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房総の残日 ―里見、最後の砦―  作者: 冷やし中華はじめました


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嵐の前の静寂

1.見えざる敵との戦い:TBMツールボックスミーティング

 戦いに勝利した翌朝。  勝利の余韻に浸る間もなく、沢村匠は城内を歩き回っていた。その顔は、北条軍が攻めてきた時以上に険しかった。


「……臭う」


 匠は手鼻を覆いながら、第二曲輪くるわの隅にある兵たちの「溜まり場」を見て顔をしかめた。  そこは、怪我をした兵や、休憩中の農民兵たちが雑魚寝をしている場所だ。  だが、その環境は劣悪の一言に尽きた。  排泄物の強烈なアンモニア臭。腐った食べ残しの酸っぱい臭い。そして、傷口が化膿した甘ったるい腐敗臭。これらが混然一体となり、鼻腔を突き刺す。


 さらに最悪な光景が目に入った。  一人の兵が、曲輪の端で用を足し、そのすぐ数メートル下流にある水場で、別の兵が飯炊き用の水を汲んでいるのだ。


「馬鹿野郎ッ!!」


 匠の怒号が響いた。  水を汲んでいた兵が、驚いて桶を取り落とす。


「な、なんだ!?」 「その水を飲むな! 捨てろ!」


 匠は駆け寄り、桶を蹴り倒した。バシャッ、と水が地面に吸い込まれていく。


「何をするんだ! せっかく汲んだのに!」 「命拾いしたな。それを飲んでいたら、お前たちは戦う前に死んでいたぞ」


 騒ぎを聞きつけて、正木時之が館から出てきた。   「騒々しいぞ、沢村。兵の士気に関わる。水くらいまた汲めばよかろう」 「正木様。……直ちに命令を出してください。この城での排泄、および水の使用ルールを抜本的に変えます」


 匠は時之に詰め寄った。その目は血走っている。  時之は呆れ顔で溜息をついた。


「異人よ、今は戦の最中だぞ。臭いくらい我慢せよ。武士は糞尿にまみれて死ぬのも誉れよ」 「誉れで腹は膨れませんし、病気は治りません!」


 匠は断言した。  現場監督として、彼は知っている。不衛生な現場は事故を招く。ましてや、閉鎖空間である篭城戦において、感染症パンデミックは敵の鉄砲よりも恐ろしい大量殺戮兵器だ。  赤痢、チフス、コレラ。  歴史上の包囲戦で、戦闘による死者よりも、疫病による死者の方が多かった例は枚挙にいとまがない。


「これは『毒』です。目に見えないほど小さな虫が、排泄物から水に混ざり、それを飲んだ人間の腹の中で増殖して、内臓を溶かすんです」


 匠はあえて「細菌」や「ウイルス」という言葉を使わず、「小さな虫」と表現した。  時之の顔色が変わった。「毒」「腹の中の虫」という言葉は、戦国の人間にもリアリティを持って響く。


「……毒、だと? 北条が毒を流したのか?」 「いいえ、自分たちで毒を作っているんです。……いいですか、俺の国では、衛生管理ハイジーンは戦術の基本中の基本です」


 匠の剣幕に押され、時之は渋々了承した。  匠はすぐに、城内の全人員を集め、**「5S活動(整理・整頓・清掃・清潔・躾)」**の徹底を宣言した。


①ゾーニング(区分け)の徹底  まず、城内を「清潔区域グリーンゾーン」と「汚染区域レッドゾーン」に分けた。  水源の上流を清潔区域とし、排泄場所トイレは水源から最も遠い風下の崖っぷちに移動させた。深く穴を掘り、使用後は必ず灰と土を被せることを義務付けた。


②煮沸消毒の義務化 「生水は絶対に飲むな! 必ず一度沸騰させろ!」  飲み水は、大きな釜で一度沸騰させ、湯冷ましにしたものだけを配給制にした。燃料の薪は貴重だが、兵士が腹を下して動けなくなる損失ロスに比べれば安いものだ。


③手指消毒とハエ対策  用を足した後や食事の前には、用意した桶の水で手を洗わせる。  また、食べ残しや汚物は即座に土に埋めさせ、媒介者であるハエの発生源を絶った。


