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佐藤一樹 僕は誰?

1ー


デスクの電話が鳴った。

また、訳の分からない問合わせか?

ため息をひとつついてから、受話器を取った。

「はい、経理課、佐藤です。」

くぐもった女性の声が

「わたくし、コノハナサクヤ生命の落合と申します。今、お電話よろしいでしょうか?」

コノハナサクヤ生命?ネットで見たことのある名前だなあ。

「今、仕事中です。業務に関係ないお電話はお断りしています。」

若くはないと感じる声が

「では、お昼休みにかけ直してよろしいでしょうか?」

「どうぞ」

どうせ勧誘だよな。

しばらくすると仕事に紛れて忘れてしまっていた。

昼は社食に行く、あまり評判のいい食堂ではないが、外に行くと待つし高い。とにかく並ぶのが嫌いだ。

考えるのも億劫でいつも日替わり定食だ。

よりによってハヤシライスか・・

嫌いではないのだが、ここのは不味い!最悪だな・・


不味いハヤシライスを腹に収めて、デスクに帰ると机の下から枕を出して突っ伏した。

あぁ、至福のひと時。気持ちよくなって、いつの間にか意識が薄れ始める。

と、電話が鳴りだした。

くそ!大事な昼休みを!

「はい、経理課、佐藤です。」

「あ、午前中にお電話しました、コノハナサクヤ生命の落合でございます、今お時間を頂けますでしょうか?」

そうだった、鬱陶しい・・

「はい、何のご用でしょうか?」

電話の向こうでほっとした雰囲気が伝わり、

「佐藤様にご契約頂いております保険の毎年のアフターフォローに伺いたいと思います。実は何度かご自宅にもお伺いしたのですがお会い出来ませんでしたので、失礼とは思いましたが会社に連絡させていただきました。」

??

「コノハナサクヤ生命ですよね。人違いでは有りませんか?」

「いえ、佐藤様の給料から毎月引き落としさせていただいてますので。」

??

「そんなはずないんですけど・・、まぁ、お会いするのは構いませんよ。」

ほっとしたように、

「今、御社の一階ロビーに来ているのですが。」

つい苦笑いしながら、

「では、5分で行きます。」

なんか、嵌められたかなぁ、どうせ、勧誘だよな?


一階ロビーに行くと明らかに生保レディらしい格好をした二人が立っていた。

私を見ると

「佐藤様でしょうか?佐藤一樹様?」

はい、

「コノハナサクヤ生命の落合と申します。」

「金沢と申します。」

と名刺を差し出してきた。

金沢と名乗った30代とおぼしき女性が、

「ご自宅にも何度かお伺いしたのですが、お会いする事ができず、今日になってしまいました。」

ふぅ、と一息付いて笑顔で、

「やっと探し当てたって感じです。」

はあ、

「全く覚えが無いんですが?」

二人は顔を見合わせて、今度は50代だろうか?明らかに上司の落合が、

「失礼ですが、奥様はレイコ様ですよね。」

やっぱり、

「違います。まだ、独身です。離婚した訳ではありません。」

えっ、

「では、人違いでしたか?やっと探し当てたと思いましたのに。」

これで終わりしようと思ったが、がっかりする二人にちょっと同情して聞き返した。

「うちの社員なんですか?」

ええ、

「保険料は毎月の給料から引き落としされていますので間違いないのですが、佐藤様は御存じありませんか?」

「どこにもある名前ですから・・、でも同姓同名ならいたら覚えていますよ。」

困った顔の二人は、

「本日はご迷惑をおかけしました、ありがとうございました。」

「もう少し、探してみます。」


2ー


散々な昼休みだったな、結局、寝損ねてしまった。

昼からが億劫だ。

周囲の社員たちがぼちぼち戻り始めていた。となりの菅原係長が、

「佐藤さん、なかなか旨い定食屋を見つけましたよ。今度行きましょう。」

ええ、連れて行ってください。


午後は何となく保険のことが気になり職員名簿を検索してみたがやはり『佐藤一樹』は他に居なかった。何かの間違いだったのだろう。

残業を適当に切り上げ、近所のスーパーで晩ご飯と缶チューハイを買って帰った。

アパートは8階建ての6階602号室1DK、ナンバーロックを開けて暗闇の室内に入る。

また、昼に会った保険レディの事が気になっている。

もう一人の俺は既婚者だと言ったよな、家に帰ると電気が付いていて誰かが迎えてくれるのかな?

