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房総の残日 ―里見、最後の砦―  作者: 冷やし中華はじめました


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落日の向こうへ

1.完工検査しゅんこうけんさ:撤退の朝

 七日目の朝。  空は突き抜けるように青かった。前日までの血なまぐさい攻防が嘘のような、静謐な朝。  南の空に、三筋の白い狼煙のろしが上がった。  本城である久留里城くるりじょうからの合図だ。


『準備整う。速やかに退却せよ』


 それは、この「天霧城防衛プロジェクト」の完了を告げる合図だった。  北条の大軍を七日間釘付けにし、その間に里見本隊は防衛体制を整え終えたのだ。この城の役目は終わった。


「……全工程、終了だな」


 包帯で吊った左腕を庇いながら、匠は城壁の上に立った。  痛みは引かない。熱もある。だが、不思議と頭は冴え渡っていた。  城内は、静かな熱気に包まれている。  絶望ではない。生き延びるための、秩序ある撤退準備だ。


「荷物をまとめろ! 重いものは捨てろ! 食料と水だけ持て!」 「傷病兵を優先しろ! 担架たんかの足元を確認だ!」


 権爺の声が響く。  以前のような烏合の衆ではない。彼らはテキパキと動き、女子供や怪我人を先に裏道へと誘導していた。  **「ご安全に!」**と声を掛け合いながら。  その光景を見て、匠は胸が詰まった。  自分が教えた安全意識セーフティ・マインドが、撤退戦という最も混乱しやすい局面で、彼らの命を繋いでいる。


「沢村匠」


 背後から正木時之が現れた。  彼は既に具足を脱ぎ、身軽な行軍スタイルになっていた。だが、その顔つきは武将のそれだった。


「見事だ。……正直、七日も持つとは思わなかった。貴様のおかげで、里見は救われた」 「俺一人の力じゃありません。現場の皆が優秀だったからです」


 匠は謙遜ではなく、本心で答えた。


「正木様、最後の仕上げです。『解体工事』を行いましょう」 「うむ。……本当にやるのか? この城を」 「ええ。ただ明け渡すわけにはいきません。敵に利用されないよう、そして追撃の足を物理的に止めるために、この城には**『構造的欠陥』**によって死んでもらいます」


 匠は、懐から取り出した最後の図面――ボロボロの和紙に墨で描いた「地滑り計画書」を握りつぶした。


2.崩壊の設計図:地すべりのメカニズム

 匠が仕掛けた最後の罠。  それは、城を支える斜面の、意図的な崩壊ランドスライドだ。


 数日前、水攻め対策と言って掘らせた排水路。実はあれは、特定箇所の地盤を緩めるための布石でもあった。  城の地下には、水を透しにくい粘土層(難透水層)と、透しやすい砂礫層が重なっている。その境界が「すべり面」になる。  匠は、城の上流にあるせきを切ることで、大量の水をこの「すべり面」に注ぎ込む仕掛けを作っていた。


間隙水圧かんげきすいあつを高めます」


 匠は専門用語を噛み砕かずに呟いた。  土の粒子間にある水の圧力が高まると、摩擦力が失われ、土は液体のようになる。  城の重量と、水の力が均衡を破った瞬間、山そのものが動く。


「敵が城に入り込み、勝利を確信した瞬間がスイッチです。……俺が残って、堰を切ります」


「ならん!」  時之が叫んだ。 「貴様は怪我人だ。それに、我らの恩人だ。殿しんがりは私が務める!」 「いえ、タイミングがわかるのは設計者おれだけです。地鳴りの音、土の匂い、亀裂の入り方……素人判断で早まれば無駄死にするし、遅れれば逃げ遅れる」


