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街の本当に隅っこに、こじんまりとした厩舎があった。寝藁の素朴な匂いが、なんとも言えない心地良さを伴って鼻孔をくすぐる。
鹿毛の馬を寝床に導くと、やがて老人は大きなバケツを持ってやってきた。エサなのだろう。
フックに引っ掛けられたバケツに早速顔を突っ込み、草を食む馬である。老人に鼻先にニンジンを突き付けられると、ぼりぼりと勢い良く食べた。
わたしは馬に見惚れていた。すごいなあ、綺麗だなあ、可愛いなあと思う。鼻筋に、頬ずりしたくなるくらいである。
「こっちに来なさい」
老人にそう呼ばれ、厩舎の隣にある建物に入った。赤い三角屋根の小さな家だ。この街にあっては珍しい形状の建屋である。部屋の中央には丸太を半分に割ったテーブルが置かれている。なんとも洒落ている。ロフトがあって、そこが眠るのであろうことが知れた。
コーヒーを淹れてもらった。豆から挽いた上等なものだった。うん、美味しい。老人のセンスの良さが窺える。どんなことに対してもこだわりを持つニンゲンが、わたしは好きだ。
丸太のテーブルを挟んで、老人の顔に目を向ける。ちょっと難しい表情をされたのだけれど、わたしはニコッと笑った。
「ずっと昔から馬を飼っていらっしゃるんですか?」
「ああ。飼い始めてからはもう三十年も経つな」
「そんなに? 先にも言った通り、わたしは馬なんて初めて見たんですけれど」
「お嬢さんがどれだけこの街に詳しいのかは知らないが、そういうこともあるんだろう」
「わたしのご主人様は知っていたのかなあ」
「主人?」
「ええ。マオというんですけれど」
「えらくのっぽな二枚目か?」
「そうです、そうです。その通りです」
「じゃあ、わしが知っているマオさんは、お嬢さんが知っているマオさんでもあるんだろうな」
「彼はなんと言っていましたか?」
「いい馬ばかりですねとだけ言って、去っていきおったよ」
そうか。マオさんはこの場所を知っていたのかと、なかば感心した。けれど、彼ならわたし以上にこの街のことを把握していてもおかしくない。「いい馬ばかりですね」と言い残したあたりが、なんともそれっぽい。そこには微笑みがあったことだろう。
「どうして街中で馬を歩かせていたんですか?」
「たまには運動をさせてやらないとストレスがたまる。ニンゲンと同じだ」
「なるほど。そうかもしれませんね」
「昔は倍、いたんだがな」
「馬が、ですか?」
「ああ。四頭分の寝床があっただろう?」
「確かにそうでしたけれど、他の二頭は死んでしまったんですか?」
「大往生だったよ。悲しみより先に、お疲れ様という言葉が浮かんできた」
ちょっと、しゅんとなってしまった。けれど、老人が大往生だと言うならきっとその通りで、だから死んでしまった二頭の馬は、幸せだったのではないだろうか。
「その内、もう一頭、見送ることになりそうだ」
「そうなんですか?」
「白い馬がいただろう?」
「ええ。厩にいましたね」
「あれはもう、だいぶん歳なんだ。知っているか? 芦毛の馬は歳を重ねるたびに白くなっていくんだよ」
「それは初めて聞きました」
わたしは何気なく口を付けていたコーヒーカップに目をやった。白い馬が緑の丘を駆けている様子が優しく、また愛らしいタッチで描かれている。このモデルが、まもなく天寿を全うしようとしている白馬なのではないか。そんなふうに思わされる。乗っているのは茶色い髪をした女性だ。髪を後ろになびかせ、颯爽と馬を走らせている。
「その絵を描いたのは、ばあさんだよ」
「奥様ですか?」
「ああ。もう五年も前に死んでしまったがな。焼き物が趣味だった。自分が馬を駆る様子を描いた理由は、今になってもよくわからん」
「馬のことと、馬に乗るご自分のことが好きだったんでしょうね」
「お嬢さんは物事を素直に捉えるんだな」
「このカップ、いただきたいくらいです」
「持っていったらいい」
「そんなこと、できません。おじいさんと奥様の思い出の品じゃありませんか」
「芦毛のアイツはおてんばだ。わしでもまともに乗りこなせないくらいだ。だが、女房の言うことだけはよく聞いてな。それがまあ、なんとも微笑ましく映ったものだ」
「おてんばってことは、女のコなんですか?」
「ああ。女同士、気が合ったのかもしれん」
「今度、乗馬を教えてください」
「馬に乗れたところで、なんの役にも立たんぞ?」
「そんなことはありません。車を走らせるより、よっぽどイケてます」
「今時、そんなふうに考えるニンゲンは珍しい」
「わたしは馬が大好きです」
「わかった。いつでもいいから来なさい。知っていることは教えてやろう」
「やったーっ!」
わたしは子供みたいに万歳をした。




