残された帳簿
朝になっても、港はあまり騒がなかった。
青の塔が部分的に崩れたという知らせは広まっていたが、人々にとってそれは「古い倉庫がとうとう駄目になった」程度の出来事でしかなかった。
この町の人たちは、表に出ないことには慣れている。
夜の間に済まされたことは、夜のこととして流しておく。
それが長く続いた港町の呼吸だった。
アステルは店の前を掃きながら、そのことをむしろありがたく思った。
大騒ぎになれば、それは「時間がいじられていた」という事実に誰かが気づくということだ。
それはまだ、この町には重すぎる。
港の鐘が揃って鳴るようになった今は、なおさら。
カン、カン、カン。
正しい順番。
それを聞くたびに、胸の奥に痼りのようにあった不安が、ほんの少しずつほどけていく。
「おはよう、アステルさん」
いつもの老婦人が通りかかった。
「塔が崩れたって噂になってるけど、あなたのところは大丈夫だったのねえ」
「ええ、店は高台にありますから。ここまで火は来ません」
「よかったわ。あそこがなくなったら、わたしの誕生日の花束が困るもの」
アステルは、笑った。
ああ、こういう時のために花をやっている──そう思えた。
時間をいくら整えたところで、人の生活がなければ意味がない。
人が毎日来て、同じようなことを言い、同じ時間に花を受け取る。
それが続くからこそ、港が港でいられる。
老婦人を見送って店に戻ろうとしたとき。
坂の下から、見覚えのある背中が上ってくるのが見えた。
イレーネの兄だった。
昨日、あの瓦礫の中で分かれたはずの男。
だが今の彼は、昨日よりもずっと「この町の時間」に馴染んでいた。
顔つきが、戻ってきている。
「開いてるか」
「開いてます」
「花を買いに来た」
「それはいい傾向です」
二人で笑ってから、男は少しだけ表情を引き締めた。
「それと……預かったものを返しに来た」
彼はコートの内側から、分厚い帳簿を取り出した。
古い革表紙。ところどころ焦げた跡。
アステルはそれを見た瞬間、眉を寄せた。
「どこで」
「港の役所に“行きかけた”けど、やめた。
あそこに渡したら、半分は闇のまま封じられる。
だから、お前に渡す」
帳簿の表紙には、こう書かれていた。
「CROM TRADE 裏帳 13-27」
「……残ってたのね」
「全部じゃない。おそらく、ほんとうに消したかった取引は丸ごと燃やしてる。
これは“燃やし損ねた時間”だ」
アステルは帳簿を開いた。
手書きの記録が並んでいる。
日付、場所、品目、仲介者。
そして、見覚えのある名前がいくつもあった。
「……イレーネ」
「載ってるか?」
「ええ。しかも2回。
一度は“港倉庫・搬入・正規”。
もう一度は“同時刻・地下・時間石運搬”。」
男は歯を食いしばった。
「やっぱり、二重に動かされてたのか……」
「そう。あなたの妹さんは“同じ日に二回働いたことにされている”。
でも実際は、一度しか動いてない。
つまり、ここにある片方の時間は“作られた時間”よ」
アステルはもう一度読み返した。
彼女の名も書かれている。
“アステライト搬出確認”“アステライト経由・品質保証”。
しかし、その日付のいくつかは──
「……ない日付だわ」
「ない?」
「ええ、ない。
わたしがあなたの妹さんと会ったかもしれない夜の直後に、
“2日前のアステライト”が書かれてる。
わたしはその日、ここにいなかった。
それでも、わたしが動いたことになってる」
男は深く息を吐いた。
「つまりまだ……全部終わってはいないってことか」
「ええ。塔の中枢は壊した。港の鐘も戻った。
でも、“帳簿の中の時間”はまだ生きてる。
時間を壊すより、記録を壊すほうがむずかしいのよ」
アステルは帳簿の紙を指でなぞった。
にじみかけたインクが、指先にうっすらと付く。
写したばかりのような鮮度。
つまり、誰かが今朝また書き足している。
「書き手が、まだいる」
「……クロム商会はもう動けないはずだろう?」
「“クロム商会”としてはね。
でも、“クロムの帳簿を書く役”は別。
あの組織は、名前より先に記録が残るタイプよ。
帳簿を書ける人間が残っているかぎり、かたちを変えて続く」
男は黙った。
それはつまり、妹のように“記録のために働かされた人間”が、
