月下剣 野兎
宇佐木歳之助が何とか年越しを迎えられたのは、疑いもなく葉仁のおかげだった。
歳之助は市井で用心棒稼業を営んでいる貧乏浪人である。銭金にはいつも困っている。大晦日の五日ほど前に、馬車馬堂という黄表紙屋の用心棒を引き受け、ようやくになにがしかの餅代を手にした。
そこまではよかったのであるが、その翌日辺りから、どうも気分が優れなかった。
頑健なことと、多少剣の腕が立つことだけが取り柄であった。もちろん、それまでに大病を患ったこともない。そのまた翌日には何かおかしいと思い、なけなしの銭を払ってでも医者に診てもらわねば、と思い立ったときには、最早身体が満足に動かなかった。
長屋の、戸の前で倒れていた歳之助を見つけたのは、二軒隣りに住む葉仁だった。葉仁は、近くの住人と力を合わせて、大柄な歳之助を運び入れ、つきっきりで看病してくれたのだ。
正月。歳之助のもとへ湯を運んでくれた葉仁に、歳之助は頭を下げた。
「大変世話になった」
葉仁は大げさに、驚いた顔をする。そろそろ二十五に近い年頃のはずだが、表情が豊かで、三つ四つは若く見える。といえば聞こえはいいが、むしろ幼く感じられることがある、というのが歳之助の見立てであった。
「お侍様が、そのように頭をお下げになるものではありません。それに、困ったときはお互い様でしょう」
「なに、拙者など、侍といっても形だけのものよ」
「また、そのようなことを」
葉仁に睨まれ、歳之助は笑みを浮かべつつ、すまぬ、とだけ言った。
「しかし、助かった。もう、年は越えられぬと思っていたが」
「大げさです。普段、病などなさらないからですよ」
「確かに、少々取り乱した」
「でも、もう大丈夫そうですね。あと一日も寝られれば、お床をあげられましょう」
お大事に、と言い残して、葉仁は帰っていった。
いい子だ、と歳之助は思った。どこの何者ともわからぬ己に、あの娘は何くれとなく世話を焼いてくれる。そうして、歳之助は世話になりっぱなしだった。
歳之助が恩を返したような類のことをしたのは、ただの一度だけだった。
葉仁の長屋に、蛇が出たことがあった。ちょうど歳之助が用事を終えて帰ってきたとき、戸から葉仁が飛び出してきたのだ。
話を聞いた歳之助は一人、家に入った。たしかに、囲炉裏の前に大振りの蛇が一匹、這っていた。
蛇は歳之助を認めると、鎌首をもたげた。その隙に、歳之助は一刀のもと、蛇を斬って捨てた。
あとで調べたところによると、それは毒蛇であったということであった。
歳之助が葉仁を助けるようなことをしたのは、あとにも先にもあれ一度っきりであった。
まさか、あの一度を心に抱いて、ここまでしてくれているわけではあるまいが。
葉仁が自分を憎からず思ってくれている、という感じはある。葉仁はあの歳でいまだひとり身のようである。表には見せぬが、焦りもあろう。
自分がもらってやる、というのはどうだろうか、と考えぬこともなかった。生活は、まあ、何とかなるであろう。
だがそれもこれも、葉仁がどう思っているのかを確かめてからの話でしかない。
話をしてみるか。だが、断られて、長屋付き合いが疎遠になってしまっては、歳之助は困る。
どうしたものか。
そのようなことを考えつつ、いつの間にやら眠りに就いていた。
目を覚ましたのは、おそらく夜中であった。
何やら外が騒がしい。男と、そして女の怒鳴る声がし、女の声には、聞き覚えがあった。
夜着のまま、刀だけを手に外に出た。
雪が薄く降り積もっている。だが、空は澄んでいるのか、月が丸く見えていた。
ゆっくりと、声のする方へ歩みを進めた。男の方は知らないが、女は、やはり葉仁だった。
「どうした」
横手から声をかけると、二人が振り返った。
「なんだ、てめえは」
男が真っ赤な顔で、歳之助に向かって怒鳴る。
「なんだ、ではない。まわりを見ろ。皆、起き出しているではないか。こんな夜中に騒いでは、迷惑だ」
「うるせえ。この女が、金さえ返してくれりゃ、大人しく帰ってやるさ」
「正月に掛け取りとは、面妖なことじゃな」
「大晦日にも来たが、いなかったんだよ。病気の知り合いを見舞っていた、とか言いやがってな」
葉仁も叫んだ。
「嘘じゃありません! それに、そんなお金! わたしは知りません!」
「卯太郎ってのは、てめえの亭主だろうが。別れたんだろうがどうだろうが、そんなことは、こっちはどうでもいいんだよ」
歳之助にも、いきさつはだいたい飲み込めた。葉仁が一度結婚していたことには驚いたが、表には出さなかった。
男を見る。明らかに、やくざ者だった。懐には、おそらく得物を呑んでいるだろう。
「それくらいにしておけ。それならば、卯太郎という者から取り立てればよいではないか」
「うるせえ、お侍。口を出すんじゃねえよ」
歳之助は肩を鳴らした。
「どうしても帰らぬか」
察したのか、男が口をようやく閉じた。歳之助に向き直り、腰を落とす。
「だとしたら、どうするってんだ」
「その娘には、借りがあってな。幾分でも、返させてもらうとしようか」
「おもしれえ」
男が懐から匕首を抜いた。それを見て、歳之助も刀を抜き放ち、峰を返した。
男が突っ込んでくる。一刀で終わらせるつもりだった。
刀と匕首が打ち合った。男が素早く飛び退る。歳之助は、片膝をついた。
長らく臥せっていたためか。足が動かぬ。そのことに、歳之助は、今になってようやく気が付いた。
「何でえ。ふらふらじゃねえか」
笑みを張り付けたまま、男がもう一度、突っ込んでくる。
視界に、月が入った。剣を握ったままの拳を、地に押しつけた。
月に向かって、跳んだ。
宙にいる間に、上体を動かした。月明かりに、刃が一度、煌めいた。
男と歳之助は、同時に雪中に倒れ伏した。
「宇佐木さま」
葉仁が駆け寄ってくるのがわかった。泣きそうな顔をしている葉仁に向かって手を伸ばし、その身体を抱き留めた。
「大丈夫だ。斬られておらぬ。足が、動かぬだけよ」
言葉が、届いたのかどうか。月の下、葉仁の泣き顔だけが照らし出されていた。
不意に、思いも寄らぬ言葉が、口をついて出た。
「添うか。お主さえ、よければだが」
葉仁の表情が、すぐに変わった。
「わたしは町人ですよ。よろしいのですか」
歳之助は、声を上げて笑った。
「言ったであろう。拙者など、侍といっても形だけのものよ」
葉仁を抱く手に、力を込めた。月と、その中で跳ねる兎が、二人を見下ろしていた。
(完)