなったのか。なるほど。だめだあの父、早く何とかしないと。
「かなり勢いがついておる。あのままではまずいな」
虎次は両手を袴に沿えて少し持ち上げると駆け出した。
坂を転がる荷車を真正面から受け止めることは虎次にもできぬ。ならば、何とかして勢いをそがねばならぬ。
虎次のこころに浮かんだのは、先ほどまで思い描いていた輪であった。
ごろごろと転がる輪。一つのことが様々なところに繋がり、事態を大きく転がしてしまう輪。己では選べぬ、家と血脈という大きな大きな輪。
それを断ち斬りたいと。そう考えていた。
中古の荷車はあちこちが痛んでいて、車軸と車輪も例に漏れぬ。特に右側の前輪がそろそろ怪しいことは、父と虎次の懸念でもあった。
駆けながら腰に手をやり、抜刀する。
追いついた荷車の右前輪めがけて、刀を叩きつける。だが、その一撃は空しく弾かれた。円環を断つのは、容易きことではない。
知っているとも。
虎次自身も円を描く。弾かれた勢いを利して身体をぐるりと回転させ、力を殺さぬまま、再度刀を振るった。
かん、という乾いた音と、抜けるような軽い手ごたえ。
両足で着地した虎次が見たのは、傾いで横倒しになりながら滑ってゆく荷車。
荷車は思ったよりも長い道のりを滑り進んで、驚きでへたり込んでいた少女の前でようやく止まった。
ちょっと歪んでしまった刀を無理やり鞘に納め、娘を助け起こす。これで少しは心証もよくなるかと思われたが、返ってきたのは礼ではなく怒髪天を突かんばかりの罵声であった。
「あ、あんたたちは! あんたたちは! ほんっとうに碌でもないことしかしないわね! ちょっとあんたたち、一緒にうちの家まで来なさい! はぁ? 放っておいたら何するかわかんないからでしょ! これ以上、勝手なことされたら困るのよ!」
武士である父が町人と一緒に並んで地面に額を擦り付けているのを、道も荷車をえらいことになっているが、ともかく大事にならんでよかった、などと安堵しつつ眺めていると、怒りの矛先がこちらに向いた。
「あんたもよ! 自分は関わりないとか思ってんじゃあないわよ!」
ああ、怒らせてはいけぬものを怒らせたのだなあ、と。虎次はようやく気付いたのであった。
後年、虎次はこのうさぎという名の娘と祝言を挙げ、商家に婿入りするのであるが、このときの二人は与り知らぬ事。
新たな年が過ぎゆく。春は、出逢いの季節である。
(完)
十二年間おつきあいいただききまして誠にありがとうございました。
コメントなどお寄せいただきますと大変嬉しく思います。