第3章 消えた花束
翌朝。
港の風はまだ冷たかった。
アステルはいつものように店を開け、水を替え、葉を落とす。
ふとショーウィンドウを見たとき、足が止まった。
昨日まであったはずの花束──
白薔薇とラベンダーを合わせた小さなブーケが、
消えていた。
誰も入った形跡はない。
ガラスは割れていない。
だが内側に、水滴が一筋だけ残っている。
内側から、外へ流れた痕。
それは“時間をずらした者”が通った印。
電話が鳴いた。
アステルは受話器を取る。
「Aster Flowersです」
「綺麗な花だったな」
聞き覚えのある声。
クロム商会の幹部。
かつて、花束を焦がして笑った男の声。
「あなたたちが、持っていったのね」
「持っていった? いや、戻したんだよ。
“あの夜”に、そこにあるはずだった花を。
時間の穴を埋めるためにね」
アステルは静かに目を閉じた。
「勝手に、私の時間を使わないで」
「お前も人の時間を使ってる。
師エルドの時間で生きてるだろう、“アステライト”」
受話器を持つ指に力がこもった。
「何が望み?」
「取引だ。
お前の技術が必要だ。“時間を通すための面”を作る。
お前の手でなければ、時間が割れる」
「断る」
「なら、花屋を去年の四月まで戻す。
“アステルという花屋”が存在しなかった時間にしてやる」
通話が切れる。
(去年の四月……イレーネが死んだ夜)
アステルはゆっくりと立ち上がり、鏡を見た。
長い金髪をまとめ、仮面を手に取る。
「師匠。あの人たち、ついに時間まで…」
写真のエルドは、静かに笑っていた。
代わりに、壁の時計が鳴く。
カン、カン、……カ。
また、一拍戻る。
アステルは深く息を吸い、仮面をつけた。
瞳の奥で、光が鋭く揺れる。
「港へ行きましょう。
あの人たちの“時の商売”を終わらせるために」
花屋の灯が消えた。
港の方角で、夜風が揺れる。
そして──
アステルの時間が、本格的に歪み始めた。