 匠は譲らなかった。  これは現場監督の責任だ。最後の片付けまでやって、現場は終わる。


「……わかった。だが、必ず生きて戻れ。本城で、貴様のために宴を用意して待つ」 「ええ、楽しみにしています」


 時之は固く匠の手を握り、兵たちを率いて裏山へと消えていった。


3.別れのヘルメット:安全第一の契約

 城内には、もう誰もいなくなった。  静寂。  鳥の声だけが響く。


「……匠殿」


 不意に、声がした。  匠は弾かれたように振り返った。  そこに、小夜がいた。  彼女はもう兵装ではない。動きやすい旅姿に着替えていたが、頭にはまだ、あの黄色いヘルメットを被っていた。サイズが合わないそれを、手で押さえながら。


「小夜! なぜ残っている! 早く逃げろと言っただろう!」 「嫌です。……一緒に行けますね? 里見の本領へ。そこでまた、美味しい雑炊を作って……」


 小夜の声が震えている。  彼女は気づいているのだ。匠が、もうどこへも行かないつもりだということに。  あるいは、ここではない「どこか」へ帰ろうとしていることに。


 匠は小夜に歩み寄り、その肩を掴んだ。  小さな肩だ。こんな細い体で、戦国の世を生き抜いてきたのか。


「小夜。俺は行けない」 「なぜですか! 怪我なら、私が肩を貸します! おんぶだってします!」 「違うんだ」


 匠は首を振った。


「俺の家は、ここにはない。……俺は、遠い未来から来たんだ」


 突拍子もない告白。  だが、小夜は驚かなかった。静かに、大きな瞳で匠を見つめ返した。


「……知っていました」 「え?」 「貴方の目は、最初から遠くを見ていました。ここではない、どこか遠くを。……それに、貴方の手は、人を殺す手ではありません。何かを守り、作る手です」


 小夜の手が、匠の頬に触れた。温かい。泥と血の匂いではない、日向のような匂い。   「連れて行っては、くれないのですか」 「……無理だ。俺にも戻れるかわからない。それに、お前にはここで生きる道がある。正木様なら、きっとお前たちを守ってくれる」


 匠は、小夜の頭に乗っているヘルメットに手を添えた。


「そのヘルメット、やるよ」 「え……」 「俺の国の守り神だ。それがあれば、どんな岩が落ちてきても大丈夫だ。……だから、生きろ」


 小夜は唇を噛み締め、溢れそうになる涙を堪えた。  ここで泣いて足を引っ張れば、匠の決意を鈍らせる。彼女もまた、この七日間で「現場の一員」として強くなっていた。


「……約束、しましたね。安全第一だと」 「ああ。約束だ」 「わかりました。……行きます」


 小夜は一歩下がると、深々と頭を下げた。  そして、顔を上げると、今までで一番の笑顔を見せた。涙でぐしゃぐしゃになりながらも、太陽のように輝く笑顔を。


「さようなら、私の現場監督かんとく!」


 小夜はきびすを返し、駆け出した。一度も振り返らずに。  その背中が見えなくなるまで、匠は見送った。


「……ああ。さよならだ、小夜」


 胸に穴が空いたようだった。  だが、感傷に浸る時間はない。  地面が微かに震え始めていた。  北条軍が、城門を突破したのだ。


4.時空の崩落:現場閉所

 正午。  もぬけの殻となった天霧城に、北条の軍勢二万が雪崩れ込んだ。


「敵はいないぞ!」 「逃げたか! 卑怯者め!」 「城を占拠しろ! 勝鬨かちどきを上げろ!」


 曲輪という曲輪に、北条の兵が充満する。勝利の美酒に酔いしれる彼らは気づかない。自分たちが乗っている地面が、巨大な流動化現象の前触れで軋んでいることに。


 匠は、城の最深部、水源地にある水門の前に立っていた。  手には大槌ハンマー。  足元の岩盤が、ミシミシと悲鳴を上げている。


「聞こえるか……山が泣いてるぞ」


 匠は深呼吸をした。  左腕の痛みはもう感じない。  目の前にあるのは、ただ一つの「作業」だけ。


「全工期、終了ッ!」


 匠は咆哮し、杭に向かって大槌を振り下ろした。    ガァァァン!


