4 食べるということ
どうしよう……
とりあえず封筒もろとも小さく畳むと、クローゼットの奥から紙袋を取り出し、その中へ入れて扉を閉めた。
此処ならきっと母に見つからない……
放心状態でペタリと床に座り込んでいる内に、やっと脳が動き出す。
何で……何で合格したんだろう。自分のどの写真が使われたのかは知らないが、あの三人組のこと。より不細工で酷い写真を選んだに違いない。プロフィールも、20㎏痩せるとか暗い気持ちにさせるとか、ふざけたことを書いたらしいのに。
確か以前も同じ疑問を抱いたが、勝手に応募されたショックや母に罵倒された疲労感が大きく、深くは考えられないまま、意識をシャットアウトしてしまったのだ。
この新メンバーオーディションも、ラピスラズリ結成時のオーディションと同じく、テレビで特集を組まれ大々的に放送された。もしかしたら、そこでのネタにしたかったのかもしれない。このデブスが、痩せてどれだけ綺麗になったのかって。実際痩せた所で、漫画みたいに美人になる訳じゃないのに。
冴子は、今通知を隠したばかりのクローゼットを開け、同じ紙袋から一枚の写真を取り出した。
それはまだバレエをやっていた11歳の頃の写真。コンクール用の華やかな衣装で飾り立てられているのは、ほっそりした手足に、あばらの浮き出た胸元の懐かしい自分。
他の写真は全て母に捨てられてしまったけれど、この一枚だけは大切に隠し持っていた。きっと、バレエをやっていた頃の……バレエしかなかった頃の自分を、否定したくなかったのだと思う。
舞台用の派手なメイクをされたこの写真の顔を見ても、決して美人とは思わない。
細い目は細いし、地味な顔は地味な顔だ。痩せても太ってもメイクをしても、人間の本質は何も変わりはしない。28年間、だらしなく生きてきた自分には、それがよく分かっていた。
突如、腹の虫が情けない鳴き声を上げる。
お腹……空いた……
時計を見れば、14時前。母が帰って来るまでには、まだ少し時間があるだろうか……
写真を厳重に戻すと、鞄からタッパーを取り出し、キッチンへ向かった。
油を熱したフライパンに、くんとにおいを嗅ぎ無事を確かめたタッパーの中身を入れる。
あんなに気持ち悪かった食べ物が、醤油とマヨネーズの良い香りを立ち昇らせながら、炎の中でパラパラ踊る。仕上げに卵と、刻んだ青ネギを散らして、味を整えれば完成だ。
「いただきます」
手を合わせスプーンで口に入れた瞬間、ぶわっと涙が溢れた。
美味しい……すごく美味しい。さっきまで、あれに入っていた物とは大違いだ。
シンクに置いた、空のタッパーをチラリと見る。少し手を加えただけなのに、この皿に載っている物には“愛”がある。身体に美味しい物を食べさせたいという、自分への“愛”がある。それだけで、“エサ”なんかじゃなくなるんだ。
米の一粒一粒を噛み締めながら味わう。こんなに丁寧に食事をしたのはいつぶりだろう。
……天国か地獄か分からないけど、もし此処が死後の世界だとしたら、あの炊飯器のご飯はどうなってしまったのか。死んだ私の横で、勝手に保温されたままカピカピになってしまったのだろうか。火事になっていないといいけれど……
というか、私は一体死後何日目で発見されるのだろう。人との付き合いなど全くない、親との連絡なんて一切取っていない。唯一の繋がりは、父が口座に振り込んでくれる、毎月の生活費だけだった。
働きもしない、ぶくぶく病んだ引きこもりの醜い娘を、実家から追い出し小さなアパートに押し込んだ父。だけどそれは、気弱な父の精一杯の優しさであったことを、私は知っている。
命を絶とうとまでしていた娘に気付き、勇気を出して、あの人から引き離してくれたのだから。
自分が死んでも誰も悲しまないけど……傷んで更に醜くなった身体を、人様に処理してもらったと考えると、申し訳なくてやりきれなくなってくる。
それなら、此処は死後の世界ではなく、過去に戻ったのだと非現実的な解釈をした方が気が楽だ。
此処が何処であるにせよ……この意識がこうして存在している以上、此処で生きていかなければならない。それだけは確かだ。
今朝、線路に飛び降りようとしていた自分が、たったの数時間しか経っていない今、何故か生きようとしている。
香ばしい養分が神経を駆け巡り、身体がぽかぽかと温まってきたからだろうか。
『食べる』って『生きる』為に、こんなに大切なことだったんだ。
夢中でスプーンを動かし、米粒一つ残さず収めると、嬉しそうに膨らんだ胃を撫でてみる。
────空腹は、もうごめんだ。
そのまま目を閉じ、椅子の背もたれにギシリと寄り掛かると、鼓膜のもっと奥深くに、鈴音の歌声が響いた。
私は知っている……
新メンバーオーディションから、僅か三年足らずで、彼女の新しい歌声が聴けなくなってしまうことを。
あのオーディションで、三万人の中から新メンバーとして選ばれたのは、たったの一人、14歳の瑠宇奈ちゃんだけだった。
フランス人の祖母の血を引いた彼女は、青い瞳に栗色の髪、色白で手足の長い美少女だ。
歌声も可愛く、ダンスも上手い。何より他の参加者が霞む程の、ぶっちぎりの愛嬌とオーラがあり、一般投票でも常に一位だった。
エースの理珠ちゃんが抜けた穴は、彼女が埋めてくれる……そう信じられていたのに。未だに理由はよく分かっていないが、僅か一年で惜しまれつつも脱退してしまった。
その後、他のメンバーのスキャンダルを引き金に人気も下降し、ラズリは解散を余儀なくされてしまったのだ。
たかがアイドルグループの解散。人はそう笑うかもしれない。
だけど自分にとっては、人生を左右する大きな出来事だった。たった一つの心の拠り所を失い、いじめに耐えながら何とか通っていた高校にも、徐々に行けなくなってしまったからだ。
瑠宇奈ちゃんが居てくれたら……スキャンダルがなかったら……ラズリはもっと長く活動を続けてくれていたのだろうか。
プロデューサーが代わったせいだという意見もあったけど、新体制になっても、ラズリのコンセプトや楽曲の方向性はほとんど変わらなかったのに。
「……何それ」
怒気を孕んだ声にハッと顔を上げれば、母が鬼の形相で空の皿を見つめていた。