大好きな人と結婚して幸せです!と惚気ただけなのに
「ただ、私の求めていたものと合っていなかったということです。そのため大変申し訳ありませんが、この話は辞退させて……」
白いちょび髭を生やした執事のジョナサンから結果報告を聞いた私は、冷たい大理石のテーブルに思い切り突っ伏した。
「お気を確かにお嬢様。断り断られて振り振られ。これで通算101回目でしょうか?」
「いいえ、まだ100回目よ!」
私はジョナサンに向かって大きく叫んだ。プライドを傷つけるのはやめてほしかった。そしてため息をついた。
今回こそ、お見合いは上手くいくと思ったのに。無力感に襲われた私はとにかく泣いた。
ところで、なぜ私がこんな思いをしているというのか。
それはこの国の制度と、元婚約者のせいだ。
前提を説明すると、我が国では家同士の釣り合いをとるため、貴族女性は国から婚姻相手を強制的に決められる。
これは恋愛感情を利用して身分差を超えて結婚する事で、貴族間、あるいは貴族と平民のパワーバランスを崩さないようにするためだ。
けれども理由はそれだけではない。
そもそもこの世界では女が男に比べて1:2と数が少なく、由緒ある血統を保つため、貴族女性たちを貴族の長男に嫁がせる必要があった。
勘のいい人であれば、いくら身分が高くても相手の中身がわからないため、そんな方法で上手くやっていけるのかと疑問に思うかもしれない。
確かに全く相性の問題がなく、上手くやっている男女もいるそうだ。
しかし、それは奇跡的な話で、実は8割は上手くいっていないと言う噂だ。
上手くいかない男女はどうなるか。
結果的に、お互いに嫌い合ったり、憎しみ合ったりして、最終的には家庭内別居へと突き進む。強制的に結婚させられているのにも関わらず、離婚は宗教的に認めてもらえないのだ。
例に漏れず、我が家もこの8割に当てはまる家庭だった。
幼い頃より父と母は仲が悪く、両親と私が揃って家族として食事をとったのは、お客様との会食を除いて数回くらいしか記憶がない。
そんな環境でよく家というものが保っていられる……と声が聞こえてきそうだが、これにはガス抜きする方法があったのだ。
父と母は互いに恋人を持っている。
でも、これはうちが特殊という訳ではなく、国の貴族たちがほとんどそうなのだ。
むしろ、いない方が変だと言われるほどで、国王陛下だって特定の愛人と、季節ごとに変える一時的な相手を複数持っている。
そういうわけで、両親はお互いに恋人がいることについては何も言わなかった。
そして話を戻すが、私がこんなに苦戦しているのは、私の決められた元婚約者があまりにも酷かったからだ。
彼は私と初めて会った時の席で、なんと恋人を同席させるという事をした。
「どうせ結婚したらわかるんだから、初めに紹介した方が面倒ないだろう。俺は誠実だから隠し事は無し。うん、あんたの見た目についてはまあ合格だな。でも、マルティーナのほうが可愛いけど」
席に着くなり私の婚約者であるパトリックは、ニヤつきながら恋人の丸っこい手に自身の手を重ねた。
彼は私と同じく伯爵家出身で、地位的には彼の家の方が高く、さらに年齢も同じ18歳で身長は高かったが、顔は正直言って全く好みではなかった。
目を細めるのは、人を小馬鹿しているときぐらいだろう、というような意地悪そうな目つき、先が丸っこくバランスの悪い大きな鼻、どこか下品だと感じさせる照りついた厚い唇……まあ、何が言いたいかはお察し頂きたい。
さらに、彼はメガネを掛けているのだが、左右でデザインの違う変なフレームだし、髪型も短髪だがあまり頭の形には合っていないようだった。
きちんとした格好をした肖像画の印象とはまるで違った。
唯一、合っているのは肌の色くらいか。
その色は貴族らしさを表す青白い色で、青白ければ青白いほど、素晴らしい、魅力的だとされていた。
なぜなら、青白い男ほど精力が強いと言われており、子孫繁栄に繋がるとこの国では褒め称えられているのだ。私の知る限り、確かに青白い人ほど子沢山なので、実際にそうなのだろう。
けれども、私はそれどうこうよりも、肌の青白さはなんだか彼を神経質そうに見せていて、ますます好きになれそうにない、むしろ気持ち悪い、というか人に合格とはどういう神経をしているのだろうか……としか思わなかった。
私は不快感を抑えつつ、彼にこう返した。
「紹介って? 別に私は不要だと思いますけど」
私だって両親の恋人の名前は知っていても、会ったことはない。顔を顰めながらそう返すと、彼の恋人が口を開いた。
「えー、やだぁ、こわぁい。そういう訳なんでぇ、パトリック様には私がいるんでぇ、彼を誘惑しないでくださぁい。あと、私がグラマラスだからって嫉妬しないでくださぁい」
女はそう言って、困り眉をしながらふくよかな身体をパトリックに預けるようにした。
子供っぽい大ぶりのリボンを頭につけ、布が悲鳴を上げているようなぱつんぱつんのドレス、これみよがしにつけたセンスのない派手な宝飾品、そしてワガママボディ。
……一体、どこに嫉妬する要素があると言うのだろう。
「やだなぁ、マルティーナ。君のことは一番で俺は考えてる。でも、家を残すために子供は作らないと。それだけは割り切って」
彼は愛する彼女によって、そう囁いていたが"子供を作る"という単語が出た途端、私の中で不快感が増し、全身の毛穴がゾワゾワとするのを覚えた。
……誰が誘惑なんてしたいと思うか!