 留め金が飛び、堰が切れた。  ドォォォォ!  溜め込まれていた数千トンの水が、濁流となって地下の「すべり面」へと奔流する。


 数分後。  異変は起きた。


 ズズズ……という地鳴りが、やがて天地をひっくり返すような轟音へと変わる。  グラリ、と世界が傾いた。  地震ではない。山が、動いたのだ。


「うわあああッ!?」 「山が! 山が崩れるぞ!」 「逃げろ! いや、地面が動いて――」


 天霧城の主要部が、北条兵一万以上を飲み込んだまま、ゆっくりと、しかし抗いようのない質量で、谷底へと滑り落ちていく。  土煙が空を覆い隠す。


 匠は、崩落の起点となる岩場に残っていた。  計算上、ここは崩れ残るはずの場所だ。  崩れ落ちていく城と、敵兵の阿鼻叫喚を、特等席で見下ろす。


「……ざまあみろ。これが物理どぼくの力だ」


 だが。  想定外の事態が起きた。  崩落の衝撃があまりに大きすぎたのだ。  匠の足元の岩盤に、ピキリ、と亀裂が入った。


「――しまっ」


 身体が宙に浮く。  足場が崩れ、匠の体は奈落へと吸い込まれていった。


 落下する視界の中で、泥と瓦礫がスローモーションのように舞う。  その光景は、一週間前のあの事故――トンネル崩落の瞬間と完全に重なった。    走馬灯のように、この七日間の記憶が駆け巡る。  泥臭い飯の味。  「ご安全に」と笑う権爺の顔。  正木時之の武人としての背中。  そして、ヘルメットを被った小夜の、涙混じりの笑顔。


(俺は、何かを残せたか……?) (あいつらは、生き延びられるか……?)


 意識が暗転する直前。  匠は見た。  崩れ落ちる土砂の向こう、雨上がりの空に、鮮やかな虹がかかっているのを。  それは、四百年前と四百年後を繋ぐ、架け橋のように見えた。


5.四百三十五年後の孤独:白い天井

 ピッ、ピッ、ピッ。  電子音が聞こえる。  無機質で、規則的なリズム。


「……さん、沢村さん! 聞こえますか!」


 目を開けると、白い天井があった。  LED照明の眩しさ。消毒液の鼻を突く匂い。  そこは泥と鉄の戦場ではなかった。空調の効いた、清潔な病室だった。


「先生! 意識が戻りました!」


 医者や看護師が駆け寄ってくる。  匠は酸素マスクを外そうとして、激痛に顔を歪めた。  全身が痛い。だが、動く。


「奇跡的ですよ! トンネル崩落から三日も埋もれていたのに! エアポケットに入っていたのが幸いしましたね」


 医者が興奮気味に説明する。  三日。  向こうでは七日間だった。時間の流れが違うのか。


 匠は震える手で、自分の左腕を見た。  包帯が巻かれている。   「左腕の骨折と打撲が酷いですが、神経は無事です」


 火縄銃の傷跡(ガンショット・ウ Wound)を探した。  ……ない。  あるのは、岩にぶつけたような打撲と擦過傷だけだ。


「夢……だったのか?」


 退院後、匠は職場に復帰した。  日常は何も変わらず続いていた。  トンネル工事は再開され、事故調査委員会が入り、匠は報告書の作成に追われた。  スマホに残っていたはずの「竹筋土壁」の写真は、ただの崩落現場の瓦礫の写真になっていた。小夜を撮ったはずのデータもない。


 やはり、酸素欠乏による幻覚だったのか。  脳が見せた、都合の良い夢。  自分がヒーローになり、誰かを救うという願望の投影。


 その事実は、匠の心を深く抉った。  喪失感だけがリアルだった。  コンビニの弁当を食べても味がしない。ふとした瞬間に、あの泥臭い雑炊の味を思い出してしまう。  満員電車の中で、ふと隣の人の顔を見て、権爺や小夜の面影を探してしまう。


