踊るミルク
甘ったるくて子供っぽいチョコレート、飲めたら大人の仲間入りの、苦い苦いコーヒー。同じ色に見えるのに、匂いも味も全然違うのは何でだろう。
私の目の前に置かれたおしゃれなカップから、思っていたよりも甘くて香ばしくて、美味しそうないい匂いがする。私が飲みたいとねだると、お母さんは毎回苦いよと言って飲ませてくれなかったけれど、もしかしたら大袈裟に言っていただけかもしれない。
「砂糖は?」
「いらないです」
「そう? ホットチョコレートもあったのに、苦いのが好きなんだね」
先生が首を傾げると、耳に着けたピアスが揺れてきらりと光る。私が小さい頃に持っていた、プラスチックで出来たハート型のイヤリングとは違って、小さな石がひとつ付いているだけのシンプルなデザイン。それが大人って感じがする。
昔はあのお姫様みたいなプラスチックのイヤリングが大好きだったのに、今は先生のピアスの方が素敵に見える。揺れる度に控えめにチラチラ光って、星の瞬きみたい。
「映画面白かったよ。誘ってくれてありがとう。でも字幕じゃちょっと難しかったかな。わからない表現とかあった?」
「大丈夫です。ちゃんと勉強して行ったので……」
先生は微笑んでカップに口を付ける。私も目の前のそれを両手で掴んで顔のそばに持っていく。ふわっと香る、大人の匂い。ごくりと息を呑んで、唇を尖らせて恐る恐る口に含む。
――苦い! 苦くてなんか酸っぱい!
頑張って飲み込んだけれど、渋さと苦さは口の中に残ったままだ。二口目は飲めないと思って、テーブルの上に慌ててカップを置いた。
その様子を見ていた先生がゆっくりと瞬きをする。
「……ミルク入れる?」
「う……」
「私は小学生の時にコーヒーなんて飲めなかったな。大人だね」
微笑みながら、私のカップにミルクピッチャーから白がそそがれる。チョコレート色に白が差し込まれ、ぐるぐると渦を巻く。大人だと言いながら幼さの証みたいにミルクをつがれて、何だか腹が立つ。
「ミルクいらないです!」
「そう? じゃあ私の飲みかけと交換する?」
「……そのままでいいです!」
つっけんどんにそう言うと、先生はくすくすと笑って目を細めた。
「私、こはるちゃんのそういうところ好きだよ。かわいい」
そう言って、頼んでもいないのに先生は真っ白の角砂糖を私のカップに一つ入れた。
「あ!」
「一個で良かった?」
「もう! それ以上入れないでください!」
「ふふ」
止めたのに、先生はお構いなしに二個目を入れた。
「ねえ、先生! 私砂糖もミルクも入れてなんて頼んで無いのに! ブラック飲めますよ!」
「そっか、ごめんね。じゃあやっぱり私のと交換する?」
「しないです! もう!」
先生は何だか嬉しそうに目を細めたまま、カップの中をかき混ぜた。濃い茶色からだんだん白に近い優しい色になっていく。その優しい色が、私にはまだ早いよ、と言っているよう。みるみる気持ちが沈んでいったけれど、泣いたらもっと子供っぽい気がして喉の奥でぐっと飲み込んだ。
先生は私の家庭教師だ。中学受験をする私のために英語を教えてくれていた。優しい茶色の髪の毛をふわふわくるくるさせていて、いつもニコニコ穏やかで優しい。
最初に会った時にそれが気に入らなくて、意地悪で難しい問題を出したのに、ふわっと笑ってあっさりと解いてしまった。
解けて良かった、ちょっとは信用してもらえたかな? なんて安心したように言われて、私は自分の幼さとそれを責めない先生の大人な優しさに、ガーンと頭を叩かれた気分になった。
先生は私が賢しらな振る舞いをしても、優しく笑って受けとめてくれる。生意気な子供、なんて私をあしらったりしない。
そんな先生のことが大好きだけれど、時々子供扱いにすごく悲しい気持ちになる。嬉しいのに、悲しい。優しくしてほしいのに、してほしくない。