まだどこかにいるということだ。
「……俺は、これ以上どこまで入っていいんだろうな」
「あなたは、ここまでです」
「やっぱりそうか」
「時間に近づきすぎると、普通の暮らしに戻れなくなる。
あなたは戻れる位置にいる。戻るべき」
「お前は?」
「わたしはもう、戻ってませんよ。ずっと前から。
だから最後まで見る」
静かな時間が流れた。
店の外では子どもが走り、
向かいの古書店がシャッターを開ける音がした。
街は何も知らないまま昼になろうとしている。
「……一個だけ、聞いていいか」
「どうぞ」
「お前はさ。
もし、ほんとうに“その日”をやり直せるってなったら、やり直したか?」
「“師匠が死んだ夜”を?」
「そう。
お前が何度も戻ったあの夜を。
戻って、助けられるなら、助けたか」
アステルは少しだけ考えた。
それはこの一年、何度も考えてきた問いだった。
ほんとうの答えを、誰に言ったこともない問い。
「……助けるつもりで、戻ったことはあるかもしれない」
「あるかもしれない?」
「記憶が、全部は繋がってないの。
何度も近い夜を見たから。
でも、わたしが今ここにいるってことは──
“助けないって決めたわたし”が最終的に勝ったってこと」
「どうして助けないんだ」
「誰かひとりを助けるために、
港じゅうの“今”をずらすのは嫌だったから。
その夜に花を買った人、子どもが生まれた人、
あなたの妹さんに手を振った人。
そういう人たちを、消したくなかった」
男は目を閉じた。
「……きつい選び方だな」
「でも、花屋としては正しい選び方」
アステルは帳簿を閉じ、
棚のいちばん上、普段は誰も触らない場所に置いた。
「これは残します。
でも、鍵をかけて。
ここに書かれた人たちが“いた”って証拠です」
男はうなずき、店を出ていった。
その背中はもう、あの夜の倉庫で見た“迷子になった時間”ではなかった。
現実の朝の光の中に、ちゃんと溶けていた。
アステルはドアを閉めた。
そのとき、奥のほうで小さな音がした。
人の気配。
だが、客が入った鈴は鳴っていない。
(……来たわね)
奥の暗がりから、細い影が現れた。
まだ十代前半くらいの少女。
髪を短く切り、瞳は黒曜石のように深い。
どこかで見覚えがあった。
そうだ。
帳簿に載っていた名前のひとつに、
この顔に似た人物の記述があった。
「あなたが……アステライト?」
「ええ。今は花屋でもあるけれど」
「帳簿を書いてた人が言ってた。
“本物に会ったら、渡せ”って。
“本物にしか渡せない”って」
少女は胸元から、小さな封筒を出した。
古びているが、開けられた形跡はない。
封蝋には、エルドの工房で使っていたのとよく似た刻印──
小さな星の紋。
「……どこでこれを」
「前の人から。
クロムの人たちが、“時間を動かす前”に置いていったの」
「前の人?」
「わたしの前に、“あなたの名前で仕事してた人”がいた。
その人が、これを渡せって」
アステルの背筋に、冷たいものが走った。
(やっぱり……“わたしを名乗る時間”が、まだどこかにいる)
封を開ける。
中には、一枚の紙と、小さな青い石。
紙には短くこう書いてあった。
「これはまだ終わらない。
あなたが“壊すほう”を選んだなら、
わたしは“残すほう”を選ぶ。
どちらかだけでは、時間は立たない。
──もう一人のアステルより」
アステルは、そっと息を吐いた。
港の鐘が、また鳴った。
今度は揃っている。
けれど──
胸の奥で、別のリズムが鳴り始めていた。
(そう。時間は一度整えたくらいじゃ、終わらない。
“残したい人”と“壊したい人”が、いつでも両方いるから)
彼女は封筒から出た青い石を、
砕けたルビーの瓶の隣に並べた。
赤と青。
壊す色と、残す色。
その二つが並んだ棚を見上げて、
アステルはひとりごとのように言った。
「じゃあ、もう一度だけ付き合いましょうか。
今度は、“残す時間”のほうに」
外では、花を買いにきた子どもの声がした。
アステルはいつものように笑顔で表に出た。
けれどその笑みの奥にはもう、
次に向けた覚悟の光が宿っていた。
これで第一部完です。
気が向いたら続きを記載します。
よろしくお願いします




