下準備は丁寧に、そして杜撰に。( Ⅳ )
アーシス王国の宰相を務めているのは……ボリス・マロー侯爵という、五十九歳の男であった。
かつてはその空色の髪と氷色の瞳から《氷華の貴公子》と呼ばれるほどの美青年であったが……その冷酷無慈悲さと、邪魔する者は表からも裏からも容赦なく〝始末〟していく残酷さから、直ぐに《氷雪の凶刃》などと呼ばれるようになった。例え白髪混じりになり身体が年相応に老けても、その冷たさは変わらない。
けれどそれらは全て、国のためであった。王のためであった。
当代国王であるレイフォード・フォン・アーシスはハッキリ言って、国王に相応しくない男だ。王子がレイフォード以外にもいたならば、絶対に彼以外に王位を継がせたかったと思う程度には……ボリスは彼を王として認めていない。
何故ならレイフォードは王族でありながら不用心にも市井に降りて──当然、ボリスが護衛を手配した──、平民の女なんざに本気になり、婚約者たる娘──現王妃──と婚約を解消しようとしたからだ。
婚姻は責務だ。正しい血統を後世に引き継いでいくために果たすべき義務だ。
更に、王妃となる女性は高い教養が必要となる。当然だろう。国を率いる国王を一番側で支え、国の民全ての国母とならなければならない。他国との交流もまた、王妃の仕事であるのだから……少なくとも諸外国の文化や伝統、言語などに精通していなければならない。それは一朝一夕で身につくモノではない。
それを知っていながら、何も出来ない平民を娶ろうとした。どこの血が流れているか分からない血を、代々受け継いできた王族の血に混ぜようとした。ただ一人の妻と──正妃としようとした。
そんな、色恋で王族の責務を放棄するような男に国を任せられるだろうか──? 少なくともボリスはレイフォードは王族として信用に値しないと、判断した。
だから、先代国王が病気で急死した時──取引をしたのだ。
混乱で揺れる国政を放置して、宰相の地位から身を引かれたくないのなら。愛しい女を始末されたくないのなら。
自身の娘である侯爵令嬢ベラと婚姻し、王族としての責務を果たせと──。
そしてボリスは国王のために、〝必要悪〟になることにした。
ただでさえ王に相応しくない男が、若過ぎる王太子が王になるのだ。甘っちょろい国政を成していくのは想像に容易かった。臣下達の信頼をそう易々と勝ち取れるはずがなかった。王として慕われないとなれば、いつか臣下達から見捨てられかねない。
だからボリスが、真っ向から敵対することにした。国のためにならないと少しでも思えば絶対に、国王が提案した政策案を絶対に通さなかったし。例え、罪を犯したとしても人を罰することを良しとしたいお人好し国王の代わりに、容赦なく罪に見合うだけの罰を与えた。
例え、ボリスの行動が正しい時があっても。国王に刃向かっている時点で、宰相の方が悪になる。更に、敬うべき王を激しく攻撃し続ければ、逆に同情が集まるようになる。
『国王だって頑張っていられるのだから、そんなに目の敵にしなくても……』
『若くして国王になられたのですから、あまり厳しくしないで差し上げてください』
そんな言葉も無視して国王に敵対し続けていれば。
ボリスの方にこそ不信感が向かい……国王には同情や、彼の方を助けようとする味方がつく。
時には国王を傀儡にしようとする愚か者も現れたが。そういった輩はその本性が国王にバレる前に始末した。
そうやって国のためだけに。国のことだけを思って生きてきた。
…………だからだろうか? 国のためだと言われたからだろうか?