「面倒くさいのう……」 「小便くらい、そこらでさせろよ」


 古参兵たちからは不満の声が上がったが、匠は譲らなかった。  違反した者は「食事抜き」という罰則を設けた。食い物の恨みは恐ろしいが、食い物のための規律は守られる。


 そして、その日の夕食。  配られた雑炊を見て、兵たちがざわめいた。  いつもの、米粒が泳いでいるだけの水っぽい雑炊ではない。  とろみがあり、豊かな香りが立ち上っている。


「……なんだこれは? 草か?」


 中に入っているのは、野草だ。ハコベ、ノビル、ヨモギ。  匠が「植生調査」と称して山を歩き回り、食用可能な野草を採取させ、下処理(あく抜き)をさせたものだ。さらに、城の備蓄庫の奥で眠っていた味噌を使い、塩分濃度を調整した。


「食ってみろ。毒じゃない」


 匠に促され、恐る恐る口にした兵が、目を見開いた。


「う、うまい……!」 「塩気もちょうどいいぞ。体が温まる」


 極限状態の人間には、カロリーだけでなく、ミネラルとビタミンが必要だ。  特に塩分と温かい汁物は、疲弊した精神を回復させる特効薬になる。   「あの異人の言うことを聞いていれば、飯がうまくなるし、腹も壊さない」 「魔法使いではなく、薬師くすし様かもしれん」


 その単純な事実は、匠への信頼を強固にするのに十分だった。  城内の空気が変わった。  ただ死を待つだけの場所から、「生活する場所」へと、意識がシフトし始めたのだ。


2.月下の告白:安全帯のない心

 その夜。  匠は修復を終えた第三曲輪の土塁に腰掛け、ぼんやりと夜空を見上げていた。  周りでは、見張りの兵たちが交代で仮眠をとっている。焚き火の爆ぜる音と、虫の声だけが響く静寂の時間。


(……スマホの充電、あと12%か)


 ポケットの中の文明の利器を撫でる。  圏外の画面には、日付が表示されている。  元の世界では、もう俺の葬式は終わっただろうか。  独身で、親も早くに亡くしている。悲しむのは会社の同僚くらいか。いや、彼らも「後任の現場代理人は誰だ」「工程の遅れはどうする」と、仕事の処理に追われているかもしれない。


「……虚しいな」


 自分がいなくなっても、世界は何も変わらず回っていく。  その事実が、古傷のように疼いた。


「眠れませんか」


 背後から声をかけられた。  振り返ると、小夜が立っていた。  昼間の煤けた作業着ではなく、少しだけ整えた着物を着ている。手には竹筒を持っていた。


「ああ。……小夜こそ、休まなくていいのか?」 「興奮して眠れないのです。昨日の戦、あんなにあっさりと敵を追い返すなんて。それに、今日の雑炊……久しぶりに、美味しいものを食べました」


 小夜は匠の隣に、少し距離を置いて座った。  竹筒を差し出す。「湯冷ましです」と言って。


「ありがとう」  一口飲む。カルキ臭のしない、まろやかな水の味。


「匠様の国は、どのような所なのですか? やはり、毎日戦があるのですか?」


 純粋な問いかけに、匠は苦笑した。


「いや、戦はないよ。少なくとも、俺の住んでいる場所では刀を持って殺し合うことはない」 「では、皆何をしているのです?」 「働いているよ。朝起きて、満員電車……ああ、鉄の箱に詰め込まれて仕事場に行って、日が暮れるまで働いて、コンビニ……商店で酒を買って、飲んで寝る。そんな毎日だ」 「幸せ、ですね。命の心配をしなくてよいなんて」


 小夜の言葉に、匠は言葉を詰まらせた。  幸せ、か。  過労死ラインを超えて働き、心を病んで辞めていく同僚たち。数字と納期に追われ、何のために作っているのかもわからなくなる虚無感。  あれは、本当に幸せだったのか。


「……どうかな。向こうには向こうの地獄がある。誰も殺しに来ない代わりに、自分で自分を殺すような世界だ」 「自分で、自分を……?」 「ああ。でも、ここよりはマシか。少なくとも、明日の朝、首が飛んでいる心配はない」


 匠は遠くを見つめた。  北の山にある北条軍の篝火が、不気味に揺れている。


「小夜。どうして男の格好をしてまで戦う? 逃げようと思えば逃げられるだろう。女なら、尼寺に駆け込むとか……」


 小夜は俯いた。月明かりが、彼女の白く華奢な首筋を照らす。


「父は、国府台こうのだいの戦いで死にました。北条に殺されたのです」    静かな声だった。


「母も、妹も、乱取り(略奪)で連れ去られました。小田原へ売られたと聞きました。……私には、もう帰る場所も、守ってくれる人もいません」 「……そうか」 「だから、私は決めたのです。里見の地を守るために死ぬと。ここで逃げれば、私はただの無力な女に戻ってしまう。父の無念も晴らせない」