「でもぉ、結婚したらこの人と一緒に住むんでしょお? 心変わりしないか私は心配なのぉ」
「やだなぁ、マルティーナ。言っただろう、君のことが一番だって。そういうわけで、俺はマルティーナとも一緒に住みたい。だから三人で住もう!」
パトリックはさらに、自分の寝室は主にマルティーナと使うことにする。そして子供のためにたまに私と寝ると言った。
「でも、そんなのを実際に見たら、私、嫉妬しちゃうかも〜!!」
彼女は両手を顔に当てて、大袈裟に悲しむそぶりを見せた。
「やだなぁ、マルティーナ。さすがに三人で一緒に寝れるわけないだろう? こればっかりは仕方ない。あ、だから、あんたは俺には惚れないでね。そこのところは弁えてほしい。マルティーナの目にも触れてほしく無いから、地下室を用意するからそこに住んでほしい」
彼はマルティーナの頭に手を乗せて、よしよし、大丈夫だよ、俺たちの愛の巣は邪魔させないとか言っている。
……は?
一方の私の中では、勝手に話が進められていることに、気持ち悪さと苛立ちがシチューのように混ざり合っていた。
というよりも、この人たちは一体何なんだろう。
いくら愛人が認められているとはいえ、こんな大っぴらに見せるのはさすがに非常識だ。
愛してるだかなんだか知らないが、見えないところでやるというのが、せめてもの思いやりというものなのに。
私は呆れて黙っていると、マルティーナがお腹が空いたから早く帰りたいと言い出した。
ええ、確かにその豊満すぎる肉体を維持するには、たくさんの栄養分を摂取しなければいけないでしょうからね!
「そうだなぁ、マルティーナ。今日はもう話すことも無いから帰ろうか!」
そう言って彼は立ち上がると、マルティーナと手を絡ませるようにして繋ぎ、その場を去っていった。
一人になった途端、強烈だった二人に私はどっと疲れを感じた。
やっと終わったと一息ついていると、なぜかパトリックがこちらに向かって走ってきた。
「忘れ物ですか? 椅子には何もありませんよ」
私は席を立ち、一応親切心から彼にそう教えた。
しかし、パトリックはニヤつきながら私に一歩近づき、素早く耳元に口を近づけてこう言った。
「さっきはマルティーナの手前、あんな事をいったけど、本当はデカいよりも形の良い方が好きなんだ。俺、マジで夜はすごいから覚悟して?」
明らかにつけ過ぎなムスクの香り。
彼は自分の下半身を押し付けるようにして、さらに後ろから私の胸を両手で鷲掴みにした。
「……ギャーー!!」
一瞬、私は自分に何が起きたのかよくわからなかった。でも気がつけば、叫びながら彼の頬を思い切り平手打ちにしていたのだ。
彼は驚き、その拍子でバランスを崩して後ろに倒れた。
「本当に無理。もう無理、絶対無理!」
続いてこう言った。
「あなたなんかと、そんな事をするのは絶対嫌! 気持ち悪い! 無理! 無理! 本当無理!」
さらに私は、彼に向かって、ナルシストとか本当に無理! 鏡をよく見てよ! 本当に気持ち悪い! など叫んでいた気がする。
けれども、さすがにそこまで私が罵ったため、彼も不快感を持ったらしく、立ち上がると私に向かってこう返した。
「おい、調子に乗んなよ! ブス! お前みたいな女なんて、こっちからお断りしてやるよ! 婚約解消だ!」
「ええ、その方が願ったり叶ったりだわ! あなたみたいな人と結婚するなんてゾッとする!」
さらに私たちは何かを叫び合っていた気がするが、結果、この話は破談となった。
「このバカ娘が! 破談なんて家名に傷つけおって!」
婚約解消を知った父は、思い切り私の頬を叩くと、相手側へ謝罪に向かった。
私がどんなに気持ち悪い思いをしたのか説明しても、彼は全く聞く耳を持たなかった。そして、パトリックの家と話し合いの結果こうなった。
「いいか。あちらは大変怒っていた。だから、元通りにすることはない」
私は元通りにすることはない、と聞いて安心していた。
あんな人と結婚するなんて死んだ方がマシだ。
今まで、生理的に無理というものはどういうものかよくわからなかったが、ああいう人の事をいうのだろうと身をもって知った。
しかし、父から出た言葉は事態がただ悪化しただけだった。
「いいか。一年間だ。一年間だけは向こうはお前が別の相手を見つける期間として認めると言った。だがな、もし一年間を過ぎても見つからなかった場合は、婚約は元通りだ」
元通りと聞き、私は大きく叫んだ。
「そんなの嫌です!」
「わがままを言うな! しかもな、向こうはこう条件をつけてきたんだ! 戻す代わりに、お前は今後、子を産むことだけに専念しろと。当然、外に男を作るなど言語道断だ!」
さらに父はゾッとするような各種条件を述べた。これなら死んだうえに、地獄にいる方がはるかにマシではないか。
ところで、なぜここまで父が激怒したというのか。
それは父が、この家の地位を守りたいと言うのもあるが、国によって定められた婚約を解消や破棄するのは、貴族女性の家にとっては、全裸で外を歩きまわるほどの恥と言われているのだ。
だから、制度的には縁を切ることは可能でも、家としてはそんなことさせられないため、実際はほとんど無理だった。
「そもそもお前は女だから、この家に置いてやったんだ。せめてその義務ぐらいちゃんと果たせ!」
父は冷たくそう言い放った。
薄々気づいていたが、その言葉に私は深く傷ついた。私は母には似ていたが、父にはあまり似ていなかった。
父は自分似の兄や姉には甘かったが、私に対しては昔から異様に厳しかった。つまり、この婚姻も強引に進めるあたり、そういうことなのだろう。
「……わかりました」
泣いていても何も始まらない。あの男と結婚しないために、何が何でも別の男性と結婚をしなければ。
