8.『スプリンクラーは回らない』 8-1
娯楽の街、『龍津フロント』にある、知り合いのアパートに到着した。親友と言っても過言ではない女性のもとを訪れたのである。
その親友、ジンリンさんは、以前は実に粗末な部屋に住んでいたのだけれど、今は違う。ワンランクアップした住まいで暮らしているのだ。
インターフォンを鳴らして待っていると、まもなくして玄関の戸が開けられた。ジンリンさんが飛び出してきて、彼女が「メイヤちゃん、こんにちわっ」と抱き付いてきた。「こんにちわぁ」と柔らかに挨拶を返し、その熱いハグにわたしは応えたのだった。
ジンリンさんとは電話でしばしば連絡を取り合う間柄だ。そんな繋がりが出来たのは、マオさんのおかげである。彼女が抱えていた問題を彼が取り除いたことから縁が出来、それで付き合いが始まった。
問題というのは、端的に述べると、ジンリンさんとの間に子をもうけた男性、セイエイさんが、至極真っ当な考えを持っていることに起因していた。彼はミュージカル俳優になりたいという夢を捨てて、なんらかの手堅い職につき、彼女と子を養おうとしたのである。
それがジンリンさんからすると我慢ならなかった。「夢を諦める男になんの魅力が?」とまで言ったくらいである。けれど、色々とあったすえ、結果的には上手く回った。彼女はセイエイさんが夢を追い続けると語ったことを歓迎し、だから夫として迎え入れることを決め、彼を赤ちゃんの父親だと認めたのである。もう二年以上も前のことだ。
ジンリンさんが向かいのソファに腰を下ろしたところで、わたしは出してもらった紅茶に一つ、口を付けた。カップをソーサーに戻し、それから白い天井を仰いで、その高さを実感した。
「思っていたより、ずっと広いアパートです」
「そう?」
「旦那様はしっかりやっているんですね」
「本業よりアルバイトで忙しいみたいだけれど」
「どっちも頑張るって言ったのはセイエイさんです」
「ええ。だから感謝しているわ。今の私はとっても幸せ」
ジンリンさんの子である娘さんが、「おねー、ちゃぁん」と、たどたどしい声を発しながら、ソファに乗り上げてきた。
わたしが「可愛いなあ」と言って抱き止めてやると、娘さんは、きゃっきゃとはしゃいだ。
不意にジンリンさんが表情を曇らせた。
「マオさんがいなくなってしまって、寂しくないの?」
「それはもう寂しいです。泣きそうになるくらい寂しいです」
「当たり前よね、そんなこと」
「でも、いつか帰ってきてくださるものだと信じています」
「メイヤちゃんは本当に強くなったわね」
「わたしだって、もういい大人ですから」
「どうしていなくなってしまったの?」
「ジンリンさんが相手だからお答えしますけれど、わたしの頬や背中を傷付けた男がゆるせなかったみたいです。そういった文言が置き手紙に記されていたんです」
「そう……やっぱり優しいのね、マオさんは」
「マオさんは迷われたはずなんです。わたしのそばに居続けるか、犯人を追い詰めるか」
「マオさんは後者を選んだ」
「らしくないですよね。とても感情的になっていたみたいですし」
「それだけメイヤちゃんのことが大切だってことよ」
「わたしも赤ちゃんを産んで、家庭に入りたいなあ」
「セックスはしたの?」
「いきなりスゴいことを訊いてきますね」
「ねぇ、どうだったの?」
「彼には子供扱いされっぱなしでした。抱いてもらえるなんてことはありませんでした」
「もし、マオさんがいつになっても戻ってこなかったらどうするつもり?」
「やがては自殺すると思います」
「それって本音?」
「勿論です」
「マオさんは罪な男ね」
「ホント、まったくですよね」