 彼女の拳が震えていた。  小さな体に背負った、あまりに重い宿命。復讐と、生存への渇望。  現代の日本で、「生きる意味が見つからない」と嘆いていた自分が恥ずかしくなるほど、彼女の生は鮮烈だった。


「……死ぬなよ」 「え?」 「俺の仕事は、現場の全員を生きて家に帰すことだ。家がないなら、新しい家ができるまで生きろ。俺がこの城を守る。だから、お前も生きることを諦めるな」


 匠は自分のヘルメット(転移時に被っていた愛用の黄色いヘルメット)を膝から取り上げ、小夜の頭にふわりと乗せた。  ゴト、という軽い音。  サイズが大きくて、彼女の視界が半分隠れる。


「あ……」 「貸してやる。俺の国の『安全守り』だ」


 小夜が慌ててヘルメットを持ち上げると、そこには匠の不器用な笑顔があった。  月明かりの下、泥だらけの中年男の笑顔。  だが、今の小夜には、どんな貴公子よりも頼もしく見えた。


「安全第一だ。いいな?」 「……はい。安全、第一」


 小夜はヘルメットの顎紐をぎゅっと握りしめた。  その頬が、夜目にもわかるほど赤く染まっていたことを、鈍感な匠だけが気づいていなかった。


3.地を覆う黒雲:二万の絶望

 翌日の正午。  ついに「それ」は現れた。    最初は、地響きだった。  遠雷のような低い音が、大気を震わせる。  次に見えたのは、土煙だ。北の街道の彼方から、巨大な竜のように舞い上がる砂塵。


 そして、黒い波が山を飲み込んだ。


「……なんて数だ」


 物見櫓からスマホのカメラ(最大ズーム)で敵陣を覗いた匠は、背筋が凍る思いだった。  街道を埋め尽くす、人と馬の波。  陽光を反射して煌めく無数の槍の穂先は、さながら金属の海のようだ。  北条氏直うじなお率いる本隊。その数、およそ二万。  先日の五百とは桁が違う。物理的な質量の差。  山々の緑を塗り潰すように、北条の「三つうろこ」の旗指物がはためく。


 敵陣から、一騎の使者が進み出てきた。  金色の鎧を着た武者が、城門の前、矢の届かないギリギリの位置で馬を止める。  そして、腹の底から出るような大音声で叫んだ。


『天霧城の将兵に告ぐ! 我らは関東管領・北条左京大夫氏直である!』 『我が軍は慈悲深い! 日没までに開城し、降伏すれば命は助ける! 武具を捨てて出てこい!』 『だが、抵抗すれば一人残らず撫で斬りとする! 女子供とて容赦はせぬ! 城を焼き払い、草木一本残さぬ焦土とするぞ!』


 強烈な心理的圧力プレッシャー。  「撫で斬り」。その言葉の持つリアリティに、城内の兵たちの顔から血の気が引いていく。  昨日の勝利の熱気など、巨大な氷塊を前にした蝋燭の火のように、一瞬で消え失せた。


「開城だと……? ふざけるな」


 正木時之が怒りに震え、床几を蹴り飛ばした。  だが、兵たちの中には動揺が走っていた。  視線が泳ぐ者。震える手で槍を握り直す者。「助かるなら……」という囁きが、伝染病のように広がり始める。


「匠、どうする。このままでは戦う前に士気が崩壊する」


 時之が縋るように匠を見た。  匠は脳をフル回転させた。  敵は、すぐには攻めてこない。なぜなら「楽に勝ちたい」からだ。圧倒的戦力差を見せつけ、恐怖で降伏させるのが最良の手だと知っている。兵を損耗させずに城を奪えるなら、それに越したことはない。    なら、その「合理性」を逆手バグに取るしかない。   「正木様。……今、この城に必要なのは『希望』じゃありません」 「では何だ?」 「『恐怖』です。敵に対する、得体の知れない恐怖です」


