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0.『メイヤ・ガブリエルソン』

 二十歳を過ぎた。


 無様な自分を切り離すことにした。

 幼稚な無鉄砲さを捨て去ることにした。

 ちゃちな正義感を振りかざすのもやめることにした。


 子供っぽい口調もすっかり変わった。自然に変化したと言っていい。一人の大人になったのだという自覚がそうさせたのだろう。


 探偵であるわたしの一日は、まず外回りから始まる。午前中にあちこちの知り合いに「何かお困りのことはありませんか?」と訊いて回るのだ。


 午後は大抵、事務所で過ごす。訪ねてくるクライアントを迎えるためだ。電話で相談事を寄越すニンゲンなどまずいない。大体が直接訪ねてくる。探偵に仕事を依頼するなんてよっほどのことだ。だからみな、顔を突き合わせて話をしたいと考えるのだろう。


 生活にはそれなりにゆとりがある。探偵業というのは、あまり経費がかからないからだ。ひとたび案件を請け負ってしまえば、それなりに利益を上げることができる。


 わたしには『前任者』が残してくれた結構な額の貯金がある。それに手をつけようとは思わない。食い扶ちくらいは自分でなんとかする。それが探偵を勤めていくにあたって自らに課したルールだ。


 昔は「たくさんたくさん服を買ってくれーっ」と激しくねだって、しばしば『前任者』を困らせたものだけれど、今のわたしには一張羅のカーキ色のジャケット、それに白いブラウスとブルージーンズがあれば充分だ。

 

 でも、そんなふうに着衣に頓着しなくなった今でも欠かせない装備というものがあって、それは茶色いボルサリーノである。二年以上も前に、『前任者』の助手になった記念として、その『前任者』から譲り受けたものだ。以来、外に出る時はいつもかぶっている。ずっと大切にしているのだ。もはや体の一部と言っても差し支えがない。


 さて、昼までは外に出て、以降は事務所で待機というスケジュールで毎日行動しているわけだけれど、今日は朝一で来客がある。いや、厳密には客ではない。とある業者が、とある物を納めにやってくるのだ。


 インターフォンがヴーッと鳴った。


 一応、覗き窓から相手を確認。白い半袖のポロシャツを着た男性が立っている。彼は大通りに店を構える『家具屋』の主人だ。


 解錠しているドアを押し開け、外に顔を出す。主人の他にもう一人、黒いTシャツ姿のがっちりとした体格の男性がいた。彼らが浮かべる笑みは揃って人懐っこい。


 二人を中に通した。


 わたしが「電話で言った通りです。納品は午後で良かったのに」と言うと、『家具屋』の主人は「実は首を長くして待っているんじゃないかと思ってな」と笑った。


「それで、このおふるはどうする? 本当に処分しちまっていいのかい?」

「はい。捨てちゃってください」

「プロの目から言わせると、そうもいかないな」

「ひょっとして、売る気なんですか?」

「ああ。使い込まれているようだけど、しながいい。これだけ深みのある黒いソファをゴミに出すのは気が引ける」

「じゃあ、買い手を見付けてあげてください」

「そうさせてもらうよ」


 彼らは協力して黒いお古を運び出した。続いて、通路に置いてあった新しいソファを運び入れる。クローザーの付いたドアをわたしが目一杯開けている間に搬入された。あらかじめ玄関の横幅を確かめてからオーダーしたのだけれど、通すにはギリギリだった。


 ソファのセッティングまで終えた二人に冷たい麦茶を振る舞おうとした。けれど「いいから、いいから」と遠慮され、だからわたしは階段を下りた先で「バイバーイ」とトラックを見送った。


 階段を駆けて二階へと上がり、足取りも軽く通路を進み、事務所のドアをオープン。


 新しいソファ。

 深い緑色のソファ。

 やっぱりいい。

 スゴくいいっ。


 客人用は二人掛け、テーブルを挟んだ向かいには優に四人は座れる。カタログを見て一目惚れして、海外から取り寄せてもらった。それなりに値が張った。奮発したのである。


 長いソファを選んだのにはわけがある。わたしはその上で眠るからだ。以前の二人掛けは少なからず窮屈だった。でも、四人掛けともなると大いに体を伸ばして寝ることができる。


 では何故、寝床にソファを選ぶのかという話になるわけだけれど、広いとはいえ一間しかない事務所にベッドは似合わないからだ。どこに設置したって不自然に見えてしまう。イレギュラーに感じられてしまうことうけあいなのだ。


 室内にあるのはソファセットの他に、デスクとキッチンと冷蔵庫、それにスチール製のファイル棚とポールハンガーと三段重ねのカラーボックス、あとはテレビと大きな壁掛け時計。必要な物しかない。飾りとして認めているのは二枚の鉛筆画のみ。


 ソファの座り心地を確かめた。柔らかすぎず硬すぎず、いい塩梅だ。これからよろしくと心の中で唱えつつ、背もたれにキスをした。


 さてと、と腰を上げた。多少の遅刻ではあるものの、今日も外に出て街の様子を窺おうと思う。


 洗面所に入り、鏡の前に立った。わたしの左の頬にはけして消えることのない大きな縫い傷がある。憎たらしい傷だ。だけどこの傷こそ、わたしの最大のアイデンティティ。 


 わたしの『前任者』であり、『ご主人様』でもあった人物はどこに行ったのだろう。わたしが愛してやまない、真っ黒な瞳の『あのヒト』は、今、どこで何をしているのだろう。


 また会えたらいいなって思う。

 また会いたいなって強く願う。


 両のほおを両手でパンパンと叩いて気合いを入れる。


「それじゃあマオさん、今日も行ってきますね」


 わたし、メイヤ・ガブリエルソンは『彼』の名を呼び、鏡に向かって微笑んだのだった。


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