最後の竜の、甘い誘惑。
(なんで、あたし達はこんな風に隠れて暮らさなきゃいけないんだろう──)
少女はいつも、そう思っていた。
何も悪いことはしていない。
何も酷いことはしていない。
けれど、見つかってはならないという。捕まると殺されてしまうのだという。
(なんで、何もしていないのに殺されなきゃいけないのだろう──)
いつも隠れてなきゃいけない。
いつも怯えて暮らさなきゃいけない。
逃げて、逃げて。逃げ続けて。
一体いつまで……こんな生活を続けなきゃいけない?
(もう、嫌だ……こんな生活、嫌なの……! 助けて……)
鬱蒼と生い茂る木々の隙間から覗く、後少しで満ちそうな月を見上げながら少女は祈る。
祈ったってちっとも、自分達を救ってくれない神様なんかではなく。
(〝誰か〟……! あたし達を助けてよ……!)
こんな地獄のような生活から救い出してくれる、〝誰か〟に向けて──……。
そんな風に願った。
そんな風に祈ったタイミングで、偶然にも彼らが現れてしまったのだから……運が良いというべきか、悪いというべきか。
とにもかくにも。彼女の運命はこの日──大きく大きく、歪むことになる。
「おや? 目的地と違うところに出てしまいましたね……」
「いやいや。初めてでここまで誤差がなければ問題ないって。後は慣れだよ〜、慣れ」
唐突に聞こえた声。
人間が来たのかと思って慌てて振り向けば……そこには、歪んだ空間から姿を現すところの美しい男女の姿。
何もない場所からヒトが現れるという、驚く光景に言葉を失くす。
「……ですが、どうやら目的の相手はここにもいたようです」
鋭い、金色の瞳が貫いた。
今まで見たことがないような白皙に、少女頬と尖った耳先が真っ赤に染まる。
そして……。
「こんにちは。わたしはアルフォンス。この世界最後の竜です。──貴方達を、助けにきました」
彼の余裕のある笑顔と、その言葉に……少女は完全に囚われるのだった。
◇◇◇◇
「こんにちは。わたしはアルフォンス。この世界最後の竜です。──貴方達を、助けにきました」
その言葉を聞いた瞬間、カルディアは目の前の少女が激昂すると思った。
汚れてはいるが真っ白な肌に、腰まで伸びた金髪と碧眼。隠すような髪型をしてはいるが……隠し切れていない尖った耳。
紛うことない──エルフである。
(エルフはな〜自尊心が高いからなぁ〜)
世界によって多少の違いはあれだ、エルフは総じて自尊心が高い。こんな上から目線で言われたら激昂待ったなし、である。
しかし──。
「ほ、本当……?」
「「……?」」
「本当に……あたし達を助けてくれるのっ……!?」
ボロボロと溢れる大粒の涙。
両手を胸の前で組んで、縋るような瞳で見つめてくる少女。
カルディアはあまりにもエルフらしくないその姿に、目を丸くする。
「あ、ありがとう……! ありがとう! ずっと、助けて欲しかった……! もう、逃げるだけの日々なんて嫌だったのっ……!」
その場に崩れ落ちて泣く少女は、喜びを露わにしている。
そんな彼女を見て、カルディアはなんとも言えない難しい表情になった。
(この世界のエルフはそれなりに? 殊勝な性格してるっぽいけど……。うぅん……他力本願感が、滅茶苦茶強いなぁ〜……)
見下してきたり、必要以上に恭しく扱われるよりは遥かに楽だが。
それでもこの状況を変えたいとは思ってはいても、自分から変えようとしないのは。自ら行動しようとしない姿には、覚えがある。
そう──隣にいるアルフォンスだ。
(…………本当、この世界の人間種以外は諦め癖がついちゃってるんだねぇ……。さて。アルはどうするのかな?)
視線が隣に移る。
アルフォンスは泣き崩れる少女を見て、羞恥心が滲んだ複雑そうな顔をしていた。どうやら彼も、覚えがある姿だと思ったらしい。或いは、かつての逃げるだけだった情けない自分を思い出して恥ずかしく感じているのか?
