黒曜石の客
夜になると、港の色は一段と濃くなる。
表の灯りが落ち、酒場と船のランプだけがにじむ時間。
アステルはコートの襟を立て、指定の古い建物の前に立っていた。
この場所は、かつて密輸品の受け渡しに使われていた倉庫。
今はただの“忘れられた空間”として町に残っている。
22時ちょうど。
鈍い靴音を響かせながら昼間の男が来た。
「来てくださってありがとうございます」
「必要なら。人は誰かを手放したくないものですから」
アステルは中に招き入れた。
倉庫の一室だけが、作業灯で淡く照らされている。
机の上には布が敷いてあり、
その中央に黒曜石がひとつ、ぽつんとある。
男は懐から、少し折れた写真を取り出した。
そこには若い女性が写っていた。
柔らかい髪、笑っている目。
胸元には──黒曜石のペンダント。
「これと同じものを。
いや、完全に同じでなくても構わない。
でも、彼女が見ていた“光”は、同じであってほしい」
アステルは写真を受け取り、慎重に見た。
目を細め、男を見る。
「去年、事故で。
彼女の持っていたものは全部焼けてしまった。
でも、不思議とこの首飾りだけは覚えているんです。暗いのに、内側で光っているようで」
男は少し口元を歪めた。
「あなたの名前を、教えてくれた人がいました。
“闇でなら、花屋よりも本物を咲かせてくれる女がいる”って」
「誰かしら。口の軽いお客さんですね」
アステルは冗談めかして言い、
それから黒曜石をライトの下にかざした。
光を当てると、黒の中に細い筋が見えた。
深い湖に沈んだままの光。
ここを起点に削れば、同じ“見え方”になる。
角度は写真のそれとほとんど変わらない。
これなら、思い出に寄り添える。
研磨機を回す。
高い音が倉庫に満ち、黒の粉が細く舞った。
アステルの指先は、一度も迷わない。
花を束ねるときと同じで、あらかじめ完成形が見えているのだ。
男はその様子を、ただ見つめていた。
「すごいですね……ほんとうに、同じ角度を…」
「石は、もともと持ってる形に戻してるだけです。
人間のほうが、余計なものを被せるから」
「人間のほうが、ですか」
「ええ。時間とか、後悔とか。
それを一度削って、ただ光だけにする」
研磨が終わると、黒曜石はただの黒ではなく、
奥に小さな“灯り”を宿した。
アステルはそれを布の上にそっと置く。
「……これです」
男は震える指で石を取った。
目の前で、何度も角度を変える。
それから、声を詰まらせた。
「これだ……この光だ……」
「よかった」
「でも……」
男はふと顔を上げた。
「おかしいですね」
「何がです」
「この石の研磨の癖、最近のあなたのやり方ですよね。
でも、俺がこの石を見たのは、一年以上前なんです」
アステルは一瞬、表情を止めた。
(……来たわね)
「どういう意味です」
「港で聞いたんです。
“アステライトは最近、光の入り口を少しだけ下げるようになった”って。
けど、俺が覚えてる彼女の石は、まさに今のあなたの研ぎ方なんです」
「他の職人の仕事と混ざったんじゃないですか」
「たぶん違う。
だってそのとき、あなたの名前も聞いたんです。
“アステライトに頼んだ”って」
アステルの背中に冷たいものが走った。
(私が、一年前に? この仕事を?
してない。……でも、記憶にないだけで、“時間が戻って”やっている可能性は?)
倉庫の外で、どこかの時計が鳴った。
カン、カン、……カ。
また、一拍戻った。
男は気づかない。
アステルだけが、鋭く音のずれを聞いた。
(向こうが──私の時間に触りはじめた)
「あなた」
アステルは黒曜石を見つめる男に言った。
「これを持って帰って、でも誰にも見せないでください。
見せるなら、ご自分のために。
ほかの人に“見せてしまうと”、時間が混ざります」
「時間が……?」
男は怪訝な顔をした。
「すみません、どういう──」
「今日はここまでです」
アステルはきっぱりと告げた。
彼女の声には、花屋のときの柔らかさはなかった。
闇の商人としての、線を引く冷たさだけがある。
男が出ていったあと、倉庫の中に静寂が落ちる。
アステルはゆっくりと仮面を外し、
師の言葉を思い出した。
──“赤は約束の色。
時が戻るとき、最初に滲むのは赤だ”
「じゃあ、まだ先があるってことね、師匠」
彼女は夜の港に出た。
海風が長い金髪を揺らす。
遠くで灯る船の明かりが、
どこか“これから出てくる誰か”を予告しているように見えた。
その“誰か”は、まもなく彼女の前に現れる。
月下で、妹を失った男とは別の、もうひとりの訪問者として。
そして“クロム商会”という、あくどく時間まで商品にしようとする連中への道を開ける。
アステルの時間は、この日から本格的に揺れはじめた。