 匠はニヤリと笑った。  それは、入札競争でライバル会社を出し抜くために策を巡らせる時の、悪徳ゼネコン社員の顔だった。


「ハッタリをかましましょう。こちらの戦力を誤認させるんです」


「正木様、城中の『音が出るもの』を集めてください。鍋、釜、太鼓、銅鑼ドラ、何でもいい。それと、枯れ木と油をありったけ」 「何をする気だ?」 「『夜間突貫工事』です。……北条に、現代のエンターテインメント(悪夢)を見せてやりましょう」


4.虚仮威こけおどしの狂宴:音響工学の応用

 その夜。  北条軍の陣営は静まり返っていた。  明日の総攻撃を前に、兵たちは休息を取っている。圧倒的戦力差ゆえの油断。城内は静まり返っており、逃亡兵が出るのを待っている状態だ。


 だが、深夜二時。  丑三つ時。  突如、天霧城の方角から、この世のものとは思えない音が響き渡った。


 ――グォォォォォォン……!  ――キィィィィン! ガシャァァァン!


 金属を擦り合わせるような高音。地底から響くような重低音。   「な、なんだ!? 夜襲か!?」


 北条の兵たちが飛び起きる。  だが、城から兵が出てくる様子はない。  代わりに起きたのは、光の乱舞だった。  城の背後の山々に、一つ、また一つと、無数の篝火かがりびが点火されていく。  その数、百、二百、五百……!


「報告します! 城の背後に、新たな軍勢の気配! その数、数千とも!」


 斥候が青ざめて報告に走る。  北条の本陣は騒然となった。  里見の援軍か? だが、そんな情報はなかったはずだ。


 もちろん、それは匠の仕掛けたトリックだった。  背後の山に積んでおいた枯れ木に、時間差で火がつくように導火線(油を染み込ませた縄)を這わせておいただけだ。  そして、あの不気味な轟音。  その正体は、**「音響増幅装置」**だ。


 城内の古井戸。その深さと空洞を、匠は巨大な共鳴箱スピーカーとして利用した。  井戸の底に向けて、兵士たちが一斉に銅鑼や鍋を打ち鳴らす。さらに、竹で作った巨大な笛を吹き鳴らす。  その音は井戸の壁面で反響し、増幅され、特定の周波数となって地上へ噴出する。  さらに、城壁に設置した竹筒の束(メガホンの原理)を通して、音を北条軍の方向へ指向性を持たせて放ったのだ。


 現代の音響工学の応用。  人の声でも、楽器でもない。自然界には存在しない、歪んだ不協和音。  闇が深く、妖怪や怨霊の実在が信じられていた戦国時代において、その「正体不明の音」は、原初的な恐怖を呼び起こす。


 極めつけは、視覚効果ビジュアルエフェクトだ。  匠は、三十人の兵に命じて、城壁の上で大きな布を操らせていた。  篝火の前で、布を不規則に動かす。  霧のスクリーンに、巨大な人型の影が投影される。


 ゆらり、ゆらり。  城の倍ほどの大きさがある巨人の影が、霧の中で踊る。


「ば、化け物だ……」 「里見は妖術を使うぞ! ダイダラボッチを召喚したのだ!」


 北条兵の間に、パニックが伝染していく。  恐怖は理性を食いつぶす。  「攻めれば勝てる」という確信が、「攻めたら呪われるかもしれない」という疑念に変わる。


「よし、かかった」


 城壁の裏で、匠はニヤリと笑った。耳栓をしているので、自分たちの出す音は聞こえない。  北条の指揮官が優秀であればあるほど、この「わけのわからない状況」を警戒して攻撃を遅らせるはずだ。  伏兵がいるのではないか。罠があるのではないか。そうやって疑心暗鬼になればなるほど、時間は稼げる。


「正木様、成功です。敵の足が止まった」 「……お主、本当に性格が悪いな」


 隣にいた正木時之が、呆れと感嘆の入り混じった顔で言った。


「戦とは、槍と刀でするものだと思っていたが……まさか、鍋と布で数万の兵を怯えさせるとは」 「現場監督は、あるもので何とかするのが仕事ですから」


 匠は工具ポーチを握りしめた。  手のひらは汗でびっしょりだった。  これは綱渡りだ。夜が明けて、タネが割れれば、敵の怒りは倍増して襲いかかってくる。


「これで一日、稼げました。……ですが、明日は、本当の地獄になりますよ」


 東の空が白み始めていた。  「夜間工事」の終わり。そして、本当の決戦の始まり。


 残り、五日。  北条の猛攻が、物理的な牙を剥こうとしていた。

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