カルディアの視線に気づいたのだろう。アルフォンスがワザとらしい咳払いをする。
それから気を取り直したように……彼はにっこりと笑って泣き続ける少女に話しかけた。
「それで? 君はヒトリ?」
「あ、ううん! お父さんとお母さんもいるの! こっちよ!」
パッと顔を上げた少女がニコニコしながら立ち上がり、走り出す。
そんな少女の後ろ姿を、カルディア達は険しい顔で見つめていた。
「……警戒心、なさすぎじゃない? こんなんじゃ簡単に人間に殺されると思うんだけど」
「…………取り敢えず、ついて行きましょう。お嬢様」
カルディア達は溜息を溢しながら、後を追う。
実際に歩いたのは十分程度。
人目につかないような木と木の間、更には深い茂みの中で姿を隠すようにして座っていた男女のエルフに向かって……少女は満面の笑みを浮かべながら声をかけた。
「お父さん! お母さん!」
「ルル、そんな大きな声を出す──……っ!」
疲れ切った男が顔を上げる。カルディア達と視線が合う。男達の表情が、驚愕と恐怖に染まった。
「ルルッ! 離れろっ!」
男が側にあった弓矢を手に取って、射を放った。
しかし、カルディアは動じない。
矢が彼女を貫く寸前──パッとアルフォンスがそれを掴み、怒りに満ちた視線を男に向けた。
「おい。何してる? お嬢様が怪我したらどうするつもりだ!」
「ヒッ……!」
怒りが圧となって彼らを襲った。ガクガクと男達は震えて、ガチガチと歯を鳴らすほどに怯えている。
そんな一触即発な空気の中、カルディアはきょとんと首を傾げていた。
「いやいや〜怪我する訳ないじゃん。だって、ただの矢だよ? 何射も射る訳でもないし、魔法を併用してる訳でもない。この程度の攻撃、傷一つ付かないよ」
「…………それはそうかもしれませんが。怪我を負う可能性が限りなく低いと分かっていても、貴女を攻撃したという事実が許し難いんですよ」
「…………」
カルディアは考える。
アルフォンスの言い分にも一理ある。
となれば、仕置きをするのが必然──……ではあるが。彼の目的は目の前にいる彼らだ。
初っ端から始末してしまうのは、幸先が悪い。
それに……ここで許してやって、恩を売った方がアルフォンスの利益になるだろう。
「まぁ、一回ぐらいは許してあげようよ。二度目はないけど、ね?」
「……許すんですか?」
「アルのためにね」
──にっこり。
カルディアの笑みと言葉に、その意図を察したらしい。
彼は本当に不服そうな顔をしながら、渋々と頷いた。
「…………とにかく。話を聞いてくれますか?」
「はぁ……はぁ……! っ……! 人間なんかと! 話すことなどっ……! 殺すなら殺せっ!」
「…………ん?」
そこで、気づく。
まさかこのエルフ達は、最初の頃のアルフォンスと同じ勘違いをしているんじゃないかと。
黙り込んだアルフォンスに、カルディアは声をかけた。
「…………」
「アル」
「わ、分かってます……。成る程……。これが人の姿だから人間だと勘違いするということ……」
「そう。間違えないようにしようね? このヒト達みたいになっちゃう」
「…………はい。肝に銘じておきます」
またもや昔の自分を思い返すことになり、アルフォンスは頭が痛いと言わんばかりに溜息を零す。
事態が分かっていないエルフ達は、困惑した様子でカルディア達を見つめていた。
「まずは勘違いの訂正を。我々は人の姿を模してはいますが、人間ではありません。──竜です」
アルフォンスの皮膚に鱗が浮かび、その額に二本の角が生える。
人の姿に近いけれど、人ならざるその姿に。エルフ達は大きく目を見開いた。
「この姿で分かるよう……わたしもまた、貴方達と同じ狩られる側の存在でした。ですが、こちらにいらっしゃる我が主人のおかげで……わたしは力を得ました」