「私は彼ではなく、他の男性と結婚することにします!」
私は父に向かってそう宣言した。
◆◆◆
そういうわけで、新たな婚約者探しが始まったのだが……
なぜ一年間の猶予を与えると言ったのか、私は見合いをこなしていくうちに理解した。
父からは受ける条件として、家の格を下げないように相手の身分はうち以上と決められた。
しかし。
確かに相手となる人は経歴などはそれなりなのだが……
かなり横柄な態度や、こちらの体を舐め回すように見て触ろうとするなど、婚約を解消されてもおかしくないと思われる人だったり。
そこまでではないが、どこかクセがあったり、挙動不審だったり。
後妻としてきて欲しいというものの、年齢差がありすぎるなど、正直言って男性として見ることができない人ばかりだった。
きっと、新たに婚約者を探しても、パトリック以上にいい相手なんて見つかるはずがない。あちらはそう自信があったから、こんな条件を突きつけてきたのだろう。
そんなわけで、私が冒頭で泣いていたのは、ようやく良いなと思った人に巡り会えたというのに、結局振られてしまったからだった。
泣いている私に対して、ジョナサンは静かに声を掛けてきた。
「お嬢様。差し出がましいですが、少々選び方を変えてみてはいかがですか?」
「選び方を変えるですって?」
「ええ。これまで、お嬢様は条件や趣味や性格などを気にされて探されておりましたが、もっと単純な方法で探されてみてはいかがでしょう」
「それはつまり?」
こういうことです、とジョナサンはテーブルの上に相手の肖像画をざっと並べた。
「この際だから、見た目で選んでしまいましょう!」
「ええ?!」
ジョナサンによれば、やはり異性を好きになるのは見た目からだ。見た目がいい人間に会ってみれば、文面では気になったことが、気にならないかもしれない、と。
「でも、見た目がいい人はモテるでしょうから遊んでそうだし、それでも相手がいないということはそれなりの原因があるのかもしれないし、あるいは肖像画だけが物凄く良く書かれてるのかもしれないし……」
「ほらほら。お嬢様。そういうところですよ。そう言って、彼らのことを避けていましたが、実際に会ってみなければわかりません。取り急ぎ、最も見た目がいいと思った人にしてみましょう。ダメだと思ったら、断ればいいんですから!」
私はジョナサンに促されるまま、並べられた肖像画のうちの一つに向かって、この人にすると指を指した。
そうして、新たに見合いの席に来た人物に、私は目を瞬かせた。
彼は席に着くなり、開口一番、こちらに謝罪した。彼の名前はフランシスと言った。
髪の毛の色と目の色、顔の造形は確かに肖像画通りで美しく、背も高くて体型もすっきりしているのだが。
「騙すようなことをして申し訳ありません。僕は見ての通り、肌の色が違うのです」
そうなのだ。肖像画の彼は少し日焼けしている程度に見える肌色だったのだが、実際はシナモン色をしていた。
我が国の生粋の貴族であれば、そのような肌色はしていない。なぜそうなのかと正直私は首を傾げた。
「驚いていますよね。これについては説明させてください」
彼によれば、彼の母にも恋人がいた。もちろん夫は別にいた。
そして、彼は母とその恋人の間に生まれた子供で、その肌の色から夫には受け入れられず、母方の実家で私生児として育てられていたという。
本来であれば、爵位を継げるはずはないのだが、継ぐ予定だったはずの母方の伯父が、神職に就きたいと希望して家督は彼に譲ると言ったため、継ぐことになった。
けれども、彼はそのような生まれのため、国から婚約者は割り当てられず、自ら相手を探すことになったそうだ。
肖像画については、実際と違うと画家に指摘したが、このくらいにしておかないと会ってもらうことすらできないと言われて、そうしたのだと言った。
「嫌なら遠慮なく断ってください。断られるのは慣れています。騙すようなことをしていたのですから」
彼は肩を竦めて、諦めはとっくについているとでも言うように、自信なさげに微笑んだ。
確かに以前であれば、こんなふうに自信なさげな男性を見たら、頼りない印象を持ってそれ以上の興味を失っていたかもしれない。
でも、今は彼に対してそのようには思えなかった。目を伏せった時の表情、落ち着きのある声に私は不思議と惹きつけられ、彼のことをもう少し知りたいと思えた。
「いえ、それについてどうか決めるのは、もう少し後にさせてください。逆にあなたはなぜ、私と会ってくれたんですか?」
そう言って、私たちは改めて自己紹介をした。
そして話していくうちに、私は彼とであれば自然に話せていることに気づいた。
好きなことや趣味は違ったが、不思議と違和感がなく、自分の知らなかった事を知れたのが新鮮に思えた。
今までに出会った男性であれば、会話している途中で帰りたくなったり、会話が続かず気まずくなることがほとんどだったのに、彼にはそんなことを全く抱かなかった。
この初回での顔合わせが終わる頃には、私はすっかり笑顔になっていた。
「よければ、次回も会っていただけますか?」
彼からそう聞かれたことに、私は顔を明るくした。前は相手からそう聞かれても、困惑するしかなかったと言うのに。
「ええ、ぜひ。またお会いできればと思います」
今度はその場しのぎの社交辞令の返事ではなく、本心から私はそう返事をした。
それから私たちは間を置かずに二回、三回と会い、そして今日は五回目に当たる日だった。
「シシリー。君の事情はわかっている。どうか僕と婚約をしてくれないかな」
帰り際、家まで到着した馬車内で私はそう伝えられた。