ボリスは容易く、その女の言葉に耳を傾けてしまうのだった。
普段であれば、そんなこと、絶対にないはずなのに。
「お邪魔してるわ、ボリス・マロー侯爵」
鮮やかな水色の花々に囲まれた四阿の中。近くにはキラキラと輝く、透き通った湖。
丸いテーブルを挟んだ向かい側で、亜麻色の髪の少女がにこやかに微笑んでいる。
ボリスは警戒を滲ませた視線で、女を睨んだ。
「……誰だ、貴様」
「私? 私はアリー。そう呼んで頂戴、マロー侯爵」
「…………」
瞬きの間に、目の前の丸テーブルにティーセットが現れた。
芳しい紅茶の匂いが鼻を擽り、アリーと名乗った少女がティーカップに口をつける。
しかしボリスは自身の前に置かれたティーカップに手をかけることはなく。険しい面持ちで目の前の女に問いかけた。
「ここは、どこだ」
「ここ? ここは貴方の現実と夢の狭間。そうね……深く寝入る前の貴方の精神世界だと考えてくれれば良いわ」
「…………悪魔──夢魔、か?」
ボリスは頭の中にある知識に当たりをつけて、小さく呟く。夢の中に入り込む亜人を、確か《夢魔》と言ったはずだと思い返しながら。
しかし彼女はそれを認めない。本来であれば直ぐにでも捕縛すべきなのだろうが、不思議なことにそんな気になれない。
(今、この空間は女の支配下にある……わたしが行動に出れないのは、この女に制限されている可能性があるな……)
そんな風に冷静に判断する彼に残されている道は、大人しく女の話に耳を傾けるという選択のみ。
ボリスは大きな溜息を零して……顔を顰めながら、彼女へと改めて問いかけた。
「それで? 何用だ」
「取引をしましょう。これは貴方の大好きな国のためになる取引よ」
「何……?」
ボリスが微かに眉を持ち上げる。
そんな彼に向かってアリーは頬杖をつきながら、意味深に微笑む。
話を聞くか否か。国のためだと言われてしまえば、話を聞くしかない。
ボリスが無言で先を促すと、彼女はツイッとティーカップの蓋をなぞりながら……本題に入り始めた。
「貴方の国の王様の娘が、レメイン王国にいるわ」
「…………は?」
「御落胤よ、御落胤」
「!!」
それを聞いたボリスは言葉を失くした。
王妃と結婚してから、国王は王妃以外との間に子を設けてはいない。きちんと影で見張りをつけていたからこれは間違いないはずだ。
なのに、宰相たるボリスが把握していない娘がいる──?
そこから導き出される答えは、ただ一つ。
「あの時の、平民の娘かっ……!」
「正解。所詮は平民の娘だからと放置したのはよくなかったわね」
「チッ……! 妊娠していると分かっていたら、始末していたのに……!」
「そうね。貴方が当時、彼女が妊娠していると知ったら。男児の可能性がある時点で、国を揺らがせるような王位継承争いを生まぬよう……彼女を腹の子ごと始末していたことでしょうね。まぁ、過ぎた話はどうしようも出来ないの。産まれたのが娘であったこと。アーシス王国の王位継承権は持たないことが、不幸中の幸いじゃないかしら?」
…………当時の失態を思うと、自分自身に憮然たる気持ちを抱くが。女の言う通り、過ぎたことはどうしようも出来ないのだ。
産まれた子が女であったこと──それだけが、唯一の救い。
「…………それで? わざわざ落胤の話をしたんだ。まだ、真の本題があるんだろう」
「話が早いわね。そうよ。その御落胤、レメイン王国の王太子殿下と〝仲良し〟なのよ。とってもね」
「!!」
明言されなかった言葉が通じないほど愚かではない。
ボリスはその言葉から導き出される答えに、一人で辿り着く。
彼は忌々しそうに顔を歪めて、大きな舌打ちを零した。
「チッ……! 王太子の婚約者の不況を買ったか……!」
「そういうこと。貴方の国の王女様、殺されてしまうわよ。怒り狂った女の嫉妬でね」
「…………」
「問題はここから。レメイン王国の大使館から陛下には自身の娘の存在が伝えられてしまっていると思うわ。なんせ誰が見ても陛下と彼女は瓜二つなんですもの」
「……!? なんだとっ!?」
ボリスは冷酷な宰相らしからぬ大きな声で怒鳴り声をあげてしまった。
あの国王は今でも、あの平民の娘を愛しているのだ。そんな彼女との子供が見つかって、命が狙われていると知ったなら──……。
