第5章 赤い残響
空気が、まるで破れた布のように裂けた。
赤と青の光が絡み合い、倉庫の床は波のように揺れる。
アステルの身体が後ろへ引きずられ、
耳の奥で金属音が何重にも響いた。
──世界が、逆回転している。
光も、音も、呼吸も。
彼女は目を開けたまま、別の時刻に吸い込まれた。
*
目を覚ましたとき、
そこは懐かしい匂いのする部屋だった。
乾いた木と研磨剤の匂い、
窓の外から聞こえる波音。
ここは──師エルドの工房。
「……戻った、の?」
呟いた声が、現実のように響く。
アステルはゆっくりと立ち上がった。
机の上には、散らばった原石。
赤や青、緑のかけらが、朝の光を吸いながら微かに光っている。
その奥から、聞き慣れた声がした。
「おはよう、アステル。雨の日は光が柔らかいな」
その声を聞いた瞬間、
胸の奥が痛んだ。
忘れるはずのない声。
それでも何度も夢に見て、何度も失ってきた声。
「師匠……?」
声が震える。
「どうした、顔色が悪いぞ」
エルドは微笑みながら近づき、
手にしていた布で石の粉を拭った。
「そんな顔をするな。
朝は新しい仕事の始まりだ。昨日の失敗は昨日に置いていけ」
彼の声は、まるで時間の外から響いているようだった。
アステルは息を詰め、
手の中の感覚を確かめた。
赤いルビーの欠片──それは今も、脈を打っていた。
(ここは“過去”じゃない。過去の中にある、時の残響)
「師匠……この石を覚えてますか?」
アステルはルビーを差し出した。
エルドはゆっくりとそれを受け取る。
そして、光に透かす。
「これは……未熟だが、美しい。
研磨を恐れて手を止めたか?」
「……恐れたんです。
この石を磨いたら、あなたが消えてしまう気がして」
エルドはしばらく黙り、
やがて静かに笑った。
「人はね、磨くたびに何かを失う。
でも、磨かずに残るものは、
だんだん曇って、やがて形を失うんだよ」
アステルは目を伏せる。
「じゃあ、私はどうすれば……」
「簡単だ」
エルドは机の上のルーペを取った。
「“今、ここにいる光”を見なさい。
それが、未来に行く道になる」
その瞬間──
時間が軋んだ。
時計の針が逆回転し、窓の外の雨粒が上へ昇る。
木屑が宙に浮かび、声が空気から剥がれていく。
アステルは耳を塞いだ。
「師匠! これは……!」
「時間が戻る。お前の中に二つの“今”があるからだ」
「二つ……?」
「一つは“花屋”の今、もう一つは“アステライト”の今。
どちらも本物だが、
その二つが重なったとき──世界は揺れる」
エルドの声が遠ざかる。
光が滲み、彼の姿がぼやけていく。
アステルは必死に手を伸ばした。
「師匠! 行かないで!」
「お前は戻るんだ、アステル。
“約束”を果たすために」
「約束……?」
「赤は約束の色。
その石がまだ光るうちは、
誰かが、お前を待っている」
世界が砕けた。
眩しい閃光が走り、
次の瞬間、アステルは倉庫の床に叩きつけられた。
*
息を吸った。
空気が鉄の味をしている。
見慣れた倉庫の天井。
割れた電灯が火花を散らし、
周囲には崩れた棚と散乱した書類。
──帰ってきた。
アステルはゆっくり起き上がった。
掌には、砕けたルビーの欠片が残っている。
それはもう原石ではなかった。
半分だけ研磨され、
中に小さな光が揺れている。
“まだ終わっていない”というように。
耳を澄ますと、
遠くで港の鐘が鳴った。
カン、カン、……カ、カン。
一拍戻り、また進む。
(まだ、狂ってる)
壁際の書類の山に手を伸ばすと、
そこにはクロム商会の取引記録。
“イレーネ・クロム 実験対象”
“アステライト・ルート採用”
“赤石 加工完了 二十二時二分”
二十二時二分。
妹を焼いた火事の時刻。
そして──アステルが“時間を飛んだ”時刻。
(……やっぱり。
あの火は、時間の歪みそのものだったんだ)
震える指で書類を閉じる。
ふと、背後から声がした。
「戻ってきたか、アステライト」
アステルは振り返った。
暗闇の中、影のように立つ人影。
倉庫の入口に、昼間の男──イレーネの兄がいた。
目の奥に光がない。
まるで、時間の抜け殻のような表情。
「あなた、なぜここに」
「気づいたら、ここにいた。
お前がいない時間を、ずっと歩いてきたら……
いつの間にか“お前の時間”にいた」
アステルの喉が詰まる。
(この人も、引きずり込まれた……)
「今、全部見ました。
妹が、どうやって殺されたかも。
誰が、彼女の時間を売ったのかも」
男の手が震えている。
「俺は、あいつらを──」
「駄目」
アステルは言葉を切った。
「復讐で時間を使うと、また歪む。
あなたまで、消えてしまう」
男は唇を噛み、視線を逸らした。
「じゃあ、どうすればいい」
「証を残すのよ。
あなたは“普通の時間”に戻って、
これを世に出す。
この歪んだ取引が、あったことを伝える」
アステルは砕けたルビーを彼に渡した。
「これが証拠。
時間を歪ませた者たちの“鍵”」
男はそれを受け取り、
赤い光を見つめた。
「……妹がこれを見ていたんだな」
「ええ。そして、あなたも見るべきです。
過去じゃなく、“今”の光を」
外で風が吹いた。
倉庫の扉が鳴り、波の音が近づいてくる。
アステルは少し笑った。
「師匠も言ってました。
“今、ここにいる光を見ろ”って」
男が顔を上げた。
「お前は?」
「わたしはもう少しここにいる。
この街の鐘が、ちゃんと三つ鳴るまで」
港の方角から、また音がした。
カン、カン、……カン。
今度は、一拍も戻らなかった。
アステルは小さく息をついた。
砕けたルビーが、掌の中で温かく光っていた。
それはまるで、師の掌の記憶のように、
静かに鼓動していた。
──そして、アステルの中でひとつの確信が生まれた。
“まだ終わっていない。
けれど、もう迷わない。”
彼女はゆっくりと立ち上がり、
外の光へと歩き出した。
夜が終わり、
港の空に、わずかに朝の色が差しはじめていた。




