第4章 港の影
港の倉庫街は、夜になるとまるで別の町のように沈黙する。
潮と鉄の匂いが混ざり、空気の底に煤の気配が漂っていた。
街灯の光が途切れるたびに、アステルの影も途切れ、
また次の明かりで蘇る。
──このあたりは、昔、師エルドとよく歩いた場所だ。
その頃は港も穏やかで、夜でも灯が多く、
彼女はまだ“時間の商売”という言葉を知らなかった。
今、彼女が向かうのは、その静けさを食い荒らした連中の巣。
クロム商会。
表向きは輸入宝石を扱う貿易組織。
裏では、盗品、偽造石、そして──時間の取引を扱う。
倉庫の奥では、すでに機械音が鳴っていた。
エンジンでも発電機でもない。
石を削る音。
それが、あの日、エルドの工房で聞いた音にあまりにも似ていた。
(あの音を……また聞くことになるとはね)
ドアの隙間から、淡い光が漏れている。
アステルは仮面を少しずらし、
黒い革の手袋を締めた。
そして、静かに足を踏み入れる。
中には、数人の男たちがいた。
その中央、台座の上には透明なケース。
中に封じられているのは、淡い青の宝石。
内部でわずかに光が逆流している。
──時間石。
(やっぱり……これが“完成版”)
「ようこそ、アステライト」
声が響いた。
天井の陰から、ひとりの男が降りてくる。
長いコート、冷えた瞳。
かつて、花束を燃やして笑った男。
「ここまで来るとは思わなかった」
「あなたたちの“時間商売”が、港の鐘を狂わせている」
「鐘なんて飾りだ。
人は便利なら、正確な時なんて要らない。
過去を変えられるほうがずっと価値がある」
「じゃあ、妹を焼いたのも“便利”のため?」
男の表情がわずかに動いた。
「……なるほど。あの兄貴を使ってここまで来たのか」
「利用なんてしていない。彼は真実を知りたがっている」
「真実なんて、時間を書き換えればいくらでも作れる」
アステルは台座の上の時間石を見つめる。
石の内部で光が時計回りに流れていたものが、
彼女が近づくにつれてゆっくりと逆流しはじめた。
「あなたたちが弄んでいる“時”は、
石じゃなく、人間の“記録”です。
人の記憶を、数字で塗りつぶすだけの仕事」
男は笑った。
「それを誰よりも上手くやってるのはお前だ、“アステライト”。
お前の指先は、時間を留める。
光を止める。
それを知らずにいたとでも?」
その瞬間、アステルの脳裏に走った。
あの夜、炎の中でエルドが最後に言った言葉。
──「赤は約束の色。
時が戻るとき、最初に滲むのは赤だ」
(……そうか)
アステルは胸ポケットのルビーを取り出した。
未研磨のままの石。
小さく脈打つように赤が明滅している。
「わたしの“赤”は、あなたたちの時間とは違う」
アステルは研磨台にルビーを置き、
持ち込んでいた刃を差し込む。
一瞬、倉庫全体の照明が赤く染まった。
「なにを──!」
男の声が響くより早く、
時間石の青とルビーの赤が交錯した。
空気が歪み、
世界が二重になった。
音が伸び、光が波打ち、
一瞬すべての動きが止まる。
倉庫の時計が、逆回転をはじめた。