「ち、力……?」
「えぇ。そして、知ったのです。人間どもに虐げられている我々は本来、人間なんか目ではないほどの強者であることを──」
「っ……!」
まさか、とその表情が物語っていた。信じられないと、言外にその目が訴えていた。
しかし、彼らは目にしたばかりだ。
目の前にいる青年の、その力の片鱗を。
「本当なら我々は人間なんかに殺されるはずがないんです。生き残れる力があるんです。逃げ続ける必要なんて、ないんです。なのに……自分達は本当は強いだなんて知らずに、ただ人間達に殺されるなんて。それをわたしは知っているのに貴方達を見捨てるなんて……できないじゃないですが」
「…………」
「だから、貴方達を助けるために。生き残る術を授けるために。こうして貴方達に接触しました」
「たす、ける……」
呆然と、エルフの夫婦がアルフォンスを見上げる。
そんな彼らに、最後の竜は甘い言葉を囁いた。
「えぇ。どうでしょう? 良かったら……我々が用意する安全な場所に一時的に避難しませんか?」
「ひ、避難ですか……?」
「えぇ。流石にずっとは無理ですが……それでも、貴方達が人間どもに殺されなくなる程度の力をつけるまでは、面倒を見ることができます。そしてそこは絶対に人間には見つからない場所です」
「「「!!」」」
カルディアは満足げに笑う。
使えるようになったばかりの力を最大限利用して、巧妙に彼らを絡め取るほどに賢く育ったアルフォンスの成長ぶりを、褒めるかのように。
「同じ、人間どもに狙われるモノ同士、助け合いましょう? ……どうでしょうか? 一緒に、来ませんか?」
アルフォンスは本心を、本当の目的を完全に隠し切った優しい笑顔を浮かべながらエルフ達を誘う。
一時とはいえ安住の地で。人間どもに怯えずに暮らせるという提案は、彼らに取って魅力的過ぎたのだろう。
それほどまでに、エルフ達は疲弊していた。逃げ続け、いつ死ぬかも分からない日々に疲れ切っていた。
それでも、この提案に乗っていいのか……。多少は迷ったようだったが、彼らは最終的に了承する。
その返事を聞いたアルフォンスは外面の良い、安堵した顔をしながら彼らに優しく声をかけた。
「受け入れてくださって良かった……! では、早速。こちらへどうぞ」
アルフォンスはカルディアの眷属となったことで使えるようになった魔法──《箱庭》へと繋がる《門》を開いて、エルフ達を招く。
そんな見たこともない魔法に彼らは若干怯えたようだ。本当に大丈夫かと、躊躇っている。
そんな時にいい仕事をしたのは……最初に会ったエルフの少女。彼女は真っ先に《門》を潜り……向こうから両親を呼んだ。
「お父さん、お母さん! 早く!」
「っ……あぁ。行こう、リリ」
「はい、あなた」
娘が先に行ってしまった以上、どうしようもなかったのだろう。決心して《門》を潜るエルフ親子の後ろ姿を見守りながら、カルディアはアルフォンスに近づく。
指先で合図すれば彼は少ししゃがんで、耳を寄せてくる。
カルディアもその耳に手を添えて、顔を寄せ……。こそっと静かに、囁いた。
「悪い竜だね? アル君」
「…………おや。なんのことでしょう?」
「ふふっ……うふふっ」
──にっこり。
竜達はそれ以上、語らない。耳が良いエルフに警戒して、本当の目的を明かさない。
そんな細やかなやり取りに、カルディアは益々満足する。
きっとエルフ達は気づいていない。
最後の竜から齎された魅力的な提案に騙されて……後戻りできない道へと進んでしまったことに。
気づいた時には、きっともう手遅れ。
「上手く操るんだよ? アル?」
最後の竜は、とても悪い笑顔で……その言葉に答えた。