「本当に? あなたとならもちろんよ!」
私はとびきりの笑顔を向けた。
フランシスは穏やかな話し方もそうだが、話せば話すほど、私が理想としている人に近いということがわかった。
彼となら、きっと愛情に満ちた家庭が築けるはず。
私たちは互いに抱きしめ合い、初めてのキスをして、それならばもう両親にこの事を報告しようと屋敷に向かった。
しかし。
私が新しい婚約者だとフランシスを両親に向かって紹介すると、母は大きくため息をつき、父は目を釣り上げてテーブルを拳で叩いた。
「ダメだ! 認めない!」
「どうしてですか? 彼は階級も家柄も問題ないはずです!」
私は怒り狂っている父に対抗したが、父は首を横に振った。
「いいか、シシリー。我々は貴族なんだ。それなのに、いくら階級や家柄が問題なくともこのように……」
父はあからさまに目を上下させて、フランシスのことを見つめた。
「とにかく私が認めないのだから、この婚約は絶対にダメだ。認めてしまえば、お前は我々一族が外から笑われる事をわかっていない! お前は予定通り、パトリックと結婚するのだ!」
「嫌です! 話が違うではありませんか! あんな人と結婚するなんて、どうかしてます! いくらあちらが名家だからと言って、あんな人と結婚するなんて不幸になるだけです。お父様だって、お母様と結婚して幸せだと思ったことはあるんですか?!」
私がそう叫んだ途端、父は私に近づき拳を振り上げた。私は目を閉じた。でも拳は飛んで来なかった。
フランシスが父の手を掴んで、私を守ってくれたのだ。
「あなた方を恥晒しとさせてしまうのは、申し訳なく思います。でも僕にとってはシシリーが必要なんです。彼女を愛しているんです。僕は絶対に彼女を幸せにします!」
真剣な目をしながら、フランシスは父に向かって、お願いですと許しを請うた。
父は腕を下げたものの、厳しくした目はそのままだった。
「……そうか。なら、構わん。この娘は好きなように連れて行け。だがその代わり、この娘は私の娘として嫁に出すことは許さない」
「何ですって!?」
視線を私の方に父は向けた。
「さあもう、お前は私の娘ではないのだから、この男と共にすぐ出て行け! そして、二度と我が家の敷居を跨ぐことは許さん!」
父は使用人たちに、すぐに私の荷物を纏めろと叫んだ。
「お母様……」
たまらず私は母の方を見た。でも、母は私から視線を逸らして、冷たくこう言い放った。
「シシリー。よく考えなさい。私はこの家に嫁いできても、彼から経済的な援助を受けた事はありません。私は実家があるからこそ、今までこうやって、ドレスやら宝飾品なども持てたのです。でも、あなたがこの人と結婚するなら、私たちはあなたを援助する事は一切ありません!」
おそらく、夫婦で意見が心から一致したのは今回が初めてなのではなかろうか。
「言っておきますけど、私の実家だって、あなたを養子にすることはありえないですからね。フランシスさん……でよかったかしら? この娘をただの娘として引き取るのであればどうぞ。それなら私たちは止めません」
私は不安な目でフランシスを見た。
彼からしたら、貴族ではなくなった娘なんて何のメリットともないだろう。結婚だって認められなくなるのだから。
「そうですか。わかりました」
彼は静かにそう言った。
それならば、この話は無かったことにしよう。シシリー、さようなら。
私は彼からそう宣言される事を覚悟した。
「もうあなた方と、彼女は何の関係もないとわかって安心しました。これでシシリーはなんのしがらみも無くなった。では行こう、シシリー」
そう言って彼は、私を手に取ると、そのまま連れて屋敷を出た。
父と母は彼の行動に驚き、何と非常識な、やはり肌の色が違うと……彼に向かって大変無礼な言葉をぶつけていた。
ジョナサンだけが、去っていく私のことを心配そうに見つめていた。
「ごめんなさい」
私は馬車の中で、彼にそう漏らした。
「私はもう何にもない。こんな女を貰うなんて、あなたが逆に恥ずかしいと思われてしまうに違いないわ。あなたの負担にはなりたくない……」
私は涙をボロボロこぼしていた。
「そんな事ないよ。言ったじゃないか。事情はわかってるって。反対される事は予想してた」
これで涙を拭いてと彼は私にハンカチを手渡した。
「僕はね、こんな生まれで他人から不幸な存在と見られがちだけど、でも実際は、とても運がいい人間だと思ってる」
彼によれば、男の私生児であれば孤児院に引き取られることが大半なのに、自分は母方の実家で育てられたうえ、きちんとした教育も受けさせてもらえた。
さらには、爵位も本来はもらえず、良くて神職、次に軍隊かと思っていたところ、家を継げることになった。
「それに僕の祖父母は強制的に結婚させられたとは言え、奇跡的にとても仲が良かったんだ。僕も結婚するなら、二人のようになれたらと思ってた。だから、かえって自分で相手を探すことができて良かったと思っているよ」
でなければ、僕たちは出会えなかったじゃないかと彼は微笑んだ。
「それに、結婚という形に拘るってそんなに重要? 僕からすると、家を保つためと言うけれど、貴族たちにとってのただの見栄の張り合いにしか見えない」
決まった路線から外れた僕たちは、貴族たちにとっては恥ずかしくて、不幸な存在かも知れない。
でも、そんな他人の基準でしかないのだから、気にしなければどうなんだろう? それでも不幸かな? と優しく私に聞いてきた。
「それに君の母君は経済的なことを言ってきたけど、それについても一切心配はない。あれだって、結婚後も娘を支える財力があるって貴族のただの見栄と、気に食わない妻に対して、経済的な不自由を与える夫側の嫌がらせだろうからね」
