6 そんなもん
「ウチ……」
「ココ、ウチなんだけど」
そう言いながら、ビルの四階を指差す◯井。
「そう……」
薄い自分の反応に、殴り込みに来た訳ではないのだと確信したのか、◯井は警戒を解く。
「何を見ていたの?」
「あ……カラオケ……安いなと思って」
視線の先を見て、◯井は「ああ」と頷いた。
何故こんなことに……
カラオケルームに通された自分の前に、◯井はグラスを置く。たらたらと水滴の汗を流す硝子の内側には、しゅわしゅわ弾ける黒い液体が入っている。
「コーラ。カロリーゼロの方だから」
「……ありがとう」
礼を言うも、口を付けることなく、ただ浮かび上がっては弾ける泡を見つめる。
「……飲まないの?」
「うーん……」
「もしかして、嫌いなの? コーラ」
「炭酸、苦手で」
「へえ、デブはこういうのが好きなんだと思ってたのに。意外」
◯井はコーラを手元に引き寄せ、自分のグラスを冴子に差し出した。
「アイスティーなら飲める? まだ口付けてないから」
「うん。ありがとう」
とりあえず一口……とストローを吸えば、ペットボトルをそのまま移したような、ほんのり甘く安っぽい液体が喉を流れる。キンと冷えたそれは、茶葉の風味などほとんどないのに、火照った身体の中心が喜んでいるのが分かる。夢中で流し込み、ストローを離した時には、もう半分以上がなくなっていた。
ちょっと高級な塩も、明らかに安いアイスティーも、どちらも身体……脳は美味しいと受け止める。
何かを摂取するというのは不思議なことだとぼんやり考えていた。
◯井はストローで泡の中の氷をつつきながら、こちらをじっと観察する。
「ワンドリンク制だから、室料と合わせて二時間税込594円。だけどどっちも無料でいいよ。ドリンクなんて原価十何円らしいし。親からも、友達は無料でいいって言われているから。友達じゃないけど」
「……ありがとう」
昼間は一階のカラオケ、夜は三階のスナックを母親が経営している。二階の美容室は店舗を貸しているだけだと、◯井は全く興味のない話を続けた。
「失礼します」
スタッフがやって来て、バスケットをテーブルに置いた。
「こういうのは好きでしょ?」
こんもり盛られたフライドポテトと唐揚げが、油の匂いを立ち昇らせる。
「うん……好きだったけど……何か今は……」
「えっ、ダイエット中?」
「ううん……違うけど。こういうの食べ過ぎたから、なんかもういいかなって」
「ああ、弁当のご飯の上にもよくかかってるもんね、ポテトチップス。ふりかけみたいに」
「うん……」
よく見てるな、と思う。
「あんたの親って、変わってるよね。あんな弁当を許すなんて。好き放題食べさせてくれるの?」
「……好きな訳じゃないよ。豚になってからは、食事はああいうエサしかくれなくなったから」
激しく突いた氷が、グラスにぶつかりカンと音を立てる。◯井はストローを持つ手をピタリと止め、丸い目で問う。
「まさか……アレ、親が作ってるの? 食べろって?」
「うん」
ぽかんと開いた口に無意識にストローを運び、コクリと喉を鳴らす◯井。炭酸の刺激にこちらへ戻ってくると、はあとソファーに凭れた。
「ウチの親も変わってるけど、あんたんとこは相当だね。……えっ、ちょっと待って!」
◯井はガバッと跳ね上がり、身を乗り出す。
「まさか、親にわざと太らされたってこと?」
「ううん。太ったのは自分が食べたくて食べたから。あの人は太った私が許せなくて、豚扱いしているだけ」
再びはあとソファーに凭れると、◯井はサラッと言った。
「確かに……あんたのお母さん、厳しそうな人だったもんね。いつも目え吊り上げてあんたのこと見てたし」
今度は自分が目を丸くし、◯井へ問う。
「……知ってるの? あの人のこと」
「駅のバレエスクール、一緒だったじゃん。あんたはこっちのことなんか覚えてないだろうけど、こっちからしたらあんたは有名だったから」
「有名……」
首を傾げると、◯井は頭を掻きながら「……まあいいや」と呟いた。
しばらくストローを吸う音と、カラカラと氷がぶつかる音だけが室内に響く。
「……てか、歌わないの?」
「あ……」
マイクとリモコンを差し出され戸惑う。
「……どうやるの?」
使い方を教わり、ラズリの曲を送信しかけた所でピタリと手を止める。チラリと◯井の方を見て、どうしようかと躊躇う。
「……ああ、もしかして、聴かれるの恥ずかしい?」
「……うん。初めてだし」
「気にしないから平気。小さい頃から音痴は慣れてるし。ホラ、隣みたいの、あんなんばっか聞こえてくるから」
くいっと指さした隣室から漏れてくる、到底歌とは思えない男性客の雄叫び。
……なるほど、これよりはマシかもしれない。出来れば一人になりたいけど、タダで利用させてもらってる以上そんなことは言えない。
折角だから、一曲くらいは歌って帰ろう。
諦めて送信ボタンを押すと、マイクを手に取る。