そう思いながら、電気のスイッチを入れた。

昼白色の蛍光灯に照らし出された玄関は靴とビニール傘が乱雑に放置され、シューズボックスの上には、フリーペーパーやDMが放られていた。

なんか、一人暮らしだよな・・

ひとりで食べる夕食、

ひとりで飲む酒

ひとりで寝る夜

どれも当たり前で、自由の証だと思っていた。

違う世界があるのかな?

奥さんの名前レイコと言ったよな。高校、大学時代の憧れの人と同じ名前だ『横尾玲子』。碌に話したこともないんだけどね。でも、一度だけチャンスはあったよな。

あの時、上手く答えられていたら少しは親しくなったんだろうか?

ベッドに横たわり、あの時に還っていた。

高校3年3月卒業式。

「佐藤君。一緒の大学だね。」

なんと、玲子から声をかけてきた。

「そ、そだね。」

いきなり血圧が100も上がるような感覚、足が地面についていないような感覚で、そう答えるのが精一杯だった。ただ、それだけ。その後、玲子は僕の顔を見て、そして何処かへいった。

大学が同じでも学部が違った、テニスサークルで活動する玲子を何度も見かけた?いや見に行ったし、わざとらしくすれ違ったこともある。でも、声をかけることは出来なかった。

もし、どこかで声をかけることができていたら?

今日くらい夢見てもいいよね。


3ー


朝、日の出とともに起きるのが習慣だ。そのために、東向きの部屋を探した。当然、カーテンはない。

冬はこの時間が出勤にちょうど良い。

途中の立ち食いそば屋でそばを啜って行く。全ては自分が決めたルーティンだ。誰にも文句は言われない。


始業30分前に自分のデスクに座る。

家から持って来た水筒の水を一口飲む

パソコンを起ち上げネットでニュースをチェックする。

始業と同時に課長に呼ばれた。

「第3営業所に行ってくれ。」

えっ、異動?

顔色を読み取ったか課長が笑いながら

「出張だよ。明日から3日間頼む。所の経理担当が急に退職したんで、引き継いだ社員が悲鳴をあげているそうだ、教えてやってくれ。」

びっくりしたぁ、あんな田舎に飛ばされるのかと思った、冷えたぁ。


朝一の新幹線に乗り在来線に乗り換えて最寄り駅まで来た。

確か・・右手に歩いて5分ぐらいだったな?

一応、駅前にはビル街があるし、それなりに飲食店もある。

故郷と変わらない感じがいやなんだよな。

「よう!佐藤じゃないか?」

後ろからダミ声がした。後ろを振り返ると同期の安藤が笑顔で手を挙げた。

「なんだ、今日はうちに出勤か?バリッとスーツなんか着て?良いことでもあったのか?今日一杯行くか?」

こいつ喋り出すと止まらんからな。

「まぁ、あんな美人の奥さんがいると外に飲みに行こうなんて気にならんやろな、羨ましい!この野郎!」

言いたいことだけ言って、先に行ってしまった。

何なんだ、一体。奥さんなんて誰と間違ってるんだ、相変わらずそそっかしい奴だ。


営業所は、2階建の小さな建物だが敷地は広い、営業車両に工事車両、機械類の置き場と広い敷地だ。

2階に上がり、総務課のドアを開ける。

奧の方から手を挙げる人がいる。

「佐藤君、こっちこっち」

周囲の人に会釈しながら奧へ進むと

50代だろう?恰幅のいい人が、

「助かったよ!ほんと困ってたんだ。」

と言うと立ち上がり、20代中頃と思われる眼鏡を掛けた青年に、「第1営業部から先生が来てくれたぞ。よく教わるんだぞ。」

私に向かって、頼みます。と言うと席に戻って行った。

あのう、第1営業部じゃなくて本社経理部なんですけど!


