インスト
振り回された彼女との記憶は、永遠に残り続ける。今でもあの関係は何だったのだろうと不思議に思う時がある。
暗い室内で、煙が渦を巻いている。
ふ――――――という音と共に、白い煙が部屋に広がる。部屋の黒の部分が白で埋まり、やがて白は薄くなって消えていく。
トイレのドアの隙間から漏れてくる光は、フローリングの冷たい床を照らしている。
からり、とグラスの中の氷が溶けた。
赤色のリキュールが薄く透明になっている。
リコはさっきまでこの部屋にいた。
荷物はこれで最後ね、と言いながら、部屋に来る度に置いていったハードカバーの本とCDをバッグに入れて、出ていった。
彼女のいく先も分かる。今から連絡を取ろうと思えば取れる。それとは関係なしに、彼女は今、遠いところに行ってしまった。
嗚呼。
そんなものかもしれないね。
リコのいなくなった部屋は、ぽっかりと広くなった。最初はもちろん一人分のスペースしかなくて、それでも狭く感じていた。広さは変わっていないのに、さっきまでいたリコのスペースが広い。
一人分の部屋に、二人分のスペース。二人分のスペースに、一人分の空席。
本読めよ、がリコの口癖だった。
谷崎潤一郎、芥川龍之介、夏目漱石、葉山芳樹、国木田独歩、泉鏡花、森鴎外、永荷荷風、志賀直哉、
坂口安吾、大江健三郎、幸田露伴、小林秀雄、赤川次郎、中原中也、阿刀田高史、世阿弥、村上龍、太宰治、三谷幸喜、与謝野晶子、渡辺淳一、二葉亭四迷、山田詠美、吉本ばなな、小林多喜二、俵万智、北方謙三、林真理子、京極夏彦、梶井基次郎、司馬遼太郎、安部公房、町田康。リコは何でも構わずに読んでいた。
今はこれ読んでるぜ、と言いながら彼女が僕に手渡したのは、「モーツァルト」というタイトルだった。
本棚に、リコの持って帰った本の部分がぽっかり空いている。リコが持ち込んで、俺が並べる。そういったことが当たり前になってどれくらいの時間が経っていただろう。
会社をクビになった、と3回僕に言ってきた。
彼氏と別れた、と7階俺に言ってきた。
泣き尽くした顔で、俺の前に現れた。
ある日突然「鳴沢」という名前が着信音と共に表示される。
「あ、もしもし、坂木君、私、私。ねえ、ちょっと聞いてよ。今日さ、バイト先辞めてきちゃったよ、やる気ないんだもん、やったってしょーがないよね。え、今ねえ、下北にいるよ、友達と飲んで別れたところ。今から坂木君とこ行っていいでしょ、行くからね。あ、なんかおかしと飲み物買ってくわ。」
二時間後、リコは現れて、三時間ほど話しては帰っていく。
「ありがとう、すっきりしたよ。」
僕はただ椅子に座って話を聞いているだけで、リコは落ち込みが激しいときには3日でも家にいる。稲城長沼の自分の家には帰ろうとしない。親の話をリコはしたがらない。兄がいるらしいが、それも冷てえ奴でよ、と言いながら積極的に話はしない。だから僕も聞かなかった。
2時間が1日、1日が3日、3日がずっとに変わるのに時間はかからなかった。
また来るね、とか泊まっていい?と聞くこともなくなって、帰らないの?とも言わなくなった。
「もうそろそろ帰らないの?」と聞くと「どこに?」と聞き返された。まるで、私には帰るところなんてあんたと違ってないのよ、と言われているようだった。
僕にだって帰るところなんてないよ、と頭の中でそう言った。
そういう空気で満たされても、いやな感じはしない。緩やかにくゆる煙のように、俺とリコはこの部屋で漂い続けたのだと思う。
糸が絡まる様に、リコの口から出た白い煙は、僕の腕や顔に絡んできた。その煙に同化するように、僕もスーパーライトを吸うようになった。全然味なんか分からない。あんたださいねえ、と言われても僕には何のことか分からない。
公園で話したこと、遊園地に行ったけどすぐに帰ってきたこと、映画館で二人で泣いてしまったこと、
話し込んで、山手線を一周したこと。
だめねえ。
リコがそういう時、頬の筋肉は緩み、瞼は潰れるようにたれて、瞳は見えなくなってしまう。その表情を見ていると、俺は身体から余計な力が抜けていくのが分かった。ちょっとあんたがんばんなよという時もリコは同じ顔をした。その度に、何か特別なことが僕にはできるんじゃないかと思った。実際の明日は何一つ変わらない。毎週土曜日と日曜日は仕事が休みだし、そうかといってその休みにすることと言えば映画を観たり本を読んだり、その生活の中にリコが入り込んで「だめねえ」と言われることが加わった程度だ。
