2 心臓
「ラズリのオーディション……」
背後から聞こえる声に、ピタリと足を止める。
「従姉が送ったんだって。魚みたいな顔だから、無理だと思うんだけど」
「魚って!」
ケラケラ響く笑い声と、電車がホームに滑り込む爆音が重なる。
開いた車内にふらっと足を踏み入れると、後から続く女子高生達に引き寄せられる様に近くに立った。
「でもさ、理珠が居なくなったら、正直ラズリも終わりでしょ」
「理珠以上のエースが入れば、なんとかなるんじゃない?」
「ええ~駄目だよ!理珠が居るからラズリなんだもん。歌もダンスもビジュもさ。他の子だったら何とかなったけど、理珠だけは痛いよ」
「そんなもんかな……あっ!そう言えば化学のレポート、今日提出だ」
「やば……休み時間で終わるかな」
忙しなく次の会話に移っていく傍らで、冴子の心臓は、ばくばくと鳴っていた。
『今年の12月に、絶対的エース理珠の脱退が決まった、人気アイドルグループ、ラピスラズリ。
オーディションで新メンバーを迎え、生まれ変わることに…………』
思い出した……
朝テレビであのニュースを見た今日この日、私は学校で笑い者にされたんだ。
いつの間にか学校の最寄り駅に到着していた電車。同じ制服の学生が押し出される中、冴子は一人、ホームのベンチに腰掛けた。
何でよりによってこの日に戻って来たのだろう。
人生で一番辛かった頃の、一番辛い日に。
顔を歪め、両手で覆う。
……神様が罰を与えているのだろうか。ダラダラと生き、命を粗末にした私への罰を。
もう一度苦しめ、何度でも苦しめと、心臓をガンガン殴られている気さえする。
何度か電車の到着アナウンスを聞き流し、ふと顔を上げれば始業時間が迫っていた。今から行ってもどのみち遅刻だ。
どうしよう。何処へ行こう。行く所なんて何処にもない。
今日逃げても、また明日、同じ様に笑われるだけ。
家であの人に一日中罵られるのはもっと辛い。
かといって……
────今頃になって足が震え出す。
自ら命を絶つ勇気もない。
情けない足を何度か拳で殴り、のそりと立ち上がれば、重みから解放され軋むベンチの音。
冴子は苦笑すると、改札へ向かい歩き出した。
通っていた私立中学校の門は既に閉まっていた。インターフォンで体調が悪かったことを告げ、開けてもらうと、記憶を頼りに何とか玄関まで辿り着く。
14歳……三年……3-A……ここか。
ぽつりと一足だけ残った上履きを見つけ、自分の物だと確信すると、それに履き替えた。
教師の声だけが、微かに聞こえる静かな廊下。授業中の教室に入っていく勇気はない。
休み時間……何分からだっけ?
とりあえずトイレに籠り時間を潰すことにした。
チャイムが鳴り、生徒の声で賑わい始めると、そっと顔を出し教室へ入って行く。皆、お喋りや次の授業の準備に夢中で、誰も自分のことなど見向きもしない。
ある一団を除いては────
冴子に気付くと、肩を叩き、ニヤニヤと笑い合っていた。
退屈で平穏な授業を終えると、周りは友人同士集まり弁当を広げ出す。冴子は鞄から巨大なタッパーを取り出すと、ため息を吐いた。開けなくても中身は分かる。学生時代はずっとこの弁当だったから。
それでも何かが違っていたりしてと、淡い期待に覗き見るも、醤油とマヨネーズがかけられた大量の白米に絶望し、再び蓋を閉じた。
昔は心を空っぽにして、毎日この弁当を掻き込んでいた。とにかくお腹が満たせれば良かったから……
だけど今は、とても喉を通りそうにない。朝もまともに食べられなかったのだから、空腹なのは間違いないのに。
「鈴木」
ぞわっと悪寒が走る声。タッパーから視線を移せば、そこにはあの三人が立っている。
卒業してからは出来るだけ思い出さない様にと、記憶から離れていたのに、月日の経過など一瞬で無になった。
「これ、知ってる?」
差し出されたスマホの画面には、ラピスラズリの公式ホームページ。オーディションの募集要項が表示されていた。
「あんた、ラズリ好きでしょ?応募しといてあげたよ」
やっぱり……
「二次選考までに、20kg痩せます!痩せた私を楽しみに待っていて下さい!って書いといた」
三人はくっくっと腹を抱えて笑い出す。
「趣味、食べること。特技、太ること。夢は世界一周りを暗い気持ちに落とすアイドルになること。絶対受かるって!」
一人なんかは、笑い過ぎて涙を流している。
「書類審査の結果は郵送を選択しといたからね。通過したら25日までに届くみたいだから、絶対に教えてよ?」
本当の15年前は……ここで教室を飛び出した。
自分だけでなく、大好きなラズリまで貶されたみたいで……悲しくて苦しくて堪らなかったのだ。
恐る恐る焦点を合わせ、三人を凝視する。すると不思議なことに、昔は怖くて堪らなかったその顔の幼さに驚いた。そう言えばこの子達……名前何だっけ?
ひとしきり笑い落ち着いてきた三人は、期待していた反応が得られなかったことに気付き、首を傾げ始める。
やがて一人が、小馬鹿にした様に口を開いた。
「ねえ、大丈夫? 万一通過しちゃったらどうすんの。こんな弁当食べてて20kg痩せられる?」
冴子はすうと息を吸い込み、◯井か◯崎か未だに思い出せないその一人に向かって言った。
「……20kg痩せたくらいじゃ、細くて見た目がいいだけじゃメンバーにはなれない。ラズリを馬鹿にしないで」