それから3日間、みっちりとと言うか何度もと言うか、飲み込みの悪い青年に手とり足取り教えて、夜は駅前のビジネスホテルでやっぱり缶チューハイで過ごした。

3日間のレクチャーが終わる頃には、彼もいっぱしの経理マンになった?ちょっと危なっかしいが。

だが、終わった!やっと解放された。他人に教えるのはホント難しいな、と実感しながらどこへも寄らず帰りの新幹線に飛び乗った。今日は週末、帰りにいつものスーパーでいつもの缶チューハイとつまみを買って帰ろう。徹夜でゲーム頑張るぞ!


4ー


缶チューハイやつまみを入れたエコバックを提げ、3日間振りにアパートに帰った。

ナンバーロックに暗証番号を打ち込む。ん・・開かない・・

再び試みる・・やっぱり開かない。

何故、なぜ・・どうしたらいい?

番号を押し間違えた?・・いや、番号を変えたことはないし、単純な繰り返しだし・・

もう一度入力したが、結果は変わらなかった。

どうしよう?

そうだ!管理会社に電話だ!

スマホの電話番号を検索し、電話をかけると「只今、業務時間外です。」

あぁー、どうしよう。エレベーター前で佇んでいるとエレベーターが止まりドアが開いた。20代だろうか、かなり長身の女性が降りてきた。自分を見ると一瞬戸惑い、頭を下げて通り過ぎた。何となく女性を目で追っていると僕の部屋の前で立ち止まり、こっちを警戒するようにチラチラ見ながらナンバーを打ち込んだ。

えっ、えぇ~どういうこと?

戸惑っている間に女性はドアを開け中に入っていった。

??

頭が付いて行かない。

どういうこと?

部屋が盗まれた!

この3日間で何があったんだ?

頭の中がグルグル回るが、結論は当然ない。

この後どうする?警察に行くか?

止まっていたエレベーターに乗り、とりあえず1階に降りた。

もう一度、エレベーターに乗り直し6階ボタンを押した。

降りた6階はさっき居た階で間違いなかった。

とにかく今晩の宿を確保しなければ・・

気がつくと駅前に来ていた、とりあえずネットカフェにでも入ろう。

何度か使ったことのあるネットカフェに向かった。


ネットカフェでは先ず今日の日付を確認した。

2025年9月27日・・間違いないな・・

何が違うのだろうか・・

暗い天井を見ながら目を閉じる。

3日間で何が起こったか?

アパートは鍵をかけて出た、強制退去になる理由があったか?

家賃はきちんと払っているし、近所とは付き合いはないがトラブルもない。・・待てよ、強制退去になったとして事前通告も無かったし、たった3日間で次の賃借人が入るなんて可能なのか?

ということは未だにあの部屋は僕の部屋で、あの女が何らかの方法でナンバーロックのナンバーを解読し、その後ナンバーを変更した。

ガバっと起き上がった。そうだ、そうに違いない。

明日もう一度行ってみよう。一人では怖いな、相手は犯罪者だ。警察と行ったほうが良いかも。


5ー


何となく気持ちが楽になっていつの間にか寝てしまっていた。

ネットカフェを出るとまだ8時過ぎだった。朝が得意なのでついつい早起きしてしまう、今日は特に興奮で早く目覚めたのかも知れない。

早く、アパートを取り返してゲーム三昧するぞ!