リコは、二日程帰らなくなったと思うと、いきなりいやあ臨時収入が入ってさ、と言いながら財布の中の6万円を覗かせたりした。どういう金なのか、聞いても絶対に応えないだろうし、何よりも彼女はそういうことを嫌がるので聞かない。今日はおごってやる、とリコが言い、八王子駅で降りて飲んだりした。だいたいそういう日は、3軒は行く。終電がなくなるから帰ろう、と言い出せず、いいから付き合って、とその時にだけしおらしくなられると僕は言うことを聞くしかない。
彼女の乱暴な言葉遣いは、聞いていて心地がよかった。
「あんたもいい加減、彼女つくったらどうよ。」
リコは期限の悪いとき、必ずそういうことを切り出してくる。
「好きな人いないっての寂しいよねえ。私なんか好きな人いすぎて仕方がないってのに。」
リコの言う事や行動は常に一致していなくて、論理上破綻している。僕もリコが好きなのかどうか分からない。好き、ではないんだと思う。
一度だけ、水色のピアスのリコにあげたことがあるが、僕の知る限りで彼女がそれをつけたことはない。
リコはプレゼントにも、お金にも反応しない。ただひねくれてありがとうと言わない、という方が全然マシで、意図したことに反応する、それに嫌気が差しているというようなところがある。
今日家に帰ってもリコはいるけど、明日はいるのかどうか分からない。でも干渉することができずに、自分から連絡を取ろうとしてはいけない、という難しいルールが僕の中にはあった。「こうしよう」と取り決めたことを守ることはどんなに楽だろう。リコが寝息をたててだ黙っているのを見て、何回も考えた。
ありがとう、うれしい!という時は何でもない時だった。一度、二人で多摩川を歩いている時に沿道に咲いている白い花を見つけて、家に持って帰るか、と何気なく言ったことがある。リコはそうしよう、と言いながらすぐに花を摘むと、今から帰ろう、と言ってマンションに帰った。その日、リコは一日中ご機嫌だった。
暗がりの中で、僕はあることにきがついた。
そういえば、写真がない。
リコと一緒に写った写真はもちろん、リコの写っている写真というものがない。彼女を思い出す時、それはいつも瞼の裏で、なのだ。あまりに近くにいすぎてよく分からなかったのだが、彼女と一緒に写った写真がないのである。
写真を撮る時はどういう時だろう、と考えてみた。どこかに旅行に行った時の記念、何気なく友達が撮ったスナップ、イベントがあった時に撮る記録、そう言えば、二人で写真を撮ってみるか、と言いながら頬を寄せてシャッターを押すということもなかった。リコがしょっちゅう部屋に来るようになったのは一年前で、それは奈緒美と別れてからのことだった。リコは、彼女、ではない。妹がいたらこういう奴なんだろうなと勝手に空想して、電話口のリコの話に耳を傾けていた。
会っている時の状況はだいたい決まっていた。するすると電話が入り、近くのドトールで三十分話したり、友達と飲んだ帰りに携帯電話が鳴り、「ちょっとこれから飲まない?」と誘ってきて、それらはすべて絶妙なタイミングだった。
「いやー坂木君と話していると楽になるね。今日なんか私一人でずっと黙っていたから空気吸ってないみたいだったね。」
リコのいなくなった今、彼女の言っていたことが少し理解できるようになってきた。
一年前に僕の部屋によく来るようになってからは、お互いに懐にある感情を出せるようになってきていたが、黙ることも増えていった。それは、お互いをよく知った上で言えないことであり、よく知らないでしょ?と言われることを恐れるあまりの沈黙だった。沈黙の圧力は何物にも代えられない巨大な力で、肩から出ているピンク色の波は俺の全身を包み、窒息させた。
芳美、康子、奈緒美とふと名前を思い出した。
「博信」、「博信君」、「ヒロさん」とそれぞれ自分のことを呼んでいた。
5年、半年、2年と付き合った。
「女はねえ、だらしない男といい加減な男がきらいなんだよ。坂木君も気をつけな。」