──間違いなく、暴走する。
「っ……」
「さぁ、本題。取引しましょう。マロー侯爵」
女は笑う。堕落を誘惑するような、悪魔のような笑顔で。
「貴方はあの少女を保護するの。それがこちらが貴方にして欲しいこと」
「…………!?」
「彼女を王女として擁護して、レメインの王太子と婚姻させられたら。きっと貴方の国にとって有益になるんじゃないかしら? だって、レメイン王国はもうちょっとしたら奴隷を大量に補充する目処が立っているから。上手くやれば労働力が輸入出来るようになるわよ?」
「!!」
他国ではとことん亜人達を管理して品質の良い魔道具に加工したり、素材として繁殖させたりしているらしいが……アーシス王国では、亜人は純粋な労働力として活用していた。
あまり認めたくはないのだが……亜人達は人間よりも遥かに身体能力に優れているからだ。人間のならば休み休みやらなくてはならない力仕事も、彼らを使えば休みなしで働かせることが出来る。人間相手ならば高い賃金を払って雇わなくてはならないが、亜人を使えば無賃金で働かせることが出来る。そのため、公共事情の労働力として、亜人はなくてはならない存在であった。
ゆえに、あの襲撃──亜人の略奪は、アーシス王国に大きな痛手であった。先も言ったように亜人らは労働力として数多の公共事業に使っていたのだから。
そんな奴隷達を、レメイン王国が大量に補充する予定がある──?
「まぁ、詳しくは話せないんだけど。それでも王様の娘を利用してレメイン王国に介入出来るようになるのは、貴方の国の利益になるんじゃない? どう? あの子を保護して、王女として擁立するつもりはある?」
ボリスは頭の中で損得を計算する。
第一に優先すべきなのは、国の利益になるか否か。
レイフォード国王の庶子をレメイン王国の王太子と婚姻させられたら。婚姻に基づく取引でアーシスに利益を齎すことが出来るだろう。
懸念は、婚約者たるケイトリン・マジェット公爵令嬢とマジェット公爵家の不況を買うこと。現にケイトリンは陛下の娘に敵意を向け、排除しようと動いている。
だが実のところ……ボリスはケイトリンが落胤を排除しようとするのに、納得する気持ちがあった。彼も彼女と同じ立場であれば、ポッと出た女など始末しようとするからだ。王族の伴侶に、王の妃に、未来の国母に相応しくない者を選ぶ訳にはいかないのだから。教養がない者に、国の未来を左右するような重要な立場に立たせる訳にはいかないのだから。
けれどそれは……その女が本当に、平民であった場合に限った話。今回、その女は、アーシス王国国王の庶子であった。
そしてボリスはアーシス王国のことを第一に考える男。
例え他国の公爵家と仲が悪くなろうが……我が国に利益を齎す方が優先だ。
故に──……。
「…………承知した。その少女を、我が国の王女として保護しよう」
「…………ふふっ。貴方ならそうしてくれると思ったわ」
…………そう告げるアリーは、金色混じりの碧眼を細めながら、妖艶に笑う。それはまさに悪魔らしい笑み。
だが、もうその時にはボリスは彼女に対する警戒心が皆無になっていた。
これこそがアリーの……エイスの力。
淫魔として精神世界に侵入し、淫魔の催眠と毒竜の力を以って相手の頭を洗脳する。
それがエイスという、淫魔と竜の混血の力。
「それじゃあ恙無く。自分の役目を果たして頂戴ね、宰相様」
その言葉を最後に、ボリスの意識は強制的に夢の世界へと落とされる。
次に目覚めた時には彼は覚えていない。精神世界で淫魔に出会ったという都合が悪いこと──本来の姿ではなく女の姿を取っていたのは、万が一薄らと覚えている可能性を考慮して安全策を取ったため──は忘れて、国王の御落胤を保護して王女として擁立するということだけを、その頭に深く刻み込んでいることだろう。
それこそが、アルフォンスから指示された仕事。
元の姿に戻ったエイスはゴキゴキと首を回しながら、疲れ切った息を溢す。
「あ〜……よく働いたな」
そう言いながらエイスが姿を消すと……自身の役目を果たしたと言わんばかりに、美しい庭園は静かに崩壊していくのであった。




