1.『偽りの妊婦』 1-1
マオさんが行方をくらましてから一年ほどが経過したある日、わたしは玄関のドアに貼り付けてあるプレートを変更した。『マオ探偵事務所』だったものを、『ガブリエルソン探偵事務所』に変えたのだ。でも、マオさんがひょっこり帰ってくるようなら、元に戻すだろう。彼が探偵をやってくれるなら、わたしは一生助手でも構わないとすら考えているくらいだ。
プレートを変えるにあたり、ファーストネームとファミリーネーム、どちらにしようか迷った。『メイヤ探偵事務所』のほうが覚えやすいし語呂もいい。けれど、名を用いることにはいささか幼稚さを覚え、そこで姓にしたのである。といっても、街中ではもっぱら『メイヤちゃん』で通っている。いきなり、「これからはガブリエルソンと呼んでくださいっ」と呼び掛けたり言い広めたりするのも変な話だろう。
今日も午後は事務所に籠っている。朝、出掛けに斜め読みした新聞を熟読している最中だ。客は来ない。「探偵の仕事なんて少ないほうがいいんだよ」とマオさんはしょっちゅう言っていたし、街の安寧、人々の幸せを願うのであれば、あるいはそう考えるのが正しいのかもしれないとも思えるのだけれど、私は彼と比べるとアクティヴなニンゲンなので、暇を持て余すのは結構嫌いで、苦手なのである。
朝刊を読み終えた。一度、伸びをしてから、今度は夕刊に取り掛かろうとする。
その時、インターフォンがヴーッと鳴った。
若干、心が躍った。このへんがよろしくない。探偵たるもの、いつ何時も沈着冷静でなければならないからだ。まだまだ修行が足りないのである。戒めの意味を込めて両の頬を両手で張った。
デスクからすっくと立ち上がって玄関へ。覗き窓から来訪者を確認。
長い黒髪の女性が立っていた。
「あの、探偵さんだと伺って……」
「お一人ですか?」
「はい」
「下がってください。ドアを開けますから」
女性と対面。彼女はこちらの顔を見た瞬間、驚いたようだった。驚かないほうがおかしい。わたしの左の頬には、縦に走っている大きな縫い傷があるのだから。
見てはいけないものだと思ったのか、女性はさっと目を逸らした。「気になさらないでください」と言うと、「すみません……」という謝罪が返ってきた。見た感じの通り、礼儀正しく、また穏やかな人物であるようだ。わたしは彼女を客人用の二人掛けに座るよう促した。
二人分の水をやかんで沸かして紅茶を振る舞い、わたしは女性の向かいのソファに腰を下ろした。
「ありがとうございます。恐れ入ります」
「お茶を出すのはマナーですから。それで、どういった用向きでしょう。ご依頼ですか?」
「その依頼というより、相談というか……」
「なんでもお話しになってください。無論、力になると確約することはできませんけれど」
女性から申し訳なさそうな表情が消えた。代わってに深刻そうな顔を向けてくる。
「息子がその、クスリに手を出しているみたいなんです」
「ドラッグですか?」
「ええ」
「息子さんはハイになる? それともやけに静かになる?」
「ハイになります」
「だとすると、アッパー系ですね。なんだろう。コカインかしら」
「ウチは貧乏なんです。ゆとりなんかありません。でも、息子は暴力を振るってまで家のお金を巻き上げるんです。このままではそう遠くない未来に破産してしまいます」
「ご主人はどのように対応されているんですか?」
「十八で結婚したんですけれど、夫は昔から気の小さなニンゲンなんです。だから、無力というか無抵抗というか……」
女性は涙を流し始めた。
「実は夫との間に赤ちゃんができたんです。十五年ぶりの妊娠でした。だけど、息子の暴力で流れてしまいました。それがつらくて、悲しくて……」
「警察には話を持っていかれましたか?」
「勿論です。でも……」
「まともに取り合ってはもらえなかった?」
「それってどうしてなのでしょう?」
「ドラッグが絡んでくると、滅多なことがない限り、警察は動かないんです。少し端折った言い方をすると、彼らはドラッグの流通に一枚噛んでいるということです。自身らが賄賂を得たいがために、一定数の売人は野放しにされ続けるんですよ。警察官の全員が甘い汁を吸っているとまでは言いませんけれど」
「そうなんですか……」
「この街における麻薬の諸事情は根が深い。貴女の息子さんと接触している売人、ひいては組織にも、独自の入手ルートがあることでしょうね」
「だとすれば、そのルートを断てばいいということですか?」
「そうすることがどれだけ困難であるかは、ご想像がつくのでは?」
「それは、まあ……」
「率直に言うと、わたしでは力不足です」
「だったら、私はどうすれば……」
「中毒者のケアを専門とする病院に預けるのがベストですね。もっとも、そんな気のきいた商売を生業としている施設は、この街では聞いたことがありませんけれど」
「他の街で探せばありますか?」
「ここよりひらけた街にはあるだろうと思います」
「入院させるにも、お金がかかりますよね……」
「ドラッグでお金を失うよりは、よっぽど安くつくはずです」
「そうなんでしょうけれど……」
「特効性のある提案をできずに申し訳ありません」
「いえ。病が病ですから。そう簡単に治癒しないことはわかっていました」
女性は「きっと話を誰かに話を聞いていただきたかったんだと思います」と言い、「ありがとうございました」と、お行儀良く会釈した。
「それにしても、少年少女にまでクスリが蔓延している現状には危機感を覚えてなりません。世も末とはこのことです」
「探偵さんは麻薬の撲滅に関して、何かご活動を?」
「どうしてそう思われるんですか?」
「正義感がとても強そうだからです」
「正義感という言葉はあまり好きでないんですけれど、実は時々、市民のかたがたにビラを配っています。ささやかな啓蒙活動のつもりです。でも、響いているような手応えはありません。もういっそ、ヤクザの事務所に乗り込んで話をつけてやろうかしら」
「すぐにルートは断てずとも、ヤクザと交渉することはできるんですか?」
「何人か知り合いがいますから、釘を刺すことくらいはできます」
「驚きました。貴女のような美しいかたが、非合法の商売に詳しいだなんて」
「頬の傷があっても、綺麗に見えますか?」
「それはもう」
「まあ、傷があろうがなかろうが、わたしはわたしでしかありませんけれど」
「立派なんですね」
女性はやっと、ふふっと笑ってくれたのだった。