リコは俺の事を名前で呼んだことがない。
「結婚すっか?」
と二人で飲んでいるときに言ったことがある。
「ああ、それもいいね。」
と彼女は答えて、青りんごサワーの中ジョッキを注文した。彼女は右手に持っていた中ジョッキを一気に飲み干した。
「もう坂木君もさ。いい加減にちゃんと付き合う彼女を見つけなよ。あんた自分で自分のこときらいなんだよ。ちゃんと自分を好きになりなよ。友達としては心配だよ、あんたのこと。」リコは、手に持った350ミリリットルの発泡酒を飲みながら、体育座りの格好で俺に言った。膝には、枕を抱えている。CDの電源を入れ、再生を押す、シュウという音が鳴り、曲が鳴り出す。赤いリキュールが溶けたときのような、透明感のある歌声が流れて来た。ここ、現代日本の病理を象徴した表現だよねと言うと、あんたやっぱりばかね、と言っていた。リコくらいだよ、そういうの、と言うと「みんなあなたに優しい目を向けているってことに気がつかないと。」と少々強い語気でリコは言った。
リコは僕の事を全部知っている。僕が、全部話してきたからだ。誰とどういう付き合いをしてきたか、どういう風に彼女になっていったのか、どっちが先に好きになっていったのか、全部話している。奈緒美と別れた時のことを話すと、
「坂木君、愛に形なんてないんだよ。あんたは彼女って思うとそれしか考えなくてその人を無視している気がするね。「彼女」なんていないんだよ。今しかないんだよ。あんたはちゃんと人を見ていない。無視し続けているよ、そんな人に愛を語る資格もなし、別れたなんていう言葉も使っちゃいけないんだよ。今は全員つまらない男だよ。裏切る人しかいないよ。坂木君もそのうちの一人だよ。」
暗い部屋の中で、換気扇の回る音だけが聴こえてくる。フローリングはクーラーのおかげでで冷え切っている。冷蔵庫を開けると、350ミリリットルのビール缶が2缶あった。
ぷしゅ、という音が部屋に響く。ビールは一気に飲み干せるものだという事を、今日知った。あんた何にも知らないから、というリコの言葉とビールを同時に飲み干した。明日会う仁村さんの事はリコに言っていない。別に彼女でもないし、僕の事を友達だと言っていたのだからいいだろう、と言い聞かせて初めてリコに何も言わなかった。二日後にリコはいきなり俺の部屋に置いてあった自分のCDや本、服、歯ブラシをまとめて持って帰った。もう坂木君の家には来ないよ、とリコは言った。
「嘘ばっかりじゃん。そんなの最初の親父とおんなじだよ。あんた最悪だよ。」
彼女はそう言いながら、自分の荷物をバッグに入れて玄関を出た。優しく、強い音を出してマンションの扉は閉められた。一瞬だけ玄関の扉が開いたときに見えた月は、白かった。
2缶目のビールを飲みたくなり、冷蔵庫を開ける前に何気なくCDの再生ボタンを押した。流れて来た曲からはベースの聴いたイントロが流れて来た。音が鳴り出してから10秒くらい経つと、あんたやっぱりばかね、という言葉が僕の脳にダイレクトに再生される。換気扇の音、外から聞こえてくるトラックの騒音、隣人の帰宅の足音、透明な声、缶ビールの冷気、フローリングの冷ややかさ、全てが俺の肌に刺さり、リコの記憶を引き出す。できれば、今日というこの日が終わらずに、あの瞬間が戻ってくる気がして仕方が無い。このビールを飲み切らなければ、リコは戻ってくるかもしれない。
ベースの低音とリズムだけが正確にCDプレイヤーから鳴り続けている。曲は5曲目のインストに入っていた。コーラスだけが鮮やかに響く。ここにあの透明な声質のボーカルが入ってくる筈だ。そう思って曲を聴いていたら涙が出てきた。やがてクロックに曲が終わる秒数が残り15を表示する。リピートを押すかどうか迷った挙句、もう一度だけ最初からこの曲を聞いて眠ろうと思った。
「彼女」なんていないんだよという言葉は鮮烈だった。関係は限定されtものではなく、常に有機的だ。「僕」はリコを通して関係が有機的なものだという事を学んでいく。どんな関係だったのか、知人に説明する事さえできない。彼女の出自は気にしたことがない。ただ言えるのは、リコと出会ってから別れるまで、瞬間瞬間が煌めていたということだ。