胸が高鳴るイントロの後、すうっと遠慮がちな声を、機械へ向けて送り始めた。
「……別に下手じゃないじゃん。上手くもないけど」
あっという間に終わった5分2秒後、突如聞こえた声に驚く。MVや曲に入り込み過ぎて、◯井の存在などすっかり忘れていたからだ。
「なんか、声がイイ。渋くて」
「渋い……」
「うん、あんたの顔によく合ってる」
褒められているのかは微妙だが、とりあえず礼を言い、マイクを下ろした。
「次は何歌う? 新曲も入ってるよ」
リモコンを手に、甲斐甲斐しく世話を焼く彼女に対し、ずっともやもやしていたものが膨らむ。歌ったせいで喉の通りが良くなったのか……それは言葉となって、ふわりと腹から飛び出した。
「……ねえ、私のこと、嫌いなんでしょ?」
少しの間の後、リモコン画面に顔を落としたまま、◯井は淡々と答えた。
「嫌いっていうか、イラつく」
「イラつく……」
「こうして一対一だと全然平気だけど、学校でのあんたは、なんかイラつく」
「……何で?」
「さあ、分からない。イラつくのに理由なんかある?」
分からない……
他人の分からない“何か”の為に、自分は毎日学校を地獄だと思っていたのだろうか。
いじめって……いじめなんて……
「そんなもん?」
「そんなもんだよ。他の二人はどうだか知らんけど」
もやもやは落ち着くどころか膨らむ一方で。
それなのに、浅い息となって抜けていくだけで、上手く言葉にならない。次第に苦しくなり、薄まったアイスティで乱暴に流し込んだ。
ノックの音と共に、Tシャツにラフなパンツスタイルの女性が顔を出した。風呂上がりなのか……眉毛はほとんどなく、黄色と黒が入り交じった派手な髪は、濡れたままざっくりと一つに束ねられている。
「こんにちはあ」
大きな声で挨拶され、とりあえずペコリと頭を下げる。
「今日はヒマだし、好きなだけ歌っていってね。由姫! そんなんだけじゃなくて、お菓子もいっぱい出してあげな」
「分かってるって。……ウチの親」
「……こんにちは」
改めて挨拶を口にする。
パチリと目が合うと、◯井の親はジリジリと近付き、自分を覗き込んだ。
「ああ、やっぱり! 駅のバレエスクールに通ってた娘じゃない? えっと……サエコちゃん!」
母親にまで覚えられていた……話した記憶もないし、太ってこんなに見た目も変わってしまったのに何故だろう。
「……はい」
「やっぱり! その目ですぐに分かったわ!」
目……? 細いだけで何の特徴もないと思うけど。
「一人だけずば抜けてオーラがあったもの。全っ然変わらない! 踊りも上手だったし、よく覚えているわ。こりゃあ誰も敵わないって」
オーラ……? 自分には無縁のものだと思うけど。
誰かと勘違いしているのではないだろうか。
「もう煩いから出ていってよ」
「はいはい。……あっ! そうだ! サエコちゃん、ミニトマトと紫蘇いらない? ベランダ菜園のクセに、もりもり育ち過ぎちゃって、食べきれないのよ」
「そんなもんいるワケ……」
「ください!!」
◯井を遮り、口から飛び出した叫びに自分でも驚く。
母娘はよく似た顔で、きょとんと自分を見ている。
「あ……欲しい……です。トマトと紫蘇」
母親は笑みを浮かべ、「じゃ、フロントに預けておくわね!」と明るく言いながら部屋を出て行った。
……が、閉まりかけたドアを再び開け、「そのポテト、自家製だからめっちゃ美味しいわよ!」とバスケットを指差し、今度こそ本当に出て行った。
それからまた何曲か歌い、ぼんやりと曲間番組を観たりして、二時間より少し早く部屋を出た。
フロントでは本当に料金を払わなくて良くて、逆にスタッフから予想外に大きな袋を渡された。
どれだけ豊作なのだろうか……と中を覗けば、トマトや紫蘇の他に、何故か枝豆や茹でたとうもろこし、パンや漬物らしき物までギッシリ入っていた。
「うーわ、電車で臭いそう。ウチの親、いつもこうなんだよ。嫌なら置いてきな」
……置いていくものかと、袋を握りしめる。
「ありがとう。明日お弁当に色々入れられる。パンも朝食べられる。今自炊してるから本当に助かる。お母さんにありがとうってお伝えして」
「……うん、分かった」
自分の背景に、複雑な家庭の事情があることを察したのか、◯井は微妙な顔をしていた。
少しだけ薄暗くなった外には、昼間たっぷりと溜め込んだアスファルトの熱が、じわじわと放出されている。
エアコンで肌寒いくらいだった全身が火照り出し、また汗を流す準備を始めた。
「じゃあ。どうもありがとう」
友達同士なら手を振るだろうが、そうではない。
恐らく今日限りであろう微妙な関係に、ペコリと小さく頭を下げ、駅へ向かい歩き出した。
ふと足を止め振り返れば、◯井はビルに入ることなく、まだ同じ場所に立って自分を見ている。
ただ幼いその姿に、もう一つだけ、もやもやの中から尋ねてみた。
「ねえ、私の……何の写真を送ったの? ラズリのオーディション」