表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

第5章 赤い残響

空気が、まるで破れた布のように裂けた。

赤と青の光が絡み合い、倉庫の床は波のように揺れる。

アステルの身体が後ろへ引きずられ、

耳の奥で金属音が何重にも響いた。


──世界が、逆回転している。


光も、音も、呼吸も。

彼女は目を開けたまま、別の時刻に吸い込まれた。



目を覚ましたとき、

そこは懐かしい匂いのする部屋だった。


乾いた木と研磨剤の匂い、

窓の外から聞こえる波音。

ここは──師エルドの工房。


「……戻った、の?」

呟いた声が、現実のように響く。

アステルはゆっくりと立ち上がった。

机の上には、散らばった原石。

赤や青、緑のかけらが、朝の光を吸いながら微かに光っている。


その奥から、聞き慣れた声がした。

「おはよう、アステル。雨の日は光が柔らかいな」


その声を聞いた瞬間、

胸の奥が痛んだ。

忘れるはずのない声。

それでも何度も夢に見て、何度も失ってきた声。


「師匠……?」

声が震える。

「どうした、顔色が悪いぞ」

エルドは微笑みながら近づき、

手にしていた布で石の粉を拭った。


「そんな顔をするな。

 朝は新しい仕事の始まりだ。昨日の失敗は昨日に置いていけ」


彼の声は、まるで時間の外から響いているようだった。

アステルは息を詰め、

手の中の感覚を確かめた。

赤いルビーの欠片──それは今も、脈を打っていた。


(ここは“過去”じゃない。過去の中にある、時の残響)


「師匠……この石を覚えてますか?」

アステルはルビーを差し出した。

エルドはゆっくりとそれを受け取る。

そして、光に透かす。


「これは……未熟だが、美しい。

 研磨を恐れて手を止めたか?」

「……恐れたんです。

 この石を磨いたら、あなたが消えてしまう気がして」


エルドはしばらく黙り、

やがて静かに笑った。

「人はね、磨くたびに何かを失う。

 でも、磨かずに残るものは、

 だんだん曇って、やがて形を失うんだよ」


アステルは目を伏せる。

「じゃあ、私はどうすれば……」

「簡単だ」

エルドは机の上のルーペを取った。

「“今、ここにいる光”を見なさい。

 それが、未来に行く道になる」


その瞬間──

時間が軋んだ。


時計の針が逆回転し、窓の外の雨粒が上へ昇る。

木屑が宙に浮かび、声が空気から剥がれていく。

アステルは耳を塞いだ。


「師匠! これは……!」

「時間が戻る。お前の中に二つの“今”があるからだ」

「二つ……?」

「一つは“花屋”の今、もう一つは“アステライト”の今。

 どちらも本物だが、

 その二つが重なったとき──世界は揺れる」


エルドの声が遠ざかる。

光が滲み、彼の姿がぼやけていく。

アステルは必死に手を伸ばした。


「師匠! 行かないで!」

「お前は戻るんだ、アステル。

 “約束”を果たすために」


「約束……?」

「赤は約束の色。

 その石がまだ光るうちは、

 誰かが、お前を待っている」


世界が砕けた。

眩しい閃光が走り、

次の瞬間、アステルは倉庫の床に叩きつけられた。



息を吸った。

空気が鉄の味をしている。

見慣れた倉庫の天井。

割れた電灯が火花を散らし、

周囲には崩れた棚と散乱した書類。


──帰ってきた。


アステルはゆっくり起き上がった。

掌には、砕けたルビーの欠片が残っている。

それはもう原石ではなかった。

半分だけ研磨され、

中に小さな光が揺れている。

“まだ終わっていない”というように。


耳を澄ますと、

遠くで港の鐘が鳴った。

カン、カン、……カ、カン。

一拍戻り、また進む。


(まだ、狂ってる)


壁際の書類の山に手を伸ばすと、

そこにはクロム商会の取引記録。

“イレーネ・クロム 実験対象”

“アステライト・ルート採用”

“赤石 加工完了 二十二時二分”


二十二時二分。

妹を焼いた火事の時刻。

そして──アステルが“時間を飛んだ”時刻。


(……やっぱり。

 あの火は、時間の歪みそのものだったんだ)


震える指で書類を閉じる。

ふと、背後から声がした。


「戻ってきたか、アステライト」


アステルは振り返った。

暗闇の中、影のように立つ人影。

倉庫の入口に、昼間の男──イレーネの兄がいた。

目の奥に光がない。

まるで、時間の抜け殻のような表情。


「あなた、なぜここに」

「気づいたら、ここにいた。

 お前がいない時間を、ずっと歩いてきたら……

 いつの間にか“お前の時間”にいた」


アステルの喉が詰まる。

(この人も、引きずり込まれた……)


「今、全部見ました。

 妹が、どうやって殺されたかも。

 誰が、彼女の時間を売ったのかも」

男の手が震えている。

「俺は、あいつらを──」


「駄目」

アステルは言葉を切った。

「復讐で時間を使うと、また歪む。

 あなたまで、消えてしまう」


男は唇を噛み、視線を逸らした。

「じゃあ、どうすればいい」

「証を残すのよ。

 あなたは“普通の時間”に戻って、

 これを世に出す。

 この歪んだ取引が、あったことを伝える」


アステルは砕けたルビーを彼に渡した。

「これが証拠。

 時間を歪ませた者たちの“鍵”」


男はそれを受け取り、

赤い光を見つめた。

「……妹がこれを見ていたんだな」

「ええ。そして、あなたも見るべきです。

 過去じゃなく、“今”の光を」


外で風が吹いた。

倉庫の扉が鳴り、波の音が近づいてくる。

アステルは少し笑った。


「師匠も言ってました。

 “今、ここにいる光を見ろ”って」


男が顔を上げた。

「お前は?」

「わたしはもう少しここにいる。

 この街の鐘が、ちゃんと三つ鳴るまで」


港の方角から、また音がした。

カン、カン、……カン。


今度は、一拍も戻らなかった。


アステルは小さく息をついた。

砕けたルビーが、掌の中で温かく光っていた。

それはまるで、師の掌の記憶のように、

静かに鼓動していた。


──そして、アステルの中でひとつの確信が生まれた。


“まだ終わっていない。

 けれど、もう迷わない。”


彼女はゆっくりと立ち上がり、

外の光へと歩き出した。

夜が終わり、

港の空に、わずかに朝の色が差しはじめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