フランシスは何も心配はないという代わりに微笑むと、明るい日差しが当たる外を眺めた。
◆◆◆
私はフランシスの家に着くなり、目を丸くした。
「殿下。もしかして、こちらの方が例のご結婚を考えていらっしゃる方ですか?」
私たちを出迎えてくれた二人は、使用人にしては妙にいい身なりをしていた。
それにしても、殿下とは? おかしな呼び方をする使用人だと私は首を傾げた。
「ああ、そうだよ。彼女が僕が結婚したいと考えているシシリーだ。シシリー、こちらはローシュ国の使者だ」
なぜ、いきなりローシュ国なんて出てくるのだろう。
私はよくわからず、眉間にシワを寄せて首を傾げると、細かい話は家の中に入ってからだとフランシスは言った。
応接室に入って席に着くなり、フランシスは私に説明を始めた。
「実はね、一週間ほど前、僕にローシュ国の王太子になってほしいと彼らから打診されたんだ」
「ええ?!」
よくわからない展開に私は叫んだ。
ローシュ国と言えば、珍しい水晶が採れることで有名で、経済的にはかなり潤っている国だ。
それなのに、今、私たちがいるのは宮殿のような豪華な屋敷ではなく、ごく普通の貴族の家だった。
彼の話が本当なら、王太子ともあろう人がなぜこのような家に住んでいるのだろう。
「二人によると、僕の父はローシュ国の国王なんだそうなんだ」
「ええ?!」
フランシスによれば、亡き母の恋人はローシュ国の国王・リステル3世だったそうで、二人は若い頃恋に落ちたが、結局母は家族を捨てられないと彼の元を去った。
しかし、その時彼女は彼を身ごもっており、リステル3世にそれを伝えずに出産して亡くなってしまう。
一方でリステル3世は、フランシスの母が忘れられずに未だ独身だった。
ところが、彼はひょんなことからフランシスの事を知り、母も育ててくれた祖父母も亡くなって一人なら、ぜひ王太子としてローシュ国に来て欲しいと言ってきたそうなのだ。
確かに、使者から見せられたリステル3世の肖像画はフランシスと同じシナモン色の肌をしているし、顔立ちもそっくりだ。彼らが親子であることは明らかだった。
「でも僕はこちらの国で育ち、祖父母が遺してくれたこの家にも愛着を持っているから、離れることを決意するのは凄く悩んだ。だから、彼らにはある条件を飲んでくれたら、行くことにするって伝えていたんだ」
「その条件というのが、あなたとの結婚を無条件で認めて欲しいと言うものだったんですよ」
ローシュ国の使者のうちの一人で、青い服を着た人がそう言った。
「王太子である以上、結婚相手の選定はシビアになってくるだろうから、と。まあ、水晶を目当てにしたような相手ではない限り、我々は殿下に来てもらえさえすれば、反対するつもりはありませんでした」
そう言ったのは、赤い服を着た方の人だった。
しかし、私は微笑みながらそう提案してきた彼らに戸惑った。
「状況はわかりました。でも私は諸事情あって、今は貴族の娘ではないのです。それでも本当によろしいのですか?」
私は貴族の娘としては育てられたが、ローシュ国のことは全くわからないし、王太子妃としての心構えだって学んだことはない。
先ほどの件も含めて彼らに懸念点を話すと、二人は顔を見合わせて、一瞬黙った。だが、すぐに大きく笑った。
「はっはっは。なんだそんなことですか。それならば、いっそのこと、殿下との愛をとった健気で努力家な女性というストーリーにしましょう!」
「え? ストーリー?」
「はい。殿下と結婚するために、全てを捨てる覚悟でやってきた女性として。我が国に来るためには、もちろん礼儀作法や文化も知っていただく必要がありますが、勉強のしすぎて熱を出したとか、そういう設定も盛り込んでいきましょう。それならば、国民もきっと受け入れてくれるはずです」
そういうわけで、私はフランシスとローシュ国に渡るため、数ヶ月間彼の家で様々な勉強をしながら籠ることになった。
当然それは大変なものだったが、フランシスといられるのであれば、我慢できる苦労だった。
そうして、さまざまな準備を終えて、いよいよもうすぐ旅立つとなったある日。
私とフランシスは、旅立つ前にこの国の思い出を作っておこうと、誰でも自由に出入りできる大きな舞踏会に行くことにした。
煌びやかな会場内に入れば、たくさんの人で賑わっていた。
もし、不本意な結婚をしたのであれば、こういうところで私も虚しさを埋めする相手を探していたのかもしれない。
私は廊下で二人だけの世界に入っている男女をしり目にしながら、そう思っていた。
すると。
私とフランシスの目の前に、女性を連れた見たことのある男が現れた。
変なメガネをかけた男。つまりパトリックだった。
「おや? 誰かと思ったら、婚約破棄令嬢じゃないか!」
パトリックがまるでアピールするかのように、大きな声を出したため、周りにいた人たちは私たちのことをジロジロと見た。
「はー、それで新しい婚約者というのは、このシナモン色の肌をした彼なのかな? いやあ、とんでもない選択だ!」
そして笑うと、見ろよ、婚約破棄するような非常識な女は、こんな男しか捕まえられないんだぜ? と、こちらにわかるようにして、彼は自分のパートナーに向かって囁いた。
私のことだけならともかく、フランシスのことをバカにするのはとても腹が立った。
だが───
「相変わらず気持ち悪い人! あちらにいきましょう」
私はそう言ってフランシスの腕を引っ張るようにして、その場を離れた
他にも言いたいことはあったが、この男とは口を利くだけでも、目に入るだけでも吐気を催しそうな感覚がしたので、私は一刻も離れたかった。
パトリックは私に向かって逃げるのか! バカ! ブス! とか叫んでいた。
