7 陰のオーラ
◯井は一瞬何処かへ目を彷徨わせると、小声でポツリと答えた。
「……大口開けて、弁当食べてる写真」
……予想通り。
相当酷い顔な筈なのに、何故受かったんだろう。
やっぱりネタ枠かな……痩せてたら面白いし、太ったままでも笑い者に出来るってトコか。どっちにしろ、二次選考で終了確定だろうけど。
「そう、分かってスッキリした。……じゃあ」
もう二度と振り返らず歩き出す。
じわりと汗が滲み出す肉厚の背に、◯井の視線を感じながら。
◇
もわっと熱気の立ち込めるエレベーターで四階まで上がり、自宅へ入った途端、甲高い母の声が響いた。
「あっ! ちょうど良かった! ファスナー上げてよ」
既に化粧を済ませた母が、背中を向けて飛んで来た。途中で引っ掛かりどうにもならなくなったらしいワンピースのファスナーを上げてやると、「ありがとお、由姫ちゃん」と抱きついてくる。
……暑苦しい。
ドレッサーに座り、髪を梳かしながら母は言う。
「サエコちゃんと同級生だったのね! ビックリしたわ」
「クラス名簿渡したじゃん」
「細かく見ないわよ! あんなの」
「……だろうね」
「でも保護者会で、お母さん見かけなかった気がするけど」
「……ちょっと病気なのかも」
「あら! そうなの? 大変ねえ!」
髪を素早く纏め、大ぶりのピアスを耳朶に着ける母を横目に、ダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。
「あの娘、自炊してるらしいよ」
「ああ! だから野菜が欲しかったのね。つい色々入れすぎちゃったけど。どう? 喜んでくれた?」
「うん、お礼伝えてって」
「いいのよ! 余ってて困ってたものだし。良かったらまたどうぞって伝えて。それにしても偉いわねえ、サエコちゃん。あんたもちょっとは家のことやりな」
「やってるじゃん。残飯処理。毎日店のつまみで我慢してるんだから感謝してよ」
「んまあ! 可愛くない!」
生意気なことを言いつつも枝豆をつまむ娘に、声は張り上げるものの表情は変わらない母。
これがこの母娘の、標準スタイルのやり取りだ。
無事に首から上を整えると、ドレッサーから立ち上がり姿見の前へ行く母。くるっと全身を見ながら、なんとはなしに呟いた。
「サエコちゃん、相変わらずのオーラだったわ」
「……嘘。あんなデブってんのに」
「太ってた?」
「豚みたいじゃん。どこ見てんのさ」
「体型はともかく、あの目よ。やっぱりいいわあ。唯一無二ね」
「そう?」
「うん。なんていうかね……光っているんじゃなくて、逆に周りの光を全部吸収しちゃうような、そんなオーラがあるわ。ほら、昔そんなアイドル居たじゃない! 百世ちゃんとか、明子ちゃんとか陰のある。そっち系ね」
「……知らない」
「サエちゃん、今も踊ってるの?」
「踊れる訳ないじゃん。あの身体で」
「あら、勿体ないわね。あんなに綺麗だったのに」
母は自分の仕上がり具合に満足すると、タッパーの入った保冷バッグを肩にかけ、下拵えした鍋を手に玄関へ向かう。
「じゃあね、洗い物と宿題、きちんとやりなさいよ」
「ん」
慌ただしく閉まったドアをぼんやり見つめる。
整髪剤や制汗剤の残る部屋の中で、ぼんやりと枝豆を口に放り続けた。
◇
家に帰ると、汗でぐっしょり濡れたシャツや下着を洗濯機へ放り込み、スイッチを押す。シャワーを浴び終わった後は、浴室中の水滴を丁寧に拭き取り、排水溝の髪の毛も一本残らず回収する。その頃には終了音のなる洗濯機から服を取り出し、自分の部屋のピンチハンガーに干すと、やっと一息吐いた。
『豚の脂がついて気持ち悪い』
母にそう言われてからは、こうして自分でやっていた。一人暮らししてからも浴室を拭く習慣は続いていた為、自然に出来て良かったと思う。
そういえば数学の宿題があったな……本当はもう大人なのに、面倒くさい。
机でプリントに向かうも意外と難しく、教科書やノートを見ながら格闘する。合っているかは自信がないが、とりあえず全て終わった頃には一時間も経過していた。
さっきフライドポテトを食べたから、お腹はあんまり空いていない。ほくほくした芋の甘味と、スパイスがクセになる美味しさで、あっという間にバスケットは空になった。同じじゃがいもでも、生気のないポテトチップスとは違うものだ。
それでも身体が何かを求めている気がして、冴子はそっと階下へ降りる。誰も居ないことを確認すると、冷蔵庫から幾つか取り出し、部屋へ運んだ。
ミニトマトと、千切った紫蘇を入れた納豆一パックと、茹でたとうもろこし半分。
これが今日の夕飯。
酸っぱくて爽やかで甘くて。
今日は朝から夜まで、一日中ずっと美味しくて、脳も身体も喜んでいたと思う。心臓を殺した罪滅ぼしが、少しでも出来ただろうか。
歯を磨き、布団に入り目を閉じる。
明日もまたやって来るのかは分からないけど、今日一日に後悔はなかった。
……そうだ、明日の朝ご飯は、もらったパンがある。楽しみだな。
翌日も14歳の朝が来た。自分で弁当を作り、変わらないルートで学校へ行く。
