4.『わたしは彼女のことが羨ましい』 4-1
その日の午後、ジムを訪れた。精神だけではなく肉体的にもタフであるために、わたしはムエタイをやっている。
拳や蹴りを浴びせ、サンドバッグを激しく揺らす。ウォーミングアップだ。準備が整ったところで次はスパーリング。リングに上がる。相手は浅黒い肌の若い男性である。このジムに女はわたししかいない。大して月謝は取られないので女性もチャレンジしたらいいのになと思う。いい運動になるし、だからダイエット効果も抜群だろう。ちょっと太ってきたなあと感じているヒトには是非おすすめしたい。
男性がグローブを付けた両手を顔の前に掲げ、右足をリズミカルに上下させてテンポを刻む。わたしも同様の構えをとる。勢い良く左のミドルキックを放ってきた。咄嗟の反応。右脚を上げて太ももで受け止める。すかさず前進。顔面に右のストレートを打ち込み、ガードされると、左のボディブローを二発、それから右のローキックというコンビネーション。彼は上から下まで鍛え抜かれた肉体を有しているのでビクともしない。激しい攻防の末、リミットの五分を迎えたのだった。互いに礼をしてリングを下りる。
丸椅子に座ってスパーリングの様子を眺めていた師匠、ニウ老人に笑みを向けられた。
「一見すると互角だが、メイヤの方が優勢じゃったな。本当に大したもんじゃ」
ニウ老人はわたしのことを天才だと言う。自身が長年をかけて熱心に教え込んだ弟子に勝るほど、こっちがごりごりと押し込むことから、そういった評価になるのだろう。尊敬する彼に買ってもらえるだけで自信に繋がる。自分は強いのだと確信できる。
こちらが「師匠のご指導のおかげです。ありがとうございます」と微笑すると、ニウ老人は「わしが教えてやれることはもうない。これからは自分で考えて工夫して精進しなさい」と言った。だから「はいっ」と元気良く返事をした。わたしが常にはつらつとしているところも、ニウ老人のお気に入りであるらしい。
簡素なロッカールームにてタオルで汗を拭い、洗面台の鏡の前に立った。二の腕が一回り太くなった。腹筋もついた。後ろ姿を見ると背筋も著しく発達していることがわかる。こんな筋肉質な体は、男性からすれば抱き心地があまり良くないことだろう。
着替えを入れた小ぶりなボストンバッグを肩に掛け、師匠に「失礼します」と挨拶をしてからジムをあとにする。家路に着く。その道中、気付いた。「あっ」と思わず声も漏れた。
そういえば、今日はシャオメイさんの命日だ。
シャオメイさんとは、かつてマオさんが愛した女性である。数年前に肺癌を患って亡くなったらしい。同棲していたと考えられるのだけれど、その当時、二人は事務所で暮らしていたのだろうか。だったら、彼女はソファで寝ていた? それとも、別にアパートでも借りていた? そのへん、訊いたことがない。まあそんなこと、どうでもいいか。
事務所に戻ってから、さて、どうしたものかと考えた。マオさんの代わりにお参りに行ったほうがいいだろうか。
ソファにつき、腕組みをしながら、十分ほど迷った。結果、向かうことにした。「よしっ」と気合いを入れて立ち上がる。ボルサリーノをかぶって外に出ようとする。
その時、インターフォンがヴーッと鳴った。わたしは「はーい」と返事をした。覗き窓から外を見やると、太った女性が立っていた。中年だろう。一人らしい。
中に通すと、太った女性は、「私は客だよ。どこに座ればいいんだい?」と横柄に問うてきた。わたしは客人用の二人掛けのソファに促した。「お茶を用意しますね」と言うと、「そんなものはいいから、早く依頼を聞いておくれ」との返答があった。焦っているようには見えない。せっかちなだけなのだろう。嫌いなタイプのニンゲンだけれど、話を聞かないわけにはいかない。だって探偵なのだから。
「頬の傷はどうしたんだい?」
「お気になさらず」
「ふん。まあ、いいさね」
「ご用件をお話しください」