やはり離れて正解だった。
なんで本当に絡んでくるのだろう。婚約破棄されてよほど悔しかったのだろうか? まあ、それはどうでもいい。
それよりも、私が気になったのは彼の隣にいた女性だ。ワガママボディのマルティーナではなく、可愛らしい顔をした女性だったのだ。
ただ、ドレスは明らかに流行遅れで、宝飾品も地味なものだった。
おそらく、彼女が彼の新しい婚約者なのだろう。でなければ、あんな可愛らしい人を連れられるはずがない。お金を積まれて、きっと無理やりそうさせられたのだ。
私は、全く幸せそうに見えなかった彼女に対して、私のように逃げられるといいのに、と同情するしかなかった。
◆◆◆
それから、私たちは無事にこの国を出てローシュ国に向かった。
ローシュ国では、国王が初めて息子に会えたことを涙して喜び、同時に私を温かく歓迎してくれた。
結婚式も盛大に行われ、使者たちが私たちをよく見えるように、巧みにアピールしてくれたため、肯定的に私たちは国民に迎え入れてもらえた。
しかし、そうなってくると、国民たちは私たちが一体どういう人物なのかと、ますます知りたくなってくるようだ。
私たちは、まず最初に親しみやすい印象を持ってもらうことが大事だと広報係からアドバイスされ、本格的に公務が始まるまで、なるべく新聞社の取材を受けてくれないかと依頼された。
もちろん、私たちも王族になったとはいえ、国王陛下のように堂々として、取材慣れしている訳ではない。
話し方の猛特訓を受けたものの、それでもまだ完璧とは言えなかった。
そのため、事前に広報係がチェックした質問内容と新聞社の名前を書いたリストを渡してもらい、質問に答えられるようにしていた。
しかし、その中にどこかで見たことがある名前の新聞社があった。
「すみません、このパッキー&ウィガムというのは、どちらの新聞社ですか?」
気になった私がそう尋ねると、広報係はこの新聞社はローシュ国ではなく、故国の新聞社であると教えてくれた。
その瞬間、私の背筋に冷たい水が掛けられたような感覚が起こった。
どこかで見た覚えがあると思ったが……これはパトリックの家が経営に関わっている新聞社だったのだ!
質問内容を確認する限り、突拍子のないものは書かれていないが、おそらくあちらの国では、私があまりにも非常識な女であるという印象に変換して書き上げるに違いない。彼ならやりかねないだろう。
「この新聞社だけ、外してもらえますか?」
変なことは書かれたくない。そういう思いで広報係に尋ねたが、彼女からは変な質問ではないので、断ることは難しいと伝えられた。
そのため、私は渋々取材を受けることになった。
「どのような家庭を築きたいと思いますか?」
「理想のお子様の人数はいくつですか?」
「夫として殿下に求めることは?」
私はどうせ、悪いように書かれるんだからと、自分の思っていることをありのままに話した。
そして、取材を終えて帰ろうとしている記者に、一応は釘を刺しておくことにした。
「記事がどのように書かれるのか楽しみです。ですが、皆さんに正しく情報を伝えていただきたいので、言ったことと全く違うことを書くのは無しにしてくださいね」
笑顔で記者たちに向かってそう伝えると、やはり何か隠していることがあるのか、彼らは作り笑いをしながら足早にその場を去って行った。
それから少し経ち、私が受けた取材が新聞に掲載された。様々な紙面を確認すると、皆、好意的に私のことを書いてくれた。
唯一、一社を除いては。
それはもちろん、パトリックの新聞社だった。
確かに私が話した内容は正確に書かれていて、一見すると誉めているように見えた。
しかし、あの風習が常識だと思っている貴族が見れば、私とフランシスがかなり非常識な人間だと思うに違いないという内容だった。
「はぁ」
私が大きくため息をつきながら、その新聞をテーブルに置くと、その場にいたフランシスが手に取ってその記事を読んだ。
ふふっと彼は軽く笑った。
「まあ、あちらにとっては僕たちはとんでもない人間だろうね。でも、もうあちらの国の人間ではないんだから、気にすることないよ」
彼は首を横に振りながら、読み終えたその新聞を丸めてゴミ箱へと放り投げた。
だが、この時の取材がその後、故国の状況を変えるとは私は一切想像をしていなかった。
◆◆◆
それから10年の歳月が流れた。
私とフランシスは4人の子供たちに恵まれて、私たちの理想としていた家庭を築き上げていた。
フランシスも気さくな性格のおかげで、貴族からも平民からもとても愛され慕われていた。
細かい話をすれば、全て順調だったかと言えばそうでもないが、それでも私たちが国民に対して常に実直で、穏やかな家族を保つことで、私たちはもはや国の一部であると認められていた。
そんなある日。
私は宮廷が主催するチャリティパーティーで、来場者一人一人に挨拶に回っていた。
すると、突然、複数の女性たちからシシリー様! と声を掛けられた。
「勝手にお声がけする無礼を、どうかお許しください。でも、どうしてもシシリー様に感謝したかったのです!」
私にそう話しかけてきたのは、全く見覚えがない若い女性たちだった。
「どのようなご用件ででしょうか。大変失礼ですが、私があなた方にどういったことをしたのか覚えておらず……」
すると、そのうちの一人の女性がご存知なくて当然ですと返した。
「実は、昔、王太子妃様のご結婚時の記事を読み、感銘を受けたんです! 私たちも同じ国の出身なんです!」
彼女によれば、記事を子供の頃に読んで、親からの影響もあり、その時はなんて非常識なんだと思ったそうだ。