と既に多くの人々が行き交う駅前を交番の前まで来た。

何となく交番には入りにくい、悪いことはしてないぞ!と心の中で叫んでみる、でも入りにくいものは入りにくい。

2度3度行ったり来たりしているとお巡りさんの方から声をかけてくれた。

「交番にご用ですか?」

口調も優しく丁寧だ。ドラマで見る警察と違う!

「あっ、ちょっと困ってて、」

手を背中に回し、誘うように

「中に入りましょうか?」


交番のカウンターの向こう側に座るまだ若いお巡りさんはとても丁寧に聴いてくれた。

「では、佐藤さんが自宅に戻られると別の人がその部屋を使っていた、ということですか?」

はい。

「階を間違えたとか、隣りの部屋だとか考えられませんか?」

階が違う?確認したよね。

「いえ、間違いありません。」

そうですか、

「では、一つだけ、佐藤さんの住所が分かるものは何かお持ちですか?」

住所が分かるものですか・・

「いえ、免許証は家に置いてきましたし・・」

財布を出し、カード類を出してみるが住所が分かるものは無かった。

お巡りさんは、ちょっとお待ち下さい、と後ろの席に座る上司と相談をして戻ってきた。

「では、その場所に行ってみましょうか?ただし、佐藤さんは後ろにいて下さい。話は我々が聞きますので。」

用意してきます、と席を立った。


アパートのエレベーターでお巡りさん2人、一人は女性警察官で、見惚れない程度の美人である、制服姿がかっこいい。

6階に着き、部屋まで案内すると、女性警察官がチャイムを鳴らした。

しばらくして、「はい。」と女性の声で返事があった。

駅前交番の速水と申します。と警察手帳を拡げて掲示しながら名乗るとドアが開いた。

「なんでしょうか?」

怪訝な表情の女性に向かって、

「少し調査にご協力ください。」

と笑顔を向けると少し緊張が解けたように

「なんでしょう?私で分かることでしたら?」

速水巡査は笑顔を崩すこと無く

「お名前を教えていただけますか?」

名前ですか?

「池添瀬里奈27歳です。」

年齢は訊いてないんだけど、

「ありがとうございます。池添さんは何時からこちらにお住まいでしょうか?」

えぇと、

「確か4年になると思います。就職が決まってからですから。」

4年?

「失礼ですが、住所を証明出来るものをお持ちですか?」

??

