13.『成し遂げた少年』 13-1
珍しい話だ。
フェイ先生から事務所に連絡があった。マオさんが失踪してから初めてのことである。なんだかんだ言っても、彼女が彼を恋人のように扱っていたのは知っている。ことあるごとに抱いて抱かれる間柄にあったそうだから。
そんなフェイ先生からすれば、マオさんに対して思慕の念を向けることをやめないわたしは邪魔でしかなかないのかもしれない。いや、邪魔なんかじゃないのかもしれない。何せわたしは二人から子供扱いされるばかりで、一人の女としてはけして認めてもらえなかったのだから。
マオさんとフェイ先生との間には、独特の色っぽい空気が流れていた。それは認める。そのことが悔しくなかったのかと問われれば、肯定するしかない。
フェイ先生はマオさんの体のことも心のことも、きっとたくさん知っている。そう考えてネガティヴな思考に走ってしまうあたりが、わたしのウィーケストリンク。鎖は弱い輪のところで切れる。だからこそ、彼に愛されていたのだという自信を持って、彼女と向き合う必要がある。
とある路地裏にある建屋に着いた。黄ばんだコンクリート造りの建物である。表に大々的に『フェイ・クリニック』などと示す看板はない。基本的に彼女には商売っ気などないということは心得ている。
表から続く階段をのぼって、曇りガラスの戸を開けた。待ち合いの席には患者が二名。いずれも緑色の安っぽい丸椅子に腰掛けている。その二人が、一人、また一人とはけた。「次」という低い女性の声を受けて、わたしは椅子から立ち上がった。「よしっ」と声を発しつつ、ぴしゃぴしゃと両のほおを叩いて気合いを入れた。
ナイロン製の、水色の薄いカーテンを開けた。値が張りそうな革張りの黒い回転椅子にフェイ先生は座っていた。ノートにぐちゃぐちゃと円を描いていて、そんな様子のまま、「まあ、座れ」と言ってきた。なので、患者が座るべき丸椅子につく。
フェイ先生の美貌は異常だ。もう四十という話だが、若々しさと歳に見合うだけの色香を併せ持っている。黒いタイツに包まれた太ももやふくらはぎなんかはこの上なくきめ細やかですべすべのはずだし、ニットを押し上げている胸はことのほか大きい。わたしが知る女性の中で見た目はダントツだ。切れ長の目には涼やかさを、薄い唇にはスマートさを感じる。わたしは四十を迎えても彼女のように蠱惑的でいられるだろうか。
「ご無沙汰しています」
「ああ。ちょっと見ないうちに、デカくなったな、メイヤ嬢」
「大きくならざるを得なかったんです。自分の身は自分で守る必要がありますから。子供でいていい時間は、もう終わったんです」
「想い人と別れた場合、女は強さと魅力を増すものだという事例が数多くあるように思う」
「お言葉ですけれど、わたしはまだ、マオさんと切れたつもりはありません」
「言うようになった」
「一ミリたりとも、マオさんのことを先生に渡すつもりはないです」
「本当に、言うようになった」
フェイ先生はペンを止めると、小さく肩をすくめて見せた。「そう怖い顔をするな」と言ってくる。知らないうちに身構えていたらしい。わたしは深く吐息をついて、彼女と改めて向かい合った。
「マオの動向はとっくに聞き及んでいる。どうやらおまえのことが相当可愛いらしい」
「誰から聞いたんですか?」
「ミンからだ」
「彼も結構、口が軽いんですね」
「私が何か知っていないかと問い質したから、答えるしかなかったんだろうさ」
「まあ、フェイ先生に問い詰められると、折れるしかなさそうであるようには思います」
「おまえの考えとしては、どうなんだ?」
「そばにいてさえもらえれば、それで良かったんですけれどね」
「ヤツにはヤツの考え方がある。そして、ヤツにはヤツの正義がある。それを止める術は、誰であろうと持ち合わせてはいない」
「フェイ先生が泣いてせがんでも、足を止めさせるのは無理でしたか?」
「私が泣いてせがむと思うのか?」
「思いませんけれど」
「わたしはヤツのセックスフレンドにしかすぎなかったのさ。まあ、それでも充分、おまえの嫉妬を引き出せるとは思うが」
「はい。わたしは彼とセックスがしたいです」
「本音が聞けたな。なら、いい」
フェイ先生はわたしを見て微笑んだ。大人の笑みだった。
「依頼について話そう」
「お願いします」
「最近、足しげく通ってくる少女がいてな」
「少女、ですか?」
「といっても、年齢は今年で二十歳を迎えるそうだ。別に精神的な疾患を抱えているわけじゃないんだが、とにかくここを訪ねてくる」
「その彼女は何を述べているんですか?」
「クライアントの住所は教えてやる。上手いこと話を聞き出して、限られた情報の中で、ことを解決して見せろ」
「無茶な話ですね」
「そう思うか? 私自身としては、おまえの力試しには持ってこいの案件だと考えているんだが」
「力試し、ですか」
「いけないか?」
「そうは言いませんけれど」
「拒むか?」
「いえ。お受けします」
「はなからそう言えばいいんだ」
「どういう案件なんですか?」
「だからそれもクライアントから直接聞き出せと言っている。おまえを試すことは、もう始まっている」
「わかりました。幸い、手が空いていることですし、最優先で対応します」
「いい結果が得られることを望んでいるよ」
「わたしはもういっぱしの探偵でいるつもりです。あとはこちらで引き受けます」
「そうであるなら、もはや何も言うまい」
フェイ先生が口元を緩めた。クライアントの住所であろう、それを綺麗な字でしたためえて、ノートの切れ端を寄越してきた。
「クライアントは背を押してもらいたがっているように見える。だからたびたび、訪ねてくるんだろう。しかし、彼女に迷ったふうなところはない。ただ単に、誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれないな」
「お話の内容については、理解しました」
「案件を解決してくれるよう、首を長くして待っているよ、メイヤ嬢」
「いい加減、メイヤ嬢っていう子供扱いはやめてください」
「本件を上手い具合に処理できたら、やめてやろう」
「約束ですよ?」
「ああ。約束だ」