しかし、自分も年頃を迎えて初めて婚約者に会った瞬間、すぐに逃げ出したい気持ちに襲われ、私の気持ちをそのとき初めて理解した。
そして彼女はとある夜会で、この国の商会を運営する男性と知り合い、駆け落ちする形でこの国にやってきたのだという。
「シシリー様の記事を読まなければ、望まない婚約を解消する決断をしようとは思いませんでした。それにあの国では、私と同じように、今よその国に逃げたり、平民の男性と添い遂げようとする若い女性が多いんです。どうして、皆、あんな風習に従ってたんだろうって首を傾げています」
彼女は目に涙を浮かべながらそういった。
実は、私はあのとき受けた取材でこう答えていたのだ。
「夫婦がお互いに愛し合い、子供を大切に思いながら二人で育てていく家庭にしたい」
「理想の人数は特に決めていない。それに子供については、こうのとりに聞かないとわからないし、多いことが必ずしも正解ではないと思う」
「殿下には、いつまでも健康でいてほしい。ずっとそばにいてほしいので」
そして、最後に最愛のフランシスと結婚できてとても幸せに思うと、私は記者に向かって思い切り惚気たのだ。
「私も今、好きな人と結婚できて本当に幸せなんですよ。勇気をだして、あの国を飛び出してよかったと思います!」
では、失礼します! そう言って彼女たちは笑顔でその場を去って行った。
だが、この話はこれだけに終わらなかった。
それから、一ヶ月ほど経ったある日。侍女が困った様子で私に声をかけてきた。
「シシリー様。面会のご依頼が来ているのですが、依頼者が実の両親だと言い張っています。どうしましょう?」
「なんですって?」
確かに待たせている彼らを見れば、私の両親だった。なぜ、今更会いにきたというのだろう。
私はとりあえず彼らに会うことにした。
「久しぶりね、シシリー。あなたがまさか王太子妃になるなんてびっくりよ」
母はそう言って笑顔を見せたが、父は腕を組んで椅子に座って踏ん反り返っていた。
「それで、一体何のご用件なんでしょう?」
私は嫌な予感しかしなかったが、父の顔をちらちらと窺うようにして見る母に向かって尋ねた。
「実はね、あなたのところの水晶なんだけど、うちの国で販売するルートを我が家に優先、いえ独占させてもらえないかしら?」
やはり。母は私が王太子妃であることを利用して、自分たちを優位に働かそうとしてきたのだ。
あの水晶は故国で高値で売買されているし、独占販売できたら、彼らは一気に国内でも資産のある一家になる。
しかし、私は毅然とした態度で、王室の信用問題に関わるからそんなことは出来ない、とキッパリ断った。
すると、突然父は顔を赤くして椅子から立ち上がると、私に向かって怒鳴りつけた。
「この恩知らず! お前のせいで、我が家は破産寸前なんだぞ!」
父は私が受けた取材のせいで、国中の貴族たちから非難を浴びて恥をかき、領地の運営もうまくいかず、その上今年は天候による不作で思うように収入が得られないのだと叫んだ。
「この親不孝ものめ! 子供なら困っている親を助けるのが当たり前だろう!」
だが、私は引かなかった。
「そんなの知りません! 第一、あなた方は私とは無関係だと縁をお切りになったのでしょう。それなのになぜ助ける義理があるというのですか?」
「それはあなたの親だからでしょう! 血を繋がった親を見捨てるというのですか!」
母が思い切り私に向かって、冷たい子! と叫んだ。
昔の私であれば、そんなことを言われたら傷ついていただろう。でも今は私だって4人の子の母だ。
「実の子だと思うのなら、よくそのような酷い暴言を言えますこと! ええ、でも、確かに冷たい親から生まれたので、冷たい子として育って当然かもしれませんね!」
自然と私はそう返していた。娘というよりも、同じ母親として、身勝手に振る舞い、愛情をかけなかった彼女に無性に腹が立って仕方なかった。
そして、父にもこう言い返した。
「運営以前に、あなたが今テーブルに出している趣味の懐中時計は、最新式の非常に高価なものではありませんか。相当数持っていらっしゃいますよね? しばらく購入を控えれば赤字にはならなかったはずです。破産が心配なら、まずは支出面を見直して、それらを売り払ったらいかがですか!」
私がそういうと、父は拳をふるふると震わせた。
「黙って聞いておれば、調子に乗るなんて……大人しくいう事を聞け、このバカ娘!」
そして、昔のように私を殴りつけようとしたため、すぐさま近衛兵が彼を取り押さえた。
「本来でしたら、このような振る舞いをすれば、あなたは牢屋に入れられて何年も刑を受けることになるでしょう。でも親子の情をかけて欲しいということなので、お帰りいただくだけに留めます。そして二度と私の前に現れないでください」
私は怒りで顔を赤くしている父と、助けてもらえないと顔を青くしている母に背を向けて、振り返ることなくその場を去った。
その後、母からは懲りずに私宛に何度もお金を工面して欲しいという手紙や、他の兄弟からも実の子供なんだから助け合って当然ではないか、と説教じみた手紙が届いた。
でも、私は全部無視した。だって私は冷たい娘なのだから。
結局、私のかつての実家は運営がうまくいかず、父は爵位の喪失は免れたものの、領地の半分を失うこととなり、跡を継ぐ予定だった兄と大喧嘩をしているという。母については実家に戻ったものの、肩身の狭い思いをしているそうだ。
「いやぁ、本当にすごいんですよ。国がどんなに規制をかけようとしても、若い子たちは話を聞こうともしない! 平気で無視をする!」
そう言ったのは、執事のジョナサンだ。先ほどの実家の詳しい話は彼から聞いていた。
ところで、なぜジョナサンが私と話しているかというのだが。
