誰が本当の腹黒でしょう?
「やぁ、こんばんは。逃げ出す準備は順調みたいだね」
「!」
自室で逃亡の準備をしていたアルバートは、急に声をかけられたため、ギョッとしながら慌てて振り向く。
宙にふわふわと浮かんでいるのは召喚した主人の身代わり──カルディア。彼女はケラケラと笑いながら、警戒を強める彼に話しかけた。
「そんなに怯えないでよ。急に君の部屋に現れたから驚いた?」
「分かってるなら急に現れないでくれ……」
「仕方ないでしょう? 君に話しかけるにはここでしか無理なんだからさ。諦めてよ」
「…………はぁ」
大きな溜息を零すアルバートだが、カルディアの言い分も理解できるのだろう。
なんせ日中の彼は侍従として忙しくしている。それに公爵家に不審者が現れたら、騒ぎになるに決まっている。
アルバートはなんとも言えない顔をしながら、「それで? なんの用だ」と淡々とした声で問いかけた。
「あのさ〜。君、自分の身代わりは用意してるの?」
「…………は?」
「あ。やっぱり忘れてたんだ?」
呆然とするアルバートにカルディアは告げる。
アルバートの主人至上主義は、マジェット公爵家でかなり有名らしい。信仰とすら言っても過言ではないレベルで彼は、主人に陶酔している。
ゆえに、本物のケイトリンがアルバートと姿を消した後──マジェット公爵家に偽物がいるのにアルバートはいないとなると、周りから変だと思われるのではないかと。疑われる一因になるのではないかと、カルディアは告げた。
そう言われて今更ながらにその可能性に気づいたのだろう。アルバートは小さく舌打ちを零して、愚痴を溢した。
「…………しまった。すっかりお嬢様の身代わりを用意することしか考えてなかったな……確かに、偽物のお嬢様が屋敷にいるのにオレがいなくなるのは、周りに疑われる……」
「だろうな〜と思ったから、アフターサービスで用意してあげたよ」
「…………何?」
「君の身代わり」
パチンッと、指を鳴らすと門が開く。
執事服に身を包んだ、アルフォンスが現れたことでアルバートは大きく目を見開く。
「初めまして。アルフォンスと申します。カルディア様の侍従になります」
「…………アルバートだ。……彼を、オレの身代わりに?」
「うん、そう。見て分かるように侍従として振る舞えるし、姿を偽ることも問題なく可能だからね。安心してくれていいよ?」
「…………なんで、こんなことを……」
「何が?」
「どうしてこちらが頼まなくても、勝手にオレの身代わりの準備まで……」
不思議なのだろう。
失念していた自分に代わって、わざわざカルディアが自身の身代わりを用意してくれたことが。
勿論、ただの好意なだけではない。
カルディアが偽物として生活するにあたって、事情を知らない人を付き人にされるのは動きづらくて面倒くさいから。
人間に家族を殺されたアルフォンス自身を、人間どもの中に放り込むことで彼が何をするか。どんな復讐を果たすのかが気になったから。
カルディアに利益があるから、準備したのだが……。
そこにはほんの少しだけ、アルバートへの憐れみも混ざっていたりする。
「…………まぁ、いいじゃん。従者君が助かったのは確かなんだから。有り難く私の恩を受け取っておきなよ」
「…………代償は?」
「代償?」
「どう、恩を返せばいい」
真剣な目がカルディアを見つめる。
どうやら恩を売られたままというのが心底嫌ならしい。
カルディアは「うーん……」と言いながら、ニンマリと笑った。
「…………なら、逃げた後での君の行動を報告してよ」
「…………何?」
「だって君、逃げた先であのお嬢様を自分に依存させる気満々でしょ? 手篭めにして逃げられなくさせる気でしょ? それ、すっごく面白そうじゃない?」
「!!」
その表情が驚愕に染まる。警戒を強めた視線で、睨まれる。
カルディアはクスクスと、邪悪に微笑んだ。
「安心しなよ。お嬢様には言ってないからさ。だって、そんなことしちゃったらつまらないもの」
「…………なんで、気づいて」
「愚問じゃない? だって、君らの身代わりが務まる私達だよ? それぐらい余裕で分かるって」
「…………」
悪魔のように囁く。悪の道に導くように、誘う。
「君が本気でお嬢様を愛してるの、私は知ってるよ?」
アルバートは主人であるケイトリンを主人に向ける感情以上に好いている。愛している。
当のケイトリンの方は……彼が自分のことを好きなことを知っている。知っていて、彼を利用している。
そして、そんなケイトリンは。アルバートが自分の身代わりを準備していないことに気づいていた。気づいていても指摘しなかった。
だって、自分の身代わりは準備されていたからだ。彼がどんなに疑われることになろうとも。急に姿を消して、悪評に繋がることになろうとも気にしなかった。気にする必要がなかった。
なんせ、ケイトリンにとってアルバートは便利な下僕でしかないから。自分よりも下等な生き物だと、あのお嬢様は思っているから。
そんな性格の悪いケイトリンを、彼が手篭めにするのは。自分は高貴な身分だと思っている人を、見下していた人間がどうにかしてしまうのは。その身の純潔を汚して、ぐちゃぐちゃにするのは。
──とても面白いだろう?
「愛してるからこそ、自分のところまで堕としてしまいたいと思うのは普通のことだよ。だから、やってしまいなよ。きっとあのお嬢様は、それぐらいしないと……君を見てくれないだろうからさ?」
……どろりと、アルバートの瞳が濁る。
カルディアの言葉が、真実であると。ケイトリンと長い付き合いである彼は分かってしまったのだろう。
そして、カルディアの言葉に想像したのだろう。彼の最愛の人を、その手で汚す快感を。
「…………これもサービス。君らが逃げ出す時、門を開いてあげる。空間を移動する術。これなら誰の目にも留まらずに屋敷を抜け出せるよ?」
「…………いいんですか」
馴れ馴れしい口調から敬語に変わった。
それこそが、カルディアの誘惑に負けた証。
カルディアはにっこりと笑って、頷いた。
「うん、いいよ。君に楽しませてもらうつもりだからね。逃亡先は後で教えて。門はどこにでも開けるからね。遠慮せず、君の目的を果たせる場所に移動するといいよ」
「……はい、ありがとうございます。その時はどうぞ、よろしくお願いします」
「了解。んじゃあ、アル。帰ろっか。顔見せは終わったしね」
「承知しました、カルディア様。では、失礼します」
門を通って《箱庭》に帰ったカルディアは心底楽しそうに笑い続けていた。
この世界に来てよかったと思わずにいられない。どんどんどんどん、面白いことが増えていく。
「本当、最高〜!」
…………そんな、竜としての傲慢さが、油断を招いたのかもしれない。
笑うカルディアをジッと見つめる金色の瞳。
その瞳に、微かな炎が揺らぎ始めていたことに。
先ほどの言葉に、考えているモノがいることに。
カルディアは、気づかなかった。