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自得剣 牛歩

 進まぬ、と牛呂葦之輔うしろあしのすけはごちた。

 あれもこれも進まぬ。葦之輔の周辺は、近ごろ何もかもがよろしくない。

 昨年の暮れ、虎緒とらおが道場を辞めると言い出したのがはじまりだった気がする。いや、本当はもっとずっと前からはじまっていたのであろうが、そういった交々に葦之輔が気付くのは、いつも人より一歩か二歩遅い。目端が利かぬのだ。何とかしたいと己では思っているが、元服を済ませたこの年になっても、未だに直らぬ。

 そうだ。新年を迎えて、元服を迎える。儀を執り行うのはしばし先だが、時だけは容赦なく進んでゆく。というのに肝心の葦之輔だけが、とんと進まぬ。

 やはり虎緒だ、と思案はそこへと戻ってくる。

 道場におなごは虎緒ひとりだ。以前にはほかにも幾人か剣術修行をする女がいたが、今では虎緒のみである。過去に女師範代を置いたこともあるという今の道場は門戸を広く開いている。が、通ってくる門下生のこころうちまで広いわけではない。男どもの中に幼いとはいえおなごひとりでは、やはり周囲の風当たりというのは強い。

 幼馴染でもある葦之輔は何くれと世話を焼き、強い風から守ってやろうとしていたのだが、虎緒はそれを拒み続けていた。曰く、それも修業のうちだというのだ。

「おなごが世間に出れば、風当たりの強さなどこの比ではない。今のうちに、この程度のところで慣れておくがちょうどよいのだ」

 そのように言ってのける。虎緒はそんなおなごであった。己の立っている場所を知っている。葦之輔とは大違いだ。

 その虎緒が道場を辞めるというのであるから、よほどのことなのであろう。

 と一人合点した葦之輔は、虎緒を説得すべくあしげく通い詰めていたのであった。


 道場での初稽古を終えると、その足で葦之輔は橋を渡った。虎緒はやはり出てこなかった。

 あまり雪も降らず、例年よりは過ごしやすい初春であった。多少の薄着でも、身体を動かして居ればさほどに寒さは感じぬ程度で、近年では珍しいとも思える。梅や桜の咲くのも早そうで、このままよい年になればと思う。

 虎緒の邸宅は商家町の中にある。虎緒は武家のような言葉遣いをするが、虎緒の家は武家ではない。医家であったか薬種屋であったか、細かな区分は葦之輔にはわからねど、確かそのようなものであった。そして虎緒は女だてらに家を継ぐ心づもりなのだと聞いた。武家の内緒を知るためと心身の鍛錬を兼ねて道場通いを決めたのだと、以前に聞いたのを覚えている。

 年明けで人の少ない通りを抜けて、勝手知ったる邸宅へたどり着くと、ちょうど桶を抱えた墨染袴姿の女に出くわした。虎緒だ。縦にも横にも大きい葦之輔だが、虎緒も女人にしては背が高く、柳のようにも見える。虎緒は葦之輔を見留めると、端正な顔をしかめた。

「虎緒」

「また来たのか」

「いや……」

 虎緒が大きく息を吐く。白い息が、虎緒の呆れを形にしているようにも思われる。葦之輔の己の行いがただの我が儘だとわかっているゆえ、そう目に映るのやもしれぬ。

「わたしはもう、道場で学ぶべきことは学んだ。だから辞めたのだ。そう話しただろう」

「聞いた。だがおれは、お前が辞めたあの日から、どうも一歩も進めておらん気がするのだ」

「跡取り争いは関わりない、とは言わないが。わたしはそもそも関わる気はなかった。葦之輔が気に病む必要はない」

 昨年の末から、道場では二人の師範代における跡取り争いが激しくなっていた。門下生は暗黙の裡にどちらの師範代に就くかで派閥ができつつあり、日和見は許されぬという雰囲気になっていた。その空気に嫌気がさした幾人かが道場を辞め、その中に虎緒も含まれていたのだ。

「葦之輔はどちらに就くか決めたのか」

「まだだ。それで、皆からおれへの当たりがきつい。稽古に身が入らぬのもそれが一因だと思う。虎緒を守っているときにはどうとも思わなかったのだが。こうしてわが身に降りかかると、どうしてか堪えるのだ」

 虎緒がまた、大きく息を吐く。葦之輔はいつも虎緒を呆れさせてばかりいる。

「少し寄っていくといい。竹刀は持っているのだろう」

「ああ」

 背中の荷物を掲げて見せた。虎緒が頷き屋敷へ入ってゆくので、後に続いた。

「裏庭が空いているから、そこで待っていておくれ」

 言い置いてひとり、戸のうちへ消えてゆく。裏まで通されるのはいつ振りかと考える。虎緒宅の裏には広い庭があって、幼き頃には、稽古場として幾度か利用させてもらったものだ。虎緒との出会いも、それがはじまりであった。