「証明出来るもの・・ですか・・」

しばらく沈黙があった。

僕はそんなもの無いだろうと高を括った。

「免許も持たないので、ここの契約書で良ければありますけど。」

ちょっと取ってきます。

「そんなはずはない!」

思わず声が出た。

お巡りさんに両腕を掴まれ、

「静かにしてください!」

どうしても、どうしても我慢ができなかった、その時ふと思い出した、

「玄関のシューズボックス横のコンセント、下が使えないんです。確かめてください!」

契約書を持った池添さんが現れた、

「なんですかあなたは!昨日の夜もそこにいてストーカーみたいにこっちを見ていた気持ち悪いオジさんですよね!」

僕は両腕を掴まれたまま、後ろに引きづられた。抵抗しても全く刃が立たない。


速水巡査が、

「落ち着いてください。後で詳しくご説明しますので。」

池添さんは、契約書を突き出した。

「ありがとうございました。確認できました。」

契約書を返すと、あと一つだけ

「シューズボックスの横にコンセントがありますか?」

池添さんは、確認するように目を落とすと「あります。」

「下側のコンセントは使用不能ですか?」

えっ、

「そんな事はないと思いますけど、ちょっと待ってください。」

と言うと奥からスマホと充電器を持ってきて差し込んだ。

「あっ、ほんと使えないみたい。」

速水巡査の後ろで、

「佐藤さん、一度交番に帰りましょう。」と無理やりエレベーターに乗せた。


6ー


僕とお巡りさんだけが交番に戻った。速水巡査は事情説明に残った。

今度はカウンター前に置かれたテーブルで警察官と向き合った。

「佐藤さん、あなたがあの部屋のことを知っているのは分かりましたが、4年前からあの女性が契約した部屋であることも間違いありません。」

僕はちょっと放心状態になっていた。

「では、僕はどこに住んで居るのでしょうか?僕は誰?」

テーブルに顔を突っ伏して、涙が溢れてきた。

「昨日まで普通に生活していたんです。」

困りましたね。

「勤め先に連絡してみましたか?」

頭を少し上げて、

「土曜日ですから月曜日までは誰も出ません。」

お巡りさんは、

「名刺をお持ちですか?」

「名刺ですか?いえ、持っておりません。デスクの引き出しには入っていますが・・社員証ならあります。」

財布から社員証を取り出した。

「会社は『メメントモリ』で間違いありませんね?ここに電話してみましょう。」

そう言うとカウンターの中に入り電話をかけ始めた。

暫くやり取りをした後、

佐藤さん、

「これから本社に行きましょう。」

そう言うと裏にいる上司の許可を取りに行った。

「引き継ぎ時間までに帰ってこいよ。」

という声で許可が下りたようだ。


職場は隣駅の側、電車に乗らなくても20分も歩けば着く。

途中で説明してくれた。佐藤一樹というものは在籍しているが詳しいことは個人情報なので電話では話せないということだった、警察なら行けば教えてもらえるらしい。

職場の通用門を入ると宿直室がある。

先ほど電話した警察のものです、と警察手帳を掲示した。

「申請書を書いて頂きます。すいませんねぇ、規則なもんで。」

自分がサインすると

「本人ですか?」

お巡りさんは、ニコニコしながら、

「過去の記憶が少し混乱しておられます、警察で協力しているところです。」

社員証をお持ちですか?

「ここに」と手渡すと

宿直員はパソコンのカードリーダーに社員証を通しながら

「そうですか、大変ですね。」

直ぐにプリンターからデータを印刷した用紙が出てきた。

これが佐藤一樹様のデータです。


氏名 佐藤(さとう) 一樹(かずき) 男性

年齢 32 

所属 第1営業部 係長

住所 ○○市○○区○○2丁目3−2

電話 090ー○○○○ー○○○○

緊急連絡先 080ー○○○○ー○○○○ 妻 玲子


「ありがとうございました。」

用紙を受け取るとお巡りさんが、

「良かったですね、これで家に帰れますね。でも、経理部というのは勘違いのようですね。」

自分が第1営業部?

妻がいて名は玲子?

「ご自宅までお付き合いしましょうか?ここから在来線の快速で5駅ぐらいですね。」

確かに住所から住宅地であることは分かる。

「ありがとうございました。これを見て少し思い出しました。自分で帰れそうです。」

お巡りさんは自分の肩を叩き、

「また、分からなくなったらいらっしゃい。」

というと笑顔で別れた。


7ー


実は何も思い出してはいない。

もし、ほんとに妻がいるなら無断で一晩帰らなかったんだ、電話ぐらいあるんじゃないか?

そう思いスマホを見ると不在着信が8件入っていた。

全て『妻』となっていた。いつの間に?

折り返すそうか?でもなんと言ったらいい?・・勇気が出ない・・

いつの間にか駅まで戻っていた。時計は15時をまわったところだ。そういえば今日は何も食べて居なかったな。

思い出すと無性に腹が減ってきた。立ち食いそば屋、ラーメン屋、牛丼屋っと、玲子は牛丼屋のカレーが好きだったよな。

えっ、何を言ってんだ。玲子って・・誰?

結局、牛丼屋に入りカレーを頼んだ。

その時、スマホが振動を始めた、いつものクセで何のためらいもなく応答してしまった。

「あなた、あなた大丈夫なの!」

しまったと思ったが、

「はっ、はい。大丈夫・・です。」

一瞬沈黙があり、

「よかったぁ・・心配したんだよ。ほんとよかった・・」

ほとんど涙声になっている。

なんて言おうか?

