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辛抱剣 鼠返し

 放された小さな鼠が柱を登ってゆく。

 柱の表面はすべらかに仕上げてあるが、それを障りにするするふうもなく、鼠は難なく登ってゆく。が、その先には、同じ素材でつくられた輪がはめ込んであり、行く先は塞がれている。そこから上へと登るためには、身体を一度逆さにせねばならない。

 鼠は輪に爪を立てると、難なく輪を越えていった。

 先生が素早く鼠を捕えると、竹籠に押し込んだ。

 盛本子太郎もるもとねたろうは押し込められた鼠の前脚を見た。なるほど、小さくはあろうとも、強靭で鋭そうな形をしている。

「これがいわゆる鼠返しというものだが。見てのとおり、並みのものでは昨今の鼠には通用せぬ」

 拝聴する子太郎を含む見習いたちに向けて、墨染衣の先生が朗々と告げる。そうして、見本の柱から木の輪を外すと、別のものを取り付けた。

「これは、陶でつくられたものだ。木のものより滑りやすくなっておる。さらに、こうして横から見ると、やや斜め下に反りがつけられているのがわかると思う」

 再び鼠が放された。先ほどと同じように、するすると柱を登ってゆく。そうして、やはり先ほどと同じく、陶の輪に爪を立てた。

 が、そこから先へとは進むことなく、真っ逆さまに落ちてしまう。おお、というどよめきが場に起こった。

「かように、人は工夫を積み重ね、鼠を退けてきた。だが、これですべてが上手くゆくわけではない」

 今度は別の鼠が放された。先ほどのものより身体が一回り大きい。

 やはり柱を登ってゆき、陶器の輪へと到達した。先ほどと同じならそこから逆さまに落ちてゆくはずだったが。

 その鼠はぐい、と身体を伸ばすと、輪の縁の方へ爪を引っ掛けた。そのまま前脚を保持して、登り越えてしまった。

「このように、大型のものなら力も強い故、越えられてしまう。また」

 別の輪が取り付けられる。先ほどと同じ陶製だが、かなり使い込まれている。

 小さな方の鼠がまた放された。輪に到達すると、今度は爪を立て、易々と越えてしまった。

「陶器のものであっても、汚れ、傷が増えてくると、かように侵入を許してしまう。わしが知るところでは、柱の方を削って、隙間から侵入した、という事例もあった。つまり、日々確かめることが肝要である、ということだ」

 その言葉で、講義は締め括られた。

 先生が退出すると、見習いたちは三三五五に帰り支度を始める。蔵奉行の配下もいれば、普請方の御家人もいる。松の内が明けたところであるから、まだまだ忙しくはない時期だ。どことなく気分も緩んでいるのか、各々で喋りながら帰り支度をしているものも多い。

 子太郎はひとり、座ったまま膝上に帳面を開き、先ほどの話を書き留めている。

「おい、帰るぞ子太郎」

 背中から聞き覚えのある声がかかる。この年から同僚となる予定の鳴南牛吾なるなぎゅうごだ。子太郎と同じく十五の歳であるはずだが、比較的小柄な子太郎よりこぶし二つ分くらい背が高い。筋骨もがっしりしているので、歳頃も二つ三つ違って見える。

 この牛吾が、子太郎は少々苦手であった。

 一つ大きく息を吐き、片付けにかかる。声をかけた牛吾本人は、すでに出口へと向かっている。何をするにも一番乗りになりたい、というのが牛吾だった。

 子太郎はわざとゆっくりと支度を済ませたのであるが、意外にも牛吾は門で待っていた。遅いぞ、と告げてから先導するようにささと歩き出す。子太郎は母からもらった襟巻を巻き締めると、のそのそとあとに続いた。

 新春の朝は寒い。昼前になっても冷え込みは薄まらず、まだまだ厳しい気候が続きそうな予感がする。体調を崩しやすい子太郎は厳重に防寒をしているが、牛吾は厚手の袷のみである。

