かくして身代わり生活が、始まる。
まだ、夜も明けぬ時間帯。
マジェット公爵家の屋敷の一室──つまりはケイトリンの部屋にて。
平民よりは少し綺麗な、けれど貴族としてはかなり見窄らしい格好をしたアルバートとケイトリンが、準備を整えてその時を待っていた。
時計の針が十時を少し過ぎた頃、唐突に空間が歪む。開いた《門》を通って現れたのは……真っ赤に燃え盛る赤毛と橙色の瞳が特徴的な少女と、茶髪の髪に碧眼を持つ執事服を纏った青年。
完全にケイトリンとアルバートに擬態したカルディアとアルフォンスを見て、本物達は驚いたように目を見開いた。
「やぁ、待った? 準備は大丈夫かな?」
「「…………」」
「おーい? 大丈夫? お嬢様に従者君」
「! す、すみません。まさかここまで見た目の偽装が完璧だとは思ってもいなくって……よろしく、お願いします。カルディア様」
「! 失礼いたしました、カルディア様。わざわざわたくし達を逃すための魔法を使ってくださるそうで……よろしくお願いいたしますわ」
「はいは〜い。じゃあ、早速」
──パチンッ。
指を鳴らすだけで簡単に《門》が開く。
向こう側は、海を挟んだ違う大陸だ。アルバートがここを選んだ理由はただ一つ。
ケイトリンの逃げ道を塞ぐため──。
「従者君、はいこれ」
《門》を潜る前に、カルディアはアルバートにブレスレットを渡した。若葉色の宝石がついた、細身のブレスレットだ。
彼は怪訝な顔で、渡されたモノを見つめる。
「これは……?」
「通信用の道具。その真ん中の石に魔力を通せば、私に繋がるから。助けて欲しい時とか……何か報告したい時とかに、連絡してね」
それを聞いたアルバートは笑う。
背後にいるケイトリンに気づかれないように、うっそりと陰鬱な笑顔で。
「ありがとうございます、カルディア様。色々と気を使ってくださって。では、さよなら」
「失礼しますわ、カルディア様」
「うん、気をつけてね」
カルディアとアルフォンスに見送られ、二人は《門》を潜る。
深々と頭を下げるアルバートと、軽く頭を下げるケイトリンを最後に、《門》は閉じられた。
「…………さて。これから約二年半、あのお嬢様の代わりに暮らすことになるね。……時間は足りる?」
「えぇ。教えてくださった師達が優秀でしたので。それだけあれば充分に、ご期待に添えるかと」
くるりっと振り返りながら問いかけると、アルフォンスが即答を返した。
その表情には余裕と、自信がある。その言葉通りに、応えてくれそうだ。
「楽しみにしてるね」
「はい」
「それじゃあ早速、私達の身代わり生活を始めようか?」
好奇心に満ちたカルディアは、満面の笑顔を浮かべながらそう宣言する。
──かくして、身代わり生活は、始まりを迎えるのだった……。
◇◇◇◇◇
その変化に一番に気づいたのは、家族だった。
音もなく進む食事の席。
マジェット公爵家の食堂は、異様な空気に包まれていた。
「…………」
赤毛の美丈夫──マジェット公爵家当主ケイオスは、自身の娘をマジマジと見つめる。
容姿も、動作も、何も変わっていない。
けれど、何かおかしい。
「…………」
チラリッと、金髪の美女──マジェット公爵夫人である妻イーリスを見た。彼女の方も自身の娘に違和感を覚えているらしい。
唯一気づいていないのは……馬鹿ではないのに鈍感な長男イノックぐらいか。
ケイオスは考え込むように手を止めると、恐る恐る口を開いた。
「ケイティ」
「…………」
「ケイトリン!」
「……あら。失礼しましたわ、お父様。なんでしょうか?」
ナイフを動かす手を止めて、ケイトリンが顔を上げる。
なんの、感情も宿っていない瞳。道端の石を見るような目。
それで気づく。娘からの、家族の情が消え去っているのだと。
「…………どうしたんだ、ケイティ」
「どうしたとは?」
「……具合でも、悪いのか?」
問いかけると同時に、食堂に緊張感が満ちた。
ピリピリとした空気に流石の長男も変だと思ったのだろう。動揺したように目線を彷徨わせている。
そんな空気を敏感に感じ取ったケイトリン──のフリをしたカルディアは微かに困ったように首を傾げる。
けれど彼女はにっこりと、まるで誤魔化すように……ケイトリンの家族に向けて微笑んだ。
「いいえ。何も問題ありませんわ」
「…………本当か?」
「えぇ。ご心配をおかけしました。どうぞ安心してくださいませ」
それ以上踏み込むなと、言外に告げる。
それだけでケイトリンの家族は黙ってくれる。
そんな彼らを見ながらカルディアは考えた。
(う〜ん……もうちょっとお嬢様のフリをした方がいいかな? いや、でも面倒くさいし……やる気も出ないしな〜……。まぁいっか。どうせ二年半の付き合いだし)
疑われたら動きづらくなるのは分かっていた。
けれど、それでも。カルディアは〝家族ごっこ〟までする気はなかった。
カルディアが受け入れたのはあくまでも身代わりだ。二年半、ケイトリンのフリをすることを了承はしたが、それ以上のことをするつもりはない。というか、やる気すら起きない。
どうせ疑われたって、外見がケイトリンなのだからそう簡単に別人だとは断言できないはずだ。
それに自身の娘が偽物だと分かるのが遅ければ遅いほど、本物達の行方が分からなくなるだろうし。
…………自分の娘が、妹が偽物だと知った時──この家族はどんな反応をするのだろうか?