学校では◯井は相変わらず自分を無視した。その方が楽だし、別に構わない。他の二人も、特に絡んでくることはなかった。
それでも昼になると、自分の弁当箱にチラッと視線を送る◯井。もらった野菜のおかげで、昨日よりもずっと彩り豊かになった昼食を見ただろうか。◯井の母親に感謝をしながら、自家製らしい梅干しを口に入れる。陽を浴びた自然の酸味と旨味に、きゅっと口をすぼめた。
◇◇◇
それからも変わらぬ14歳の日々が、二週間程過ぎたある土曜日。クローゼットをかき回し、ある物を探していた。旅行鞄の奥、四角く固いそれに手が触れ、ぐっと力を入れて引っ張り出す。
あった……まだ電池つくかな。
バレエをやっていた頃には、毎朝毎晩乗っていた体脂肪計。表示画面を睨む母に、緊張して身体が震えたことを、昨日のように思い出す。
二度と乗りたくないと思っていたけれど……何となく軽く感じる身体を、数字で知りたいと思ったのだ。
ピタリと止まった画面は66.2㎏。
元の体重は知らないけど……中学の健康診断では、70㎏近かったと記憶している。
たったの二週間で、4㎏近くも痩せたのだろうか。それとも単なる記憶違いだろうか。どちらにしても、身体が動きやすくなっていることは確かだった。
特にダイエットをした訳ではない。食費を考えて米は節約しながら食べていたが、足りないということはなく、むしろ食生活には満足していた。
炭水化物と油中心だったエサから、野菜やたんぱく質中心の食事に変わったからかもしれない。
母の指示通りに、ささみや寒天ばかり食べてガリガリだったあの頃。階段を昇るだけで息切れし、年頃だというのに生理も来なかった。
痩せすぎても太りすぎても動けなくなる身体。自分にとってのベストな位置は、一体どこなんだろう。
きちんと向き合って問い掛けたら、身体は教えてくれるのだろうかと、体脂肪計の電源を落としながら考える。
一階から掃除機をかける音がする。水を飲みに行きたかったのに……母が居なくなるまで、もう少し待とう。
土日は嫌いだ。こうして自分の部屋しか逃げ場がなく、息を潜めていなければいけない。怪物に比べたら、三人組の無視や陰口なんて可愛いもの。今は自宅よりも学校の方がずっとマシだった。
気配が遠退きドアが閉まる音を確認すると、鞄とエコバッグを持ってそろそろと降りる。
水を一杯飲むと、少しだけ秋の風を纏い始めた外へ踊り出た。
スーパーで買い物を済ませると、足が自宅ではなく勝手に駅へ向かう。惣菜コーナーでパックに入ったものを見たら、無性に食べたくなってしまったのだ。
電車に乗り二つ先の駅で降りると、あの場所へ。
財布の残りは約三千五百円。休日料金は見なかったけど、平日よりも高いだろうな……それにアレを頼んだら?
だけどここまで来たからには、どうしても食べたい。
一時間だけにしようと決めてカウンターへ立つと、この間と同じスタッフがすぐに気付いてくれた。
「由姫ちゃんの友達はサービスって言われてるんで」
と愛想良く言いながら、二時間ワンドリンク付きの伝票を出してくれた。
友達じゃないのに……せめて少しだけでも払いたいとぼんやり部屋で考えていると、トレーを持った◯井が入って来た。
「何? 今日こそ殴り込み?」
バスケットから立ち昇る匂いに溢れた唾を、ウーロン茶で流し込み答える。
「ううん。そのポテトが食べたかったの。今日はお金払うから」
「別にいいよ。ウチ、不動産持ってて結構裕福だし。この店もスナックも親の趣味みたいなもんだから。このくらい痛くも痒くもない」
「でも……」
「熱い内にさっさと食べたら?」
「……うん、ありがとう」
くし形のポテトを齧れば、あの味がふわっと広がり、全身が興奮する。
カラオケそっちのけで、もくもくと食べ続けていると、◯井に尋ねられた。
「あんた、少し痩せた?」
「多分……4㎏くらい。自炊してたから」
「なんだ。オーデの一次選考通って、本気でダイエットしてるのかと思った」
一瞬ドキリとするも、平静を装い答える。
「まさか。こんなデブが通っちゃったら、炎上もんでしょ」
「まあね。でも痩せて下剋上したら面白いじゃん」
「……面白いの?」
「うん。ダイエット動画とか、みんな大好きだし。最初から綺麗だった娘よりも、応援したくなるんじゃない? まあ才能がないのに通っちゃったら、話題づくりだけで……とか炎上しそうだけど。ラズリファンは、オーデ自体に反対してる人も多いからね」
結局またお会計はスルーした上に、土産までもらってしまった。ポテトを食べたかっただけなのに……と申し訳なくなるが、正直非常に助かる。
豚じゃなくてハイエナみたいだと自嘲しながら電車に揺られ、ホームに降りた瞬間。あることに気付いた。
前は一次選考通過の書類が見つかり、激怒した母がすぐに辞退の連絡を入れた。
でも今回はクローゼットに放り込んで……通過後の流れも一切見ていない。放置したままだとどうなるのだろう。
足取りは次第に速くなり、気付けば自宅へと走り出していた。