1 恐怖の足音
何故……私は死んだ筈なのに。
これが走馬灯ってやつかしら。
それとも今までの、28歳までの人生が全て夢だったとでも言うの?
ドンドンドン
階段を上がる足音に思考が止まる。
ビクッと身体が跳ねてしまうのは、長年の条件反射というやつだ。
バタン!!
部屋のドアが乱暴に開く。
「冴子!いつまで寝てるの!」
久々に聞くヒステリックな怒鳴り声に震え上がる。
起きてベッドの上に座っている私を確認すると、忌々しそうな顔で言い放つ。
「起きてるならさっさと降りて来なさいよ!全く……だらしないのはその身体だけにしてちょうだい!」
再びバンとドアを閉め、彼女は出ていった。
……まだ、震えが止まらない。
そうか、この頃はまだ彼女が家に居たんだった。
私をこの世に産み落としただけで、私の全てを支配した“母”という存在が。
これ以上遅くなると、また何を言われるか分からない。
走馬灯だろうと夢だろうと、母には極力関わりたくないのだ。
私はベッドから降りクローゼットを開けると、中学の制服を取り出し素早く着替える
スカートのホックがキツいが、何とかお腹を引っ込め押し込む。増加し続ける体重に、何度も縫い直した跡が情けない。
適当に髪をとかし後ろで一つに結ぶと、重い足取りで階下へ降りた。
リビングのテーブルには、こんもりと山の様に盛られたご飯。あとは生卵と、サラダボウルに嫌がらせの様に入れられたポテトチップスだけだ。
「早く“エサ”を食べて出て行ってちょうだい。汗臭くてかなわないわ」
目の前に、ドンと醤油とマヨネーズを置かれる。
12歳で過食症になりバレエをやめてからは、彼女の中で私は、“娘”ではなく醜い“豚”になった。
いや、その前からきっと、娘としてなんて見られていなかった。彼女の承認欲求を満たす為の、単なる道具に過ぎなかったのだろう。
ご飯に生卵をかけ、醤油を垂らしてみるも食欲がわかない。
死ぬ時の、あの意地汚い食欲はどこへ行ってしまったのだろうか。
何とかスプーンに乗せ咀嚼していると、横から血管の浮き出た細い手が伸び、茶碗を取り上げられた。
「時間切れ」
そう言うと彼女は、茶碗の中身をゴミ箱にドサッと捨てた。
「あんたにも食欲がない時なんてあるのね」
冷たい声に心が凍り付く。
♪♪♪♪♪♪
どこかから安定剤の様に流れてくる曲。
そちらへ目を向けると、テレビの中でラピスラズリが踊っている。
『今年の12月に、絶対的エース理珠の脱退が決まった、人気アイドルグループ、ラピスラズリ。
オーディションで新メンバーを迎え、生まれ変わることに。現在既に締め切りを終え、全国から送られた三万通を超える応募書類の中から一次選考中。果たして理珠を超えるエースは現れるのか』
プツリ
画面が暗くなる。
振り返れば、リモコンを持ち無表情で佇む彼女。
「くだらない」
くだらない。たった五文字のその言葉に、私は何度打ちのめされてきただろう。
「早く行って」
放り投げる様に、弁当箱を渡された。
大きな門を閉め、逃げる様に家を後にするが、新たな不安に襲われる。彼女からは解放されたが、今度は学校という地獄が待っているからだ。
そう、この頃の自分には居場所がなかった。唯一あるとすれば、イヤホンから流れるラピスラズリだけだった。
クラシック以外は聴くことを許されなかった私が、初めて感動したのが彼女達の曲で。
素直で胸を打つ歌詞が、劣等感しかない自分を癒してくれた。
“私の好きな私のまま”
そんな風には思えなかったけれど。
やっぱり……ここは天国じゃなく地獄なんだ。
人生で一番辛かった頃に、もう一度引き戻されてしまうなんて。
どうしたらここから抜け出せるのだろう。
考えている内に足は勝手に動き、駅の改札までやって来てしまった。
ガヤガヤした朝の喧騒。久しぶりに味わう人の群れに吐きそうになる。無理もない……もう何年も、あの部屋と歩いて3分のコンビニしか往復してなかったんだもの。
逃げてしまおうか。
どこに?
ふらふら歩いていると誰かに肩がぶつかり、チッと舌打ちをされた。
「デブ!」
胸が抉られる。
『間もなく、二番線に…………』
あそこに飛び込んだら、もう一度死んだら、今度こそ天国に行けるのだろうか。
徐々に近づく電車。
黄色い線から足を一歩踏み出してみる。