(会いたい……)


 もう二度と会えない。  四百三十五年の時が、残酷に横たわっている。


6.エピローグ:歴史の隙間に咲く花

 半年後。  匠は、有給休暇を取って千葉の山中にいた。  史実において、天霧城があったとされる場所だ。  そこは今、リゾート開発のためのゴルフ場の造成地となっていた。


「ここか……」


 ブルドーザーによって削られた赤土の断面を見る。  来る前に、図書館で郷土史を調べた。  だが、「天霧城」に関する記述はわずかだった。  『天正年間の戦乱により落城。地滑りにより崩壊したと伝わる』  それだけだ。  正木時之がその後どうなったのか、小夜たちが生き延びたのか、何も書かれていなかった。


(やっぱり、夢だったんだな)


 俺は誰も救えなかったし、そもそも彼らは存在しなかったのかもしれない。  匠は苦笑し、踵を返そうとした。


 その時だった。


「おい、また出たぞ。変な地層が」 「なんだこりゃ。竹か? 炭化してるが、妙に規則正しく並んでやがる」


 造成工事の作業員たちの声が聞こえた。  匠の心臓が早鐘を打った。  全身の血液が逆流するような感覚。  立ち入り禁止のトラロープをくぐり、駆け寄る。


「見せてください!」 「あ? なんだあんた、部外者は――」 「いいから見せろッ!」


 現場監督の怒号。作業員がたじろぐ。  匠はその地層を凝視した。  赤土の中に、炭化した竹が、井桁状に幾層にも重なって埋まっている。  自然にこうなることはあり得ない。  現代の技術でもない。  それは間違いなく、**「竹筋土壁テールアルメ」**の跡だった。


「ある……あったんだ……!」


 夢じゃなかった。  あの日々も、あの戦いも、すべて現実だった。   「まだ何かあるぞ」


 作業員が、土壁の下から何かを掘り出した。  錆びついた鉄片ではない。  石だ。  人の頭ほどの大きさの、自然石。  だが、その表面には、明らかに人の手で彫られた文字があった。


 風化して読みづらい。苔生している。  だが、匠には読めた。  泥だらけの手で、石の表面を拭う。  指先が震える。涙で視界が滲む。


 そこに刻まれていたのは、経文でも、武功の記録でもなかった。  稚拙だが、力強い文字で、こう彫られていた。


『 安 全 第 一 』


 その四文字を見た瞬間、匠の目から涙が溢れ出した。  止まらなかった。  大の男が、工事現場の真ん中で、膝をついて子供のように声を上げて泣いた。


 彼らは生きていたのだ。  地滑りを生き延び、戦乱を生き抜き、そしてその後の人生を全うしたのだ。  この石を刻む余裕があるほどに、平和な日々を手に入れたのだ。  小夜も、きっと。


(伝わったんだ……俺の想いは、全部)


 安全第一。  この言葉は、単なるスローガンではない。  「命を大切にしろ」「生きて帰れ」という、匠から彼らへの、そして彼らから子孫への、愛のメッセージだった。


「……馬鹿野郎。こんなもの残しやがって」


 匠は泣き笑いのような顔で、空を見上げた。  四百年前と同じ、青く澄んだ空だった。  もう二度と会えない。声を聞くことも、触れることもできない。  その事実は変わらない。胸の痛みは消えない。  だが、喪失感はもうなかった。あるのは、温かな充足感だけだ。


 匠は涙を拭い、スーツの襟を正した。  そして、持っていた現代のヘルメットの顎紐を、カチリと締めた。


「よし」


 彼らが命を繋いでくれたこの世界で、俺も生きなければならない。  彼らに恥じない「現場」を作るために。


 匠は歩き出した。  風が吹いた。  木々のざわめきが、遠いあの日々の喝采のように、そして小夜の「さようなら」の声のように、いつまでも耳に残っていた。

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