 道場に入門してからは、来ることも絶えて久しくなっていた。虎緒と再会したのがその道場で、奇妙な縁のようなものを感じたものだった。

 虎緒は竹刀を持って戻ってきた。

「どうだ久々に。よいだろう」

「構わん」

 互いに竹刀を構える。虎緒とこうして相稽古をするのも久々だった。

 身が大きく力が強い葦之輔は、技を使わずともただ押すだけで勝ててしまうことも多い。女人である虎緒とはことにその差が大きいが、それでも三本に一本は取られる。技と身ごなしが、虎緒の方が優れているからだ。

 虎緒と打ち合っていると、いかに己の動きが緩慢であるかと知らされる。どしりと構えていることと、動きが鈍いことは似ているがまったく違う。動じず構えていながら、動くときには対手よりも速く鋭く動かねばならぬ。

「近ごろは、家の修業に力を入れることにしてね。あまり竹刀を握っていないんだ」

 相対しながら虎緒が喋る。道場であれば喝を入れられるところだ。葦之輔も眉をしかめるが、虎緒は気にせず言葉を継いだ。

「蘭書をよく読むようになった。その中に面白いものがあった。人の目は、あまりに速すぎるものを見ると、それがとてつもなく遅く見えたり、逆に止まって見えたりすることがあるそうだ。つまり、動いていないと見えるものでも、実際にはすさまじい速度で動いているものもあるのかもしれない」

 この世というのもそうなのかもね、と虎緒は続ける。確かに。世は動いている。己がそこに留まりたいと思っても、そのようにできるとは限らぬ。

 だからこそ少しでも進むためにあがき、足を動かさねばならぬのだが。

「虎緒は、逃げたのではないのか」

「葦之輔からすれば、そうだ。だが、わたしは進んだのだと思っている。葦之輔にはどう見える」

 虎緒が掛かってきた。鋭い打ち込みだ。腰を落として確と受けるが、受けたと思えば虎緒はもう距離を取っている。

 足を使えば追いつけるか。いや、追いつけたためしがない。自分は受けながら、牛の如く少しづつ間を詰めるしかない。

 だが、いつもいつも、虎緒は軽やかに逃げていく。道場からも容易く逃げた。追いかけても詮はない。

 それでも心身ともに強いのは、やはり己の立つところを知っているからなのだろう。そう思う。

 葦之輔にはそれがない。己がこの先どうしたいのか、展望がない。だから立てぬし、立てねば進めぬ。自明である。

 やはりだめなのか。

 無力感が腕に伝わったのか。剣先がわずかに下がった隙に、虎緒が再び飛び込んでくる。

 進みたい。いや、その前にまず立たねばならぬ。己がいるこの世の中で。まずは己がここにいるのだと、自ら立たねばならぬ。でなければ、今のように状況に流されるままになってしまう。

 世は変わる。その中に、変わらぬ己の何かが欲しい。

 じり、と。進んだかどうかわからぬほどに、咄嗟につま先を進めた。そのわずかな躍動が、足から腰、腕に伝わり、竹刀を振わせる。

 葦之輔の竹刀が、虎緒の竹刀をはたき落としていた。

 何をしたのだろう、と思う。今、自分はほとんど僅かしか動いてはいなかった。だが、驚いて目を見開く虎緒が葦之輔を見ている。

「速すぎて、遅く見える。こういうことか」

「いや、自分でも何が何やらわからんが」

 一つだけわかることがある。虎緒もまた、己と同じくらい剣の研鑽を続けてきたということだ。

 落ちた竹刀を掴み、近づいた。葦之輔のこころも今、何かの光明を掴んでいる。

「虎緒。剣術は好きだろう」

「うん、好きだ」

「もしも。もしも、だ。おれが将来、自分の道場を持ったら……。たまに稽古に来てくれるか」

 それは先ほどの際に見た、一すじの展望だった。

 虎緒は今一度驚いてみせて、それから笑った。

「ああ。そのときには、きっと」



(完)


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― 新着の感想 ―
[良い点]  今年もよいものを見れて新年を迎えられて、大変うれしく思います。  剣を以って自らを得る。  答えを手にできる人の、なんと羨ましいことか、なのです。
[一言] 「自得剣 牛歩」、拝読しました。 「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」という言いがあります。私的にはこれを、「ひらめきを捕まえるためには努力が必要」と解釈しています。  一瞬のひら…
[良い点] 自分では昔のままでいるように見えても、成長しているもの……。 未来を見据えて足を踏み出せるよう、私も頑張らねば! 今年もどうぞよろしくお願いします。
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