「旦那がウチに入れる金がえらく減ったんだ」
「それが何か問題ですか?」
「大問題だよ。新しい服も買えなけりゃ、若い男もろくに買えやしない」
「若い男も買えない、ですか」
「いけないかい?」
「ご主人に対して、いささか不誠実であるように思えます」
「そう言われるとそうなのかもしれない。だけど、それは旦那も容認してくれていることでね」
「そうなんですか?」
「馬鹿な男だよ。私には見向きもされていないって、嫌ほどわかっているだろうに」
「そんな男性と、どうして一緒になったんですか?」
「決まっているじゃないか。旦那が私に惚れたからさ。精一杯稼ぐと言って、実際、金を寄越してきたからさ」
しょうもない女性だなと思う。働かないで金を得たいだなんてもってのほかだ。彼女と一緒になることを選んだ男性は、この太った、到底美しいとは言い難い女性に何を見ているのだろう。
「ご主人が家に入れるお金が減ったということですけれど、その点について何か話してもらったとことはないんですか?」
「問い詰めても口籠るんだ。気の小さなニンゲンなんだ。何か下手なことを口にして、私から咎められることを怖がっているんだろうね」
「それで、貴女はわたしに何を依頼したいと?」
「だから、旦那の給料がどうして擦り減ったのかを知りたいんだ」
「そんなこと、知ってどうするんですか? その理由を把握したとしても、貴女の生活に潤いがもたらされるということはないと思いますけれど」
「旦那は今月の稼ぎのすべてだと言って、私に給料を渡してくる。だけど、それって嘘じゃないかって思っているんだ」
「というと?」
「給料の一部を懐に入れて、女でも買っているんじゃないかって考えているんだ」
「その兆候でも?」
「そんなものはないさ。だけど、私は疑ってる」
「げんに貴女は男娼を買われているわけです。でしたら、『娼館』に通うくらいはゆるしてあげてもいいのでは?」
「嫌だね。旦那の金は、すべて私のものだ」
「強欲なことですね」
「うるさいよ。で、受けるのかい、受けないのかい。旦那の行動の調査なんて、仕事にはならないのかい?」
「いえ。そういったお題目の依頼が多いのは事実です」
「報酬は? 高いのかい?」
「場合によっては、それなりの金額をいただきます」
「折衝というわけだ。なんだったら、他の『興信所』に話を持っていってもいいんだよ?」
「折衝をしているつもりは、ありません。実際、同業者よりは安く請け負っているつもりです」
「だったら、黙って仕事をしな。こちとら、金を払ってやるって言っているんだからね」
「ご主人のお名前は?」
「レンジィだ」
「特徴は?」
「眼鏡を掛けているひょろ長い男だよ。ひときわ背が高いから、見たらすぐにそれとわかるはずさね」
「勤め先の住所を教えていただけますか?」
「そんなもの知らないよ」
「会社の名前くらいは、ご存じありませんか?」
「それくらいは知ってる」
「でしたら、教えてください」
「『ダン出版社』だ」
「比較的大きな『出版社』ですね」
「ああ。主に週刊誌で稼いでいるらしいね」
「そう聞きます」
太った女性はピチピチに張っている紫色のブラウスの胸ポケットからしわくちゃの紙幣を取り出し、それを投げるようにしてテーブルに寄越した。三万ウーロンある。
「前金だ。これでいいんだろ? 要らないってんなら返しな」
「いえ。ありがたく頂戴することにします。ところで」
「なんだい?」
「ご主人の動きを知りたいのであれば、一度、朝から晩まで後をつけてみればいいと思いますけれど」
「それが面倒だから依頼しているんだ」
「お金を支払って調査を依頼するほうがまだマシだと?」
「ああ。あんな男に時間を割くだなんてもったいない。暇があれば、私は若い男に抱かれていたいんだ」
「納得しがたい理由ではあります。でも、事情はわかりました。早速、明日から調べてみます」
「ああ。そうしておくれ」