「このような講義、名目の上だけ出ておればいいというのに。そなたはやけに真面目に聞いておったのだな」

 前を行きながら牛吾が話しかけてくる。早足なので、子太郎はついてゆくだけで精いっぱいだ。うん、と短く返す。

「書き留めておくほど面白いものかな」

「面白いよ」

 人と鼠との攻防と、その歴史の積み重ねは、大変興味深いものに子太郎は感じられる。鼠を蔵に入れぬという工夫一つに、思いがけぬほどの奥行きがあるのだと知れただけでも、収穫であった。

 御蔵付きのお役目は、日々同じことの繰り返し、変化がないことこそを貴ぶのだと、父からは繰返し聞かされてきた。だが、まことにそうなのであろうか。

 子太郎の返事が聞こえたのや否や、牛吾は速度を落とさず進んでいく。

「子太郎、おまえ、道場はどうする」

「わたしはいい」

「おれたちのお役目は警護も兼ねているのだ。いざというときに遣えぬでは済まんぞ」

「うん」

 長屋町にたどり着いたところで、牛吾と別れた。これから道場へと寄るらしい。

 一人になったので、ゆっくりとした足取りで自宅へ向かう。長屋町の、橋を隔てて屋敷町に隣接している一帯は下級武士の邸宅が密集している。そのうちの一軒に盛本の家はある。

 夜にはこれからについての、父からの話がある。それを思うと、足取りはますます重くなった。



 翌日、子太郎は道場に来ていた。

 正式にお役目に就くまでに、身体を鍛え直せ、という父の指示であった。子太郎の外見は、誰から見ても頼りなく映るらしい。

 稽古着こそ着込んでいるものの、気を入れることもなく素振りを繰り返している。腰は定まらず、竹刀に振り回されているように見える。実際のところ、竹刀よりも別のところに子太郎の気持ちは飛んでいた。

 昨日の講義が思い出される。世の中にはああいう己の見知らぬ知恵や知識が、数多あるのだろう。そういうものを知りたい、という気持ちで、今の子太郎の胸の内は溢れている。

 そういうものを知り集めるには、武士という立場は不向きなのではないか、と。そのような思いにも捉われていた。

 五十ほど振って、竹刀を下ろした。それだけでもう、疲れている。剣術にももちろん、術理はあるのだろう。でき得ることならば、それだけを知りたい。実践はさておいて。

 気の抜けようを師範代に見とがめられ、叱られつつ竹刀をさらに五十振った。腕が上がらなくなりそうだった。

 大した稽古をしたわけでもないのに、へとへとになって道場を出る。三日を開けずに道場には通うようにと、父には厳命されている。このような日々が続くと思うと、げんなりした。

 父なりに子太郎を心配してくれているのだろうとは思う。お役目に就くまでに、恥ずかしくないよう形を整えさせてやろうと考えてくれてのことだ。だがそのお役目そのものが、人生の先行きをあからさまに描かせて、子太郎の気持ちをさらに重くさせる。

 ……鼠が越えられぬ返しのようなものだ、これは。そう思う。

 蔵の中の米にはありつけぬ。床の下を、ぐるぐると回る。そんな一生が待っているのだ。

 家と、蔵と、藩校と道場と。そこだけを行き来して終えるのだ。父もきっと、これまでそうだった。

 どうすれば抜け出せるのか。そのようなことを思案し続ける日々が続いた。

 三度目の道場の日。門をくぐって子太郎は顔をしかめた。鳴南牛吾がいる。できれば見たくない顔だった。

 牛吾は嬉々として稽古を受けている。がさつな性分なのだが、あれで座学の方もそうは悪くない。同じお役目に就いているのに日々が随分と楽しそうで、それが子太郎には不思議であった。

 牛吾の方も子太郎を認めて、不愉快そうな顔になった。常に欝々とした気配をまき散らしている子太郎を、牛吾は疎んじている。子太郎は型通りの挨拶を交わすと、できるだけ離れて支度にかかった。