「夜には帰るよ。」

「待ってるからね。」

待ってる?この自分を。ずっと一人だったのに誰かが待っている?

何、なにこの感覚。

「・・玲子。」

泣き笑いの声で、

「名前呼んでくれるなんて何年ぶり?」

そうなのか?

「じゃあ切るよ。」

「じゃあね、今日はトンカツにするね。早く帰ってきてね待ってるよ。」

電話が切れると同時にカレーが運ばれて来た。

カレーを口に運ぶたびに涙が出た。

なんか玲子を知っている。


在来線に乗る。

4人がけの席に座り、外を見ていた。いつも見ている景色が過ぎていく。

40分乗って目的の駅に着いた。

いつもの出口から出る。

いつものバス停からいつもの34番系統に乗る。

そして、いつものバス停で降りた。

あぁ、帰ってきた。ここを知っている。次の角を曲がれば家が見えてくる。

足が止まった。ここを曲がる・・良いのか・・大丈夫か・・

恐る恐る角を曲がる。

顔を少しずつ上げる。

3軒目、我が家があった。建てたばかりの狭小の一戸建て。玲子とふたりで半分ずつ返済する住宅ローン。

空が落ちていく太陽に赤く染められ始めた時間。

僕の家の前に立った。でもインターホンを鳴らす勇気がない、

あっ、鍵を持っているじゃないか。

カバンの中を探すと鍵が出てきた。

玄関の前に立ち、右手で鍵を持っている。でも、腕が動かない。ここまできて・・なんてことだ。

俯くと中からカチャと鍵が開いた、そしてドアが開くと子供が飛び出して来た。

「パパ!おかえり!」と飛びついてきた。

準備してなかった僕は思わず後ずさった。そして洋輔を抱き上げた。『洋輔』僕と玲子の大切な子供。

今日何度目だろう、また涙が出てきた。

後ろから『玲子』が出てきて「おかえり!」と元気に迎えてくれた。

『玲子』高校時代から憧れの女性そして僕の愛する妻。

あゝ、幸せの家に帰ってきた。

玲子は昨日の事は何も聞かなかった。

「パパ、洋輔と遊ぶなら早く着替えて。」

はいはい、

と言いながら玲子を抱きしめ、耳元で「ただいま」と囁いた。


我が家では夜8時に洋輔を寝かしつける。寝る時に必ず本を読み聞かせるのが習慣だ。

いつもは僕が読んでいるが今日は妻が変わってくれた。

洋輔が寝ると二人で缶チューハイを開けた。

「なあ、玲ちゃん。」

「なによ、急にママから玲子や玲ちゃんなんて昔の呼び方して。」

「高校の卒業式の日のこと憶えている?」

「当たり前じゃない、絶対忘れないわよ。」

「玲ちゃんが、僕に話しかけてきたんだよね。」

「そうよ、でもその後一樹があんな事言うから顔から火が出たわよ。」

あんな事?

「まさか忘れたわけじゃないでしょうね、私が話しかけた後、いきなり『付き合ってください。』ってみんなの前で言ったじゃないの。」

えっ、

「私もついつい『はい』って答えちゃったけど。」

そうだったんだ。

「ついついだったの?」

「いじわるね。」


次の日は日曜日で、午前中家の家事を2人でこなし、昼からちょっと離れた広い公園に行く予定にしていた。

僕は独身の記憶と玲子の記憶の2つを持ったまま、まだ少し混乱している。

昼は僕がレタスチャーハンを作ろうと卵をボウルに解きほぐしていると玄関のインターホンが鳴った。

「ママ、出て!」

「いま手が離せない!」

仕方なく、インターホンに出ると

「コノハナサクヤ生命の落合と申します。やっとお会いできました。」












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