花屋の朝
雨の匂いと、切り花の甘さがよく似ている朝がある。
花びらの縁がまだしっとりと濡れていて、陽が当たるとそこだけ世界より少し早く目を覚ます。
そんな朝に、彼女はだいたい静かだった。
まだ店頭のガラスが夜の冷たさを残している時間、
アステルはいつものように鍵を回した。
「Aster Flowers」と書かれた小さな看板を内側から出し、外に向けてそっと開く。
潮の匂いと一緒に、商店街のまだ小さなざわめきが入ってくる。
店の中には水を張ったバケツがいくつも並び、
チューリップ、白薔薇、スイートピー、ラナンキュラス。
色の違う朝がそこに詰め込まれていた。
アステルは一本ずつ水切りしながら、茎の向きと光の入り方を確かめる。
花は少しでも傾くと、そこに影ができてしまう。
影はすぐに傷む。
だから彼女は影を嫌った。
「光を正しく受けるものは、長くもつわ」
彼女はいつもそう言った。それは花にも、人にも、石にも同じだった。
「おはよう、アステルさん」
ガラスの引き戸がかすかに鳴り、
常連の老婦人が入ってくる。
色あせたコートの襟から、冬の洗剤の匂いがした。
「今日はね、人にあげるの。明るすぎないのがいいわ」
「優しい人ですか?」
「そうね、ちょっと頑固だけど」
アステルは一度だけ花々を見回し、
白いアルストロメリアと、淡い黄色のガーベラを選んだ。
主張しすぎない色。けれど、もらった側が“自分のために選んでくれた”とわかる色。
リボンは白。包み紙はクラフトのまま。
「こういう人には、飾らないものが似合います」
老婦人は目を細めた。
「ほんとにあなたは見てるのねえ、人を」
「花も、人も、光を向けてあげると、応えてくれますから」
言いながら、アステルは店の奥の掛け時計をふと見た。
長針がちょうど12を指した、その瞬間。
港のほうから、鐘の音が届いた。
カン、カン、……カ、カン。
一拍、戻った。
ほんのわずかだったので、老婦人は気づかなかった。
アステルだけが、まぶたの奥で小さく瞬いた。
(また──)
ここ数か月、ときどきある。
時間がほんの数秒、先に進んだり、戻ったりするような感覚。
なにかの予感を“先に見てしまう”とき。
けれど彼女は、それを外に出さなかった。
出してしまえば、あの夜のことを話さなければならなくなるから。
老婦人を見送り、ドアを閉める。
街の音が遠ざかり、店の中に花の匂いだけが残る。
アステルは深く息を吸い、そして、奥の扉に視線を向けた。
表の店からは見えない位置に、もうひとつの扉がある。
棚を横にずらすと現れる、小さな鍵穴。
金属製の冷たい持ち手。
カチリ、と音がして扉が開くと、
そこはまったく別の空気だった。
花の香りはしない。
代わりに、鉄と油と、研磨剤のつんとした匂い。
棚には種類の違う石が並び、
作業台にはルーペ、研磨機、精密な秤。
壁には、白い髭の男が笑っている古い写真がかけてある。
師エルドの写真だ。
アステルはエプロンを外し、
長い金髪を花屋のときより高い位置で結び直す。
花を束ねるときの結い方ではない。
戦うとき、視界に髪が落ちないための結い方。
そして、黒い半面の仮面を静かに顔にあてがう。
鏡に映った女はもう、花屋ではなかった。
街の一部の人間が恐れ、
一部の人間がひそかに求める女。
“闇夜に潜むアステライトの輝き”と囁かれる存在。
「……さて。今夜の客は黒曜石だったわね」
彼女は昨夜メモした依頼書を取り出す。
“黒曜石の再現。写真あり。急ぎ。代金上乗せ可。”
“動機:亡き人の再生”
そこまで書いてあるときは、だいたい人が泣く依頼だ。
アステルは机の上に黒曜石を置き、
ルーペを覗こうとしたそのとき──
表の店の鈴が鳴った。
まだ開店時間だ。
しかも、さっき老婦人を見送ったばかり。
(……来るのが早い)
アステルは仮面を外し、表に戻った。
そこに立っていたのは、
やつれたスーツの男だった。
目の下に深い影。
誰かを失った人間の目をしている。
「すみません、ここ……花屋、ですよね」
「ええ。ご用途は?」
「いや……花も、なんですが」
男は周囲を見回し、少し声を落とした。
「“夜の顔”でも、頼めますか」
アステルの指が、一瞬だけ止まる。
(この人、知ってる。……いや、これから知る?)
違和感が胸に走ったが、顔には出さない。
「ここでは花を。夜なら話を聞きます」
「夜に、また来てもいいですか」
「ここではなく、裏の路地にある古い建物です。22時に」
男は深くうなずいた。
「……助かります。あの人の光を、もう一度だけ見たくて」
“あの人の光”──
アステルは胸の奥でその言葉を反芻した。
あの人の“光”を。
あの人の“時間”を。
人はよく、輝きと時間をごっちゃにする。
男が出ていったあと、外の時計塔がまた鳴った。
カン、カン、カン。
今度はちゃんと順番どおり。
「……今夜からね」
アステルはもう一度、奥の部屋へ戻った。
壁にかけられた師の写真を見上げる。
「師匠。あなたが教えてくれた“赤は約束の色”って言葉、
また使うことになりそうです」
写真の中の老人は、昔と同じ穏やかな笑みを浮かべていた。