だからムキになって勉強した。それでも先生はすごいね、よく知っているね、と私を褒める。ミルクティー色の髪をふわふわ揺らし、首を傾げて。
受験にはこの間あっさり合格した。先生は喜んでくれた。これでお別れなのに。先生は悲しくないの? と聞きたくて聞けなかった。合格のお祝いは何がいいかな? と尋ねてくれた先生に、映画に連れて行ってとお願いした。
普段より大人に見られたくて、先生みたいに髪の毛をくるくるにして、服もお姉ちゃんにお願いして大人っぽくしてもらった。お姉ちゃんも両親も、かわいいよと褒めてくれたけれど、鏡の中の自分を見てもちっとも自信を持てなかった。
私って、先生の隣に並んでもおかしく無いのかな。
先生、好きなんて言いながら、何でも無いように微笑んでコーヒーなんて飲まないで。せっかく頼んだ私のコーヒーに、分かったような顔をしてミルクも砂糖も入れないで。
入れてくれたそれを一口飲んで、美味しいって思う自分の子供っぽさが嫌になる。どうして私好みのちょうど良い甘さがわかるの? 先生、教えて。
私が黙って飲み干すのを見つめて、先生は自分のコーヒーに口を付ける。あの苦い苦いコーヒーも、先生は美味しくて仕方ないのかな。
「春から学校、楽しみだね。本当におめでとう」
「先生は春が楽しみ?」
「そうだね。冬は寒くて眠くなるから、暖かい方がいいな」
「暖かくても眠くなりますよ。春眠暁を覚えずって」
「あ、すごい漢詩もバッチリだね。孟浩然の春暁だ」
「……もう先生じゃ無いのに」
ボソリと私がそう言うと、先生はいつものように微笑む。
「こはるちゃん、何教えてもすぐに覚えてくれて教えがいあったよ。本当、こはるちゃんの先生になれてよかった」
私が欲しい答えじゃないのに、嬉しい気持ちになる自分が嫌だった。
返事をせずに黙っていると、先生は腕の時計を見て呟く。
「もうこんな時間だね。帰ろうか。お家まで送るね」
「はい……」
もう今日が終わってしまうんだ。私は名残惜しくなって、ほぼ飲み干したのに底に残った数滴のためにカップをあおった。
底に沈んでいたザラザラの砂糖が口の中に入ってきて、口の中が一気に甘ったるくなった。
お店の中は暖かったのに、外は突き刺すような冷たい風が吹いている。温度差に付いていけなくて、私はこのままここから動きたくなかった。
先生は気にせずに先を歩いていく。その後ろを、数歩遅れて付いていく。
私の足取りが重いのに気付いたのか、先生が振り返った。
通りに植えてある銀杏は葉が全て落ちていて、景色に色は無い。ミルクティーみたいに淡い先生の茶色だけが浮かんでいる。
「……どうしたの?」
「…………」
「お腹痛くなっちゃった?」
「先生、もうお別れ?」
まだ砂糖の甘ったるさが残っている。その甘さと同じくらい甘ったれた私が、子供っぽく先生に聞いてしまう。困らせてしまうのは分かってしまっても、我慢できなかった。
ねえ、先生、お願い。私が子供っぽく縋っても、それでも大人な先生でいて。
先生は口元まで覆っていたマフラーを、指で下げた。寒さで鼻がちょっと赤くなっている。
私を見つめてゆっくり瞬きをしてから、ふっと笑う。首を傾げると、キラッと星が輝いた。
「あの映画、続編が出るかな。続きが気になる引きだったね。続編が出たら、また観に行こうね」
コツリ、とヒールがレンガを叩く音がして、先生は前を向いた。
そんなの、いつになるかなんて分からないよ。続きなんて出ないかもしれないのに。
先生、ねえ、私まだ先生の生徒でいたかったな。
喉を通ったコーヒーの苦さを思い出す。口の中にまだ残っている、ザラザラの砂糖の甘さと混じって、ちょうどいいような、それでもまだ苦いような。
何も言えずに俯いて、そして一度息を吐いた。真っ白の息が一瞬周りを覆って、世界がぼやける。
置いていかないで、なんて言えなくて、私は小走りで先生を追いかけた。