実は困窮した実家から首を切られてしまい、就職先を求めてジョナサンが私を頼ってきたので、それならば今後は悠々自適にこちら過ごせるよう、フランシスと私を取り持った恩人として彼をこの国に招いたのだ。
現在、彼は執事業を引退しているが、暇つぶしとして自宅で紅茶の淹れ方教室をたまに開いている。様子を伺いに久しぶりに彼に会うと、昔と変わらず美味しい紅茶を淹れてくれた。
「子育てには自分も積極的に関わりたいという殿下の発言も、親世代以上には問題視されてましたけどねぇ」
そうなのだ。ローシュ国であれば男性が子育てに関わるのは当たり前の感覚なのだが、故国では子育ては女が担当するものであり、男は関わるべきでないと言われていた。
しかし、どうやらフランシスの価値観も、若い貴族女性たちに衝撃を与えたらしい。
好きになれない上に、愛してさえくれない。ドレスや宝飾品を贈ってくれるわけでもないし、子育ても別にする訳ではない。
利点と言えば、貴族の妻であるというステータスと、協力してくれるのは子作りだけ。
……結局それは自分たちに一体何のメリットがあるか、と。
それに対して、裕福な平民の男性は違った。
お金のある彼らが高級品の次に欲しがったのは、お金では得られない上流階級の教養や優雅さだった。
そのため、彼らは貴族女性を妻にしたがったが、彼女たちは婚約者がいたり、結婚していたりするため、なかなかそうすることができない。
そうして、彼らはなんとか彼女たちを手に入れようと、とても紳士的な態度で接したり、高価な贈り物をしたり、手に入れられたら彼女たちを宝物のように大事にすることを心がけていた。
しかし、そういった男性と関わるのは恋人としてならともかく、内縁関係となるのは貴族としての誇りを捨てることだと、貴族の女性たちは親からも周りからも昔から言われていた。
もちろん私も。そう言ったしがらみのなかで、行動を起こすのは当然かなりの勇気がいるものだろう。
なぜ、そうなったのだろうか。
「結局、皆んな他人の目ばかり気にしていたから、お互いに我慢していたようです。けれど、それが一人や二人ではなく、一斉に行動し始めたらどうでしょう。若い人なんて三年も経てば、世代としての価値観はガラリと変わる。彼女たちは別にそれならもう結婚しないで、内縁関係のままでよくないか? と、相手が気に入らなければどんどん婚約破棄しているようですよ」
自分たちの国の方が変だったと気づいた女性たちは、それならば貴族としての誇りなんて要らないと、大事にしてくれる平民の男性たちを選んでいるという。
さらには、古い慣習に縛られた家族や周りが煩わしいと恋人と共に海外に逃げたり、次男や三男のため貴族でも家督はないが、穏やかさで知られる神職の男性を選んだりしているそうだ。
ちなみに、と彼は続けた。
「お嬢様の元婚約者のパトリック氏ですが、その後、どうなったと思います?」
「そんな人も居たわね……どうなったの?」
ジョナサンによればこうだった。
彼は、その後、貴族の婚姻を困難にさせた根本的な原因として、私の実家以上に他の貴族たちから大変恨まれた。
その上、自分よりも格下だと思った人間に対する態度の悪さも仇となり、評判を気にした他の貴族たちからの取引停止はもちろん、社交界でも無視されるようになったそうだ。
「ええ……それなら、彼と一緒にいた新しい婚約者と思われる女性はどうなったのかしら?」
「ああ、お嬢様知ってらしたんですね。彼女ですが、記事がでたあと、割とすぐに彼と婚約解消したそうですよ。たしか舞踏会で幼馴染の男性に手を引かれて、そのまま駆け落ちしたとか。でも、二度も婚約破棄となると、さすがに本人に問題があるのでは? と社交界では囁かれていたこともありましたねぇ」
私は彼女も逃げられたと聞き、安堵を覚えた。
そして、パトリックの方は強烈だったマルティーナにも逃げられ、一家は離散し、親戚中からも居候を断られ、今はマルティーナへ貢いだ物への借金返済のため、荒波が押し寄せる海で漁師をしているという噂だそうだ。
「そういえば、動物学者が書いた本をむかし読んだことがあるのですが、猫は恋の季節になると、オス同士が争ってメスを手に入れるのが定説ですが、どうやらそうではないこともあるんだそうです」
「そうではないこと?」
「ええ。これはとても珍しいことだそうですが、戦いに毎回負けてしまうオスはどうしたか。ある時、彼は奇跡的にメスを手に入れたものの、すぐにメスの元を去らず、なんと一緒に子育てをして子供を守ったそうです」
「えっ、そんなことがあるの?」
「はい。それから、翌年また恋の季節になるわけですが、その時、なんとメス猫はオス同士の戦いに勝ったボス猫に背を向けて、昨年子育てを協力してくれたオス猫を見つけると、彼に向かって走って行ったそうです」
「……つまり、力づくで奪おうとしたオスではなく、優しくしてくれたオスを選んだ訳ね」
「はい。知恵のある人間なら尚更そういった行動をすると思いませんか? 社会的なしがらみはあっても、大事にしてくれた人の方に行きたくなるのは当然でしょう」
私はジョナサンを見つめて、肩をすくめた。
「あの国は今後、どうなってしまうのかしら?」
「さあ、どうなるんでしょうかね。少なくともそれに気づかずに、無理やり昔のまま通すのであれば、あと5年もすれば限界が来るのではないですかね」
「あらあら。すごい見立てね。でも、私はもうあちらの国の人間ではないから、なんとも言えないけど」
私はそう言って、また紅茶を一口含んだ。
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