 端の方で皆に混じらず素振りをするのが子太郎の日課である。同じ年頃の皆はもう次の段階へ移っているが、子太郎だけは今だ基礎の型にすら進めていない。ひとり身体づくりに励んでいた。いや、励んでいるように見せかけていた。

 五十ほど振ったあたりで、道場の中央が騒がしくなる。どうやら今日は、仕合形式の掛り稽古があるようだった。

 己には無関係と決め込んでいた子太郎のまえに、ぬ、と立ちはだかる影があった。肩を怒らせた牛吾だ。

「子太郎、やるぞ」

 有無を言わせぬ口調で告げた。慌てて一歩退く。

「わ、わたしはまだそこまで稽古が進んでいない」

「進む日などずっと来んだろう。いいからやるぞ」

 素早く背中に回られ、押し出された。抗議しようと向きなおれば、牛吾はすでに構えている。

 打ち込みが肩に決まった。軽いものだったが、痛みに慣れていない子太郎は呻く。

 まだまだ、と叫んで牛吾が剣先を突き出してきた。子太郎は咄嗟に己の竹刀で受ける。乾いた音がして弾かれた。

 慌てて構えをつくる。牛吾は追撃してこない。剣先を小さく回して、威嚇するようにしている。さらには。

「何が気に入らんのか知らぬが、真面目にやれ」

 そんなことを言う。気に入らないのは何もかもだ、と言い返してやりたいが、そんな余裕はまったくない。

 小さく打ち込んでくる。それを何とか、竹刀で受け止めた。同じ軌道の攻撃を牛吾は繰り返す。前のめりのへっぴり腰ながら、それらを子太郎は必死で受け止めた。

 何度か攻撃を逸らせたことで、ようやく気が落ち着いてきた。どうやら、牛吾がわざと手加減しているのだとわかった。

 どうしてだ。気に入らないわたしを、打ちのめしたいのではないのか。

 落ち着けば、突き出された竹刀がようやく目に入るようになった。あの鍔は鼠返しにも似ているな、と思う。

 す、と己の剣先を相手の鍔に合わせてみた。む、と牛吾が低く唸る。

 牛吾が込める力に合わせて、剣先を押したり引いたりしてみる。それだけで、牛吾は先ほどのように自在には動けなくなった。

「やあ」

 牛吾が竹刀を振り上げた。押した力が外される。子太郎はつんのめる。なるほど、こうして鼠は下に落ちてゆくのか。

 頭を打たれたのか、目の前でばちんと光がはじけた。

「おい、大丈夫か」

 牛吾が駆け寄ってくる。左手を挙げて、大事ない旨を告げた。

「こうなることはわかっていただろうに。どうしてわたしを」

「……いつも素振りばかりでは、そりゃあ面白くもないだろうと思ってな」

 牛吾が腕を掴んで立ち上がらせてくれた。

「だがおまえも悪いぞ子太郎。せめてやる気を見せろ。おまえはまだ、面白くなるかどうかもわからぬ段階ではないか」

「そうだったのか」

「そうだ」

 何事にも段階はある。牛吾が訳知り顔で頷きながら語った。

「おれたちはまだそんな段階だ。だから見習いなんだ。おまえ、前の講義を面白いと思ったんだろう。これから色々やるうちに、そういうものが他にも出てくるかもしれん。そんな段階なんだ、おれたちは。今は辛さを抱えておけよ」

 そう言う牛吾は笑顔だった。

 そうだろうか。そういうものだろうか。

 鼠たちを思い返す。わたしは、身体を大きくする努力をしたろうか。陶器に傷をつける努力をしたろうか。否、押し返す丸い輪を見つけて、その下で嘆いただけだ。

 できるだろうか。己に問いかける。わからない。だが、やろうという気にはなっていた。少なくとも、今の子太郎は。

 竹刀が転がっている。そこに取り付けられた竹の鍔は、とてもとても、小さなものに見えた。



(完)


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