「ふふっ」
カルディアは無意識に笑う。
あまりにも美しい笑顔に。妖艶さすら感じさせるその姿に。家族達が息を呑んだのを、当人だけが気づいていない。
「お食事中、失礼いたします」
そんな空気の中に割り込んできたのは、アルバートのフリをしたアルフォンスだった。
彼は胸元から取り出した懐中時計で時間を確認しながら、カルディア達に告げる。
「お嬢様、イノック様。そろそろご準備をなさりませんと……遅刻してしまうかと」
「あら。もうそんな時間? 失礼しますわ、お父様。お母様。遅刻する訳にはいけませんので」
「わたしも失礼します、父上。母上。ありがとう、アルバート。遅刻せずに済む」
「いえ。では、わたしも準備してまいります。失礼いたします、閣下。奥様」
残された公爵夫妻は互いに顔を見合わせる。
その胸中には途轍もない嫌な予感に満ちていて……。
何か良くないことが起きてしまうんじゃないかと、不安で不安で仕方がなかった。
◇◇◇◇◇
最初は、ほんの少しの違和感だった。
毎朝あった婚約者からの挨拶と昼食を共にすることがなくなったな、と思ったのが金髪碧眼の貴公子──王太子コルネリウス・バレスティン・レメインの最初の感覚だった。だが、そういう日もあるだろうと気にも留めなかった。
しかし、それが何日も続けば大きな違和感になる。
「…………ケイトリンは学園に来ていないのかい?」
王族用のサロン。三時のお茶を飲んでいたコルネリウスは、ふと側近である宰相の子息──タンザ・ビスティに声をかける。
彼は怪訝な様子を隠さずに、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「珍しいな。殿下がマジェット嬢のことを気にするなんて」
「毎日の挨拶と昼食を共にすることがなくなったからね。少しは気にするよ」
「あぁ、そういえばそうだったか」
コルネリウスの婚約者であるケイトリンは、他のクラスだ。
そのため、滅多なことがないと顔を合わせることがない。今まで毎日のように顔を合わせていたのは、他ならぬケイトリンが王太子の下を訪れていたから。
毎朝の挨拶と昼食の誘い。婚約者であるのに仲が悪いとなると外聞が悪い。よっぽどのことがない限りは、共に昼食を共にしなくてはいけなかった。
だが、その時間はコルネリウスにとって苦痛だった。苦しい時間だった。毎日毎日、辛かった。
それが失くなったことに、嬉しく思わなくもないけれど。
けれど、急にそれらが失くなるのは……流石のコルネリウスだって、気にせずにはいられない。
「マジェット嬢か? 朝、廊下を歩いてるのを見たぞ」
そんな風に考え込んでいたら、同じようにお茶を飲んでいた深緑色の髪の青年──将来的に国を守る騎士になるであろう騎士団長の息子ファング・フォールズが、なんてことないように告げた。
それを聞いたコルネリウスは微かに顔を顰めて首を傾げる。
「ということは……純粋にわたしへの挨拶と、昼食を共にすることを止めたということかな?」
「……まぁ。そうなんじゃないか?」
「別にいいじゃないか。殿下は元々、婚約者に時間を取られるぐらいならフィオナとの時間を増やしたいって言ってたろ。望み通りになったんだからさ」
「…………」
確かに、コルネリウスはケイトリンを疎んでいた。
だって彼女の目は雄弁なのだ。見下しているのが分かる。表向きは敬っていても、本心では馬鹿にしているのがありありと分かる。目は口ほどに物を言うというのは、このことを言うのかもしれないと思ってしまうほど。
だから、コルネリウスがケイトリンを嫌うようになるのは必然だった。
でも……。
(ファングの言う通りなのに……失くなると失くなるで、挨拶もする価値もないと、馬鹿にされている気分になるんだよなぁ……)
しかし、そんな鬱々としたコルネリウスの気持ちを晴らす声が聞こえてくる。
──トントントンッ。
『失礼します、コルネリウス様』
「! 入ってくれ」
入室を許可すると、扉が開く。銀髪の可愛らしい少女が緊張した面持ちで、サロンの中に入ってきた。
何度も通っているのに未だにこの部屋に入るのに緊張しているらしい。いつまでも初々しい。
「いらっしゃい、フィオナ。さぁ、座って」
隣に座ることを促すと相変わらず緊張したままサロンに入ってきて、「失礼します」と慎ましい挨拶をしてから恥ずかしそうに座る。
そんな彼女の姿に、コルネリウスの頬が緩んだ。
「なんのお話をされてたんですか?」
「うん? なんでもないよ。つまらない話さ」
「そうなんですねぇ」
恋した女性に婚約者の話をする気はない。
どうせケイトリンがいる限り、叶わぬ恋なのだから。今だけは何も考えずに純粋に彼女との時間を大切にしたい。
しかし、コルネリウスは気にするべきだったのだ。
ケイトリンの変化を。その理由を。
彼が後悔するその時は……刻一刻と、